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  • 北条五代
 2019/06/14

「北条綱成」2代氏綱から5代氏直まで仕えた "地黄八幡" の闘将

北条綱成のイラスト
北条家という一族は、我々がよく知る信長や家康が登場するはるか以前から関東を中心に勢力を維持していた大名です。それゆえに、初代の伊勢宗瑞(北条早雲)から5代の北条氏直まで、戦国時代の歴史がほぼそのまま北条家の歴史と合致します。

このように戦国とともに生き、そして滅んだ北条家を見届け続けてきた人物がいます。それが北条綱成です。彼は「地黄八幡」と称され、長きにわたって北条家に仕え続けていました。

この記事では、そんな綱成の生涯を史料や文献に基づいて解説していきます。
(文=とーじん)

これまで通説だった綱成の出自は創作か

北条綱成は、今川氏親の家臣であった福島正成の嫡男として永正12年(1515年)に誕生し、幼名を福島勝千代と称した、というのが通説となっていました。これは、『寛政譜』の系図にそう記されているためで、一応の史料的な裏付けも存在します。

また、綱成が今川氏の配下でありながら、北条家に仕えた理由としては、次のような背景が語られることも多いです。

「正成は大永元年(1521年)の飯田河原の戦いで自身を含む一族の多くが武田家臣・原虎胤に討ち取られた、もしくは天文5年(1536年)に勃発した今川家の家督争い・花倉の乱において福島氏を母に持つ今川良真(玄広恵探)を支持したことで討死したため、その後の綱成は小田原へと落ち延びて北条氏綱の保護を受けた── 」

といった内容が大筋にあたります。その後、

「綱成を大いに気に入った北条2代目当主・北条氏綱が娘を娶らせ、一門に迎えて北条姓を与えたため、綱成の名乗りも氏綱の偏諱である「綱」と父・正成の「成」を合わせたものになった── 」

というのが主な通説です。

しかしながら先行研究では、父とされた福島正成は実在が確認できず、彼の死後に氏綱が遺児を引き取るというのは整合性に欠けるところがあると。そして彼の実父にふさわしいのは伊勢九郎(別名・櫛間[くしま:福島]九郎)という人物、と指摘されています。

このことから、今川から北条へと落ち延びたという話はあくまで創作と考えるべきでしょう。ただ、九郎の別名からわかるように綱成が福島氏出身の人物であることは間違いなく、北条氏と福島氏には何らかの姻戚関係があったと推測できます。

比類なき活躍で「地黄八幡」として有名に

綱成は、氏綱から信頼を獲得していた父の死により、軍事面での絶対的な権力を付与されたと考えられます。その証拠が「北条」の姓であり、一門に準ずる待遇であったといえるでしょう。

綱成はその信頼に応える形で戦においては無類の強さを誇ったとされ、彼の比類なき活躍は当時の文書史料からも確認することができます。

天文10年(1541年)氏綱の死去に伴い、家督を継いだ3代目北条氏康からも引き続いて信頼されていた綱成は、氏綱の子・北条為昌の後見役を任されました。翌年、為昌が亡くなったことで彼の養子という形で玉縄城主となっています。

数々の軍記物などで彼の勇姿は後世にも轟き、綱成は黄色地に染められた「八幡」と書かれた旗指し物を使用していたことから 「地黄八幡(じきはちまん)」と称されました。

地黄八幡は「直八幡」の発音に通じ、自身が八幡の直流であるというアピールをしていたという説も存在します。 この「地黄八幡」に関する逸話は二次史料が主な出典ではありますが、江戸時代後期に編纂された江戸幕府公式の系図集『寛政譜』にもこの逸話に関連する記載が登場しています。

さらに、彼の活躍を象徴する逸話としては、『異本小田原記』という軍記物に記されている天文15年(1546年)河越夜戦における活躍でしょう。

この戦に際して、綱成は山内・扇谷の両上杉氏と古河公方の三者連合を相手に半年余りを籠城戦で耐え抜き、氏康率いる本軍と連携して奇襲作戦を実行。逆転勝利の立役者になったと伝えられています。また、この功により、戦後は河越城主も兼ねることになったという説も。

その後、永禄12年(1569年)から元亀2年にかけては武田信玄との戦いに備えて駿河の深沢城に、同城が落城した後は相模・駿河国境の足柄城に在城するなど、綱成は常に最前線の防衛に従事していました。

こうしたことから、軍記物だけではなく史実においても彼の軍略が大いに評価されていたことがわかります。

なお、外交面においても重要な役割を果たしていました。その証拠に、時はさかのぼりますが天文22年(1553年)から、太田氏・結城氏・蘆名氏といった周囲の有力な一族に対しての取次を担当しています。ただし、こうした外交面での貢献はあくまで北条氏政・氏照兄弟が成長するまでの措置であったようで、永禄10年(1567年)以降は氏照が取次を任されています。

氏康の死に伴って隠居

これまで戦場で名を轟かせてきた綱成でしたが、元亀3年(1572年)には嫡男の康成に家督を譲り隠居し、剃髪して「上総入道道感」と名乗りました。なお、隠居の理由は詳細にわかっているわけではありませんが、前年に氏康が死去していること関係しているものと考えられます。

もっともこの隠居は単なる隠居ではなく、隠居後も4代氏政・5代氏直を支えました。天正10年(1582年)には甲斐国黒駒(現在の山梨県笛吹市)に進撃し、信濃・甲斐方面の主力として活躍するなど、老いてなお盛んな一面をのぞかせています。

こうして引退後も第一線で奮戦する綱成でしたが、天正12年(1584年)の末ごろからは病気がちになり、予定していた戦への出陣を取りやめていることが確認できます。その後、天下の趨勢が豊臣秀吉へと傾いていった天正15年(1587年)、73歳で綱成は病のために亡くなりました。

一族のその後は?

綱成の氏族である「玉縄北条氏」の家督は綱成から嫡男康成へと継がれていましたが、康成が父より先に病死したため、その後は嫡孫の北条氏舜という人物が継承。しかし、彼もまた早逝して綱成より先に亡くなったため、今度は氏舜の弟である北条氏勝が家督を継ぎます。

綱成死後、この氏勝が天正18年(1590年)の小田原征伐を経験しますが、戦後は許され、以後は徳川に仕えて多くの功績を残したとされます。その後、江戸時代に入って綱成直系の家系こそ断絶してしまいますが、傍系の家系が旗本として存続していくことになりました。


【主な参考文献】
  • 下山治久『後北条氏家臣団人名事典』東京堂出版、2006年。
  • 黒田基樹『北条氏康の家臣団:戦国「関東王国」を支えた一門・家老たち』洋泉社、2018年。
  • 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年。




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