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独眼竜・伊達政宗はなぜ小田原攻めに遅参してしまったのか

ろひもと理穂
 2020/12/30

小田原攻めにより北条氏を降し、戦国乱世の時代に終止符を打った豊臣秀吉。このとき奥州の覇者である伊達政宗は小田原攻めに参陣するのが遅れ、処刑されてもおかしくないタイミングに遅参しました。

政宗はなぜここまで参陣するのが遅くなってしまったのでしょうか?今回は政宗の小田原攻め遅参の経緯についてお伝えしていきます。

蘆名氏を滅ぼし秀吉の逆鱗に触れる

関東奥両国迄惣無事の命令違反

『伊達天正日記』によると、政宗は天正15年(1587年)、関白である豊臣秀吉に奥州産の名馬を献上しています。政宗の父親の伊達輝宗も織田信長に誼を通じており、鷹を献上していますから、父の時期から織田氏の勢力との外交関係は継続されていたのです。

また、秀吉から政宗へ指示があったことも『伊達家文書』には記されています。これは大名同士の戦を禁じる「関東奥両国迄惣無事」です。詳しい日付けまでは記されていませんが、天正15年(1587年)であるという説が有力です。

この関東奥両国迄惣無事の命令が下されたことで、翌年の天正16年(1588年)に政宗が蘆名氏や佐竹氏、さらには最上氏と次々と講和したのでしょう。ちなみに最上氏との講和を促すための使者として米沢を訪れた金山宗洗は、政宗に上洛も促しています。

しかし、政宗は上洛の求めには応じず、天正17年(1589年)6月には会津の蘆名氏を滅ぼしました。つまり政宗は秀吉の関東奥両国迄惣無事の命令に背いたことになります。この時点では秀吉が天下を統一していたわけではなく、政宗としても貪欲に領土を広げる野心を持っていたからです。

政宗の言い分

政宗の上洛を促す書状は、斯波義近、施薬院全宗、富田知信から矢継ぎ早に届けられます。政宗はこれを黙殺してきたわけですが、さすがに秀吉の命令に背き、蘆名氏を滅ぼしたことに対しては弁明の使者を立てています。伊達氏の祈祷を司ってきた修験年行司の良覚院栄真を前田利家、施薬院全宗、富田知信のもとに送りました。

政宗が蘆名氏を滅ぼした言い分は、蘆名氏は父の輝宗の仇であり、奥州探題としての役割を全うするために会津へ攻め込んだというものです。これがどこまで秀吉に伝わっていたのかはわかりません。勝手に蘆名氏を滅ぼした政宗に対して怒りをあらわにした秀吉は、上杉景勝と佐竹義重に政宗を討つように命じています。

政宗は秀吉と全面的に争う気持ちはなく、秀吉の重臣である前田利家や浅野長政、豊臣秀次らに名馬を贈り、関係の修繕を図っています。この一手こそが、後の政宗の窮地を救うことになるのです。

北条氏と伊達氏の関係

政宗の関東進出の準備

政宗は秀吉との外交を継続していきつつ、一方で周辺大名とも手を結んで領土拡大に動いていました。その中で最も重要な相手が、関東で最大勢力を誇る北条氏(後北条氏)です。政宗は北条氏政・氏直父子と通じ、佐竹氏を挟み撃ちにする計画を練っていたのです。

その動きを象徴するのが、政宗の居城の移転でした。これまでの本拠地である米沢城から、新しく奪った会津の黒川城に拠点を移します。母親である義姫、正室の愛姫を黒川城に呼び寄せているのです。しかし大規模な修築は行っていません。これは黒川城はあくまでも佐竹氏の領土に攻め込むための拠点であり、守りを固める考えはほとんどなかったからでしょう。

つまり政宗には、秀吉とは表面上だけ上手く付き合いつつ、理由をつけて佐竹氏を滅ぼし、関東に進出する狙いがあったのです。これは戦国乱世であれば当然の考え方だったかもしれません。

秀吉の宣戦布告

しかしここで思わぬ事態が起こります。北条氏に属する沼田城城代の猪俣範直が、真田氏の領土である名胡桃城に攻め入り、これを奪ってしまったのです。秀吉は天正17年(1589年)11月24日に北条氏に対し宣戦布告します。もちろんこのことはすぐに政宗にも報告されたでしょうし、秀吉側からも北条氏側からも味方につくよう催促があったはずです。

北条氏は小田原評定の後、籠城を決断。北条氏は後詰めとして伊達氏の加勢も期待しています。天正18年(1590年)3月1日、秀吉は三万二千の軍勢を従えて京都の聚楽第を出陣しました。秀吉方は総勢二十一万とも二十二万ともいう大軍であり、いくら伊達氏が加勢したとて、とても太刀打ちできない兵力差です。

政宗は北条氏についてこの大軍に立ち向かうのか、それとも北条氏を見限り、秀吉方に味方するのかの決断を迫られます。おそらく家中の意見も二分していたはずです。地の利を活かして北条氏とともに戦えば、秀吉勢を撃退できると本気で考えていた家臣もいたのではないでしょうか。そもそも政宗自体がここまで上洛していないのですから、多くの家臣もまさか政宗が簡単に秀吉に降るなど考えてはいなかったのです。

政宗の遅参の過程

政宗はいつ参陣を決めたのか?

秀吉の小田原攻めが本格的に開始されたのは天正18年(1590年)3月29日です。もちろん政宗はこのとき会津の黒川城にいましたから参陣はしていません。しかし、決断はしていました。北条氏を見限り、秀吉に味方するという決断です。

政宗としては、北条氏が滅べば、次は自分の番だという思いがありましたから、できれば北条氏に味方し、秀吉勢を撃退したかったはずです。しかし、なにせこの兵力差では勝ち目はありません。そんな動くに動けない政宗の背中を押したのはふたつの書状です。ひとつは木村吉清からのもので、「会津安堵の他、加増もある」、もうひとつは浅野長政からのもので「これまでの伊達氏の行いは不問に処す」という秀吉の意向を伝える内容でした。

2月21日付けのこの書状は少なくとも3月中には政宗のもとに届いていたはずです。政宗は3月25日に黒川城に重臣を集めて評定を行い、秀吉に味方することを決めます。そして翌日には秀吉に向けて使者を出し、出陣を4月6日と定めたのです。

4月6日であれば、小田原攻め開戦には間に合わなかったものの、勝敗が決まるまでには充分な時間があり、戦場で武功をあげる機会もありました。しかし、政宗が小田原に着いたのは6月5日のことです。なぜここまで到着が遅れてしまったのでしょうか?

政宗参陣の妨害があった

当初の予定よりも出立が大幅に遅れた原因はふたつあります。ひとつは政宗が留守の間に謀反を起こす可能性のあった弟の伊達小次郎(幼名・竺丸)への対応でした。出立の前日の4月5日、政宗は母親である義姫のいる西館を訪ね、ここで毒を盛られています。おそらく義姫の実家である最上氏の指図もあったのでしょう。毒に気づいた政宗は死ぬことはありませんでしたが、この一件によって弟を斬り殺しています。母の義姫は最上氏へ出奔しました。

弟を除き、一番の不安を解消させた政宗は4月15日に出立するのですが、南会津の大内まで進んだ後に帰還しました。理由は北条氏の領土を通ることが困難になったからです。これには実はもうひとつ重要な理由があったと考えられています。政宗の家臣の中には秀吉に降ることを納得していなかったものが多くおり、その筆頭である伊達成実の挙動が気になったというものです。政宗は改めて成実を説得するために帰還したのではないでしょうか。

説得後、黒川城の留守居を成実に任せ、再度出立したのが、5月9日。すでに当初の予定よりも一ヶ月遅れています。政宗は越後の上杉領を通過し、6月5日に小田原に到着。小田原城の開城が7月5日のことですから、まさにギリギリといった状況でした。

秀吉の政宗遅参の仕置き

底倉での詰問

政宗はすぐには秀吉に会うことが許されず、底倉という地に押し込まれます。率いてきた軍勢はわずか百騎。このとき共にいた腹心の片倉景綱は斬り死にすることを覚悟したとも伝わっています。

その後、前田利家や浅野長政らが詰問に訪れ、政宗は会津の蘆名氏を滅ぼした理由などを改めて説明しています。もともと政宗は利家や長政らに名馬を贈るなど良好な関係を構築していましたから、秀吉にも悪くは伝わらなかったはずです。政宗の会津攻め前までのことは不問とし、会津攻めのみ責めを負わせて、会津、岩瀬、安積の3郡を没収。その他の領土は安堵と決まりました。

6月9日ついに秀吉に謁見

そして6月9日、政宗はついに秀吉に謁見します。そのときの政宗の姿は、髪は水引で結び、死装束でした。それだけの反省の意を示したわけです。これに対し秀吉が、あと少し遅れていたらその首落ちていたぞと脅したことは有名です。しかし秀吉は政宗をかなり気に入ったらしく、そのまま布陣について説明したり、翌日には茶の湯の席に招いたりしています。

政宗は利家らの詰問を受けた際に、死ぬ前に千利休に茶の湯の教授を受けたいと伝えており、この言葉を聞いて秀吉は政宗の非凡さ、その器量を見抜いたようで、この時点で死一等を減じたとされています。英雄同士共鳴する点があったのでしょう。

まとめ

関東に進出し、さらに勢力を拡大しようという野心に燃えていた政宗にとって、秀吉に降ることはかなりの葛藤があったはずです。それが小田原遅参の最大の要因だったことは間違いありません。しかし、簡単に秀吉に味方することもまた難しい状況でもありました。

最終的には参陣したものの、これほどの遅参は本当にギリギリのラインで、政宗も死を覚悟したことでしょう。それを救ったのは、これまで地道に続けてきた秀吉重臣への外交交渉と、自らの器量でした。政宗以外のものが同じ状況であれば、ただちに滅ぼされていたかもしれません。この命がけの綱渡りは、政宗だからこそ実現可能なことだったのではないでしょうか。

参考文献 小和田哲男「史伝 伊達政宗」 小林清治「人物叢書 伊達政宗」 遠藤ゆり子「伊達氏と戦国争乱」 高橋富雄「伊達政宗のすべて」

  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。
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