「沖田総司」『るろうに剣心』や『薄桜鬼』にも登場!伝説の最強剣士にして、病に倒れた悲運の新選組一番隊組長。

コロコロさん
 2021/08/30

沖田総司のイラスト

幕末の京都は、尊王攘夷による天誅や破壊行動で治安が乱れていました。 天誅や混乱した京を鎮めたのが、新選組です。 新選組で一番隊組長となったのが沖田総司(おきた そうじ)でした。

総司は近藤や土方の下で、治安維持活動に従事。池田屋事件や隊士の粛清に剣を振るっていきます。 やがて労咳を発症。まだ若い身で病と戦いながら、命懸けで新選組の任務を全うしていきました。

よく笑う明るい青年は、いかにして新選組最強の剣士となったのでしょうか? 新選組関連の著書と縁者の証言を元にして、沖田総司の真の姿に迫りたいと思います。 沖田総司の生涯を見ていきましょう。

天然理心流入門

試衛館入門~近藤勇や土方歳三との関係

天保13(1842)年、沖田総司は江戸の白河藩邸で同藩の足軽小頭・沖田勝次郎の長男として生を受けました。母(名前は不詳)は武蔵国日野の八王子千人同心・宮原家の人間と伝わります。幼名は宗次郎、諱は春政、後に房良(かねよし)と名乗りました。

弘化2(1845)年、父・勝次郎は亡くなりました。総司がまだ四歳のときです。母もすでに亡くなっていたと伝わっています。

幼少のため、総司は元服しての家督相続ができません。結局は、長姉・みつに婿養子・林太郎を迎えて相続してもらっています。 林太郎は八王子千人同心の井上家の出身でした。

母と姉婿をはじめ、総司の周辺には八王子千人同心と関係する人脈が形成されていきます。

嘉永3(1850)年、総司は江戸の市ヶ谷甲良屋敷にある試衛館道場に入門しました。 試衛館では天然理心流剣術を教えており、千人同心関係の人間が数多く同流を修行しています。 道場では近藤勇や土方歳三、井上源三郎と出会いました。彼らも千人同心関係の家に生まれた人間です。

試衛館跡(東京都新宿区市谷柳町25)
天然理心流剣術の道場・試衛館跡(東京都新宿区市谷柳町25)

まさに神技! 沖田総司の伝説的な剣技

試衛館においては、若くして塾頭(門下生筆頭)に到達。免許皆伝を許されたほどの腕前となっていました。 同志の永倉新八(後の新選組二番隊組長)は、土方や井上、山南敬助が竹刀を持っては総司に子供扱いされたと伝えています。

塾頭であったため、実際に近藤とともに調布に出稽古に出かけた記録も残っています。 総司の指導は荒っぽく、厳しいことで知られていました。師範である近藤よりも恐れられていたと伝わります。

しかし総司は剣術において、神技とも言えるほどの技量を持っていました。 有名なのが「三段突き」です。

剣道のイラスト

三段突きは、平正眼の構えから一瞬で三度の突きを繰り出す技でした。相手は踏み込みの足音一つの間に三度の突きを食らったと伝わります。優れた剣術の片鱗は、すでに見え始めていました。

陽気な一番隊組長

新選組一番隊組長となる

文久3(1863)年、将軍・徳川家茂が上洛することが決まります。 将軍の警護を行うべく、浪士組の募集が決定。総司は近藤や土方と共に浪士組へ加盟しています。

京都で浪士組は分裂し、近藤や水戸出身の芹沢鴨一派は壬生浪士組を結成。やがて新選組を旗揚げし、総司は副長助勤や一番隊組長を任されていきます。

※参考:壬生浪士組(新選組の前身)の主要メンバー
芹沢鴨一派試衛館一派
芹沢鴨(局長)近藤勇(局長)
新見錦(局長)土方歳三(副長)
田中伊織沖田総司
平山五郎山南敬助
平間重助永倉新八
野口健司原田左之助
佐伯又三郎斎藤一
etc…

総司は特に近藤や土方の信任を受けていました。 新選組の暗部に関わり、暗殺や隊士粛清において腕を振るっています。

同年9月には暴挙が続いた筆頭局長・芹沢鴨の暗殺にも加担。新選組を近藤一派で占めることに成功しています。

冗談を言って笑う青年

新選組で幾多の修羅場を経験した総司ですが、どんな人柄だったのでしょうか?

八木邸屯所を提供した八木源之丞の三男・為三郎は語っています。 総司は「よく冗談を言っていて、ほとんど真面目になることはなかった」と。

一番隊組長の総司は、危険と隣り合わせの日常でした。しかし決して荒む様子はありません。 むしろ近所の子供や子守と往来で鬼ごっこをしたり、壬生寺の境内を駆け回って遊んだと伝わります。

壬生寺の本堂
壬生寺の本堂(京都市中京区。出所:wikipedia

総司は敵対関係にある人間からも一目置かれていました。 新選組とは関係の悪い西村兼文(西本願寺の侍臣)は、近藤や土方について厳しい記録を残しています。

通常であれば、最前線で活躍した総司も酷評されるはずです。しかし西村は総司の人柄について批判せず、むしろ「局中第一等の剣客」「天才的剣法者」と記すのみです。

イケメン? 沖田総司の容姿と恋人に関わる伝説

容姿は『るろうに剣心』や『薄桜鬼』のようにイケメンだった?

沖田総司には、現在は写真が発見されていません。 彼がどのような容姿をしていたかは、同時代の人物たちの証言に頼るほかないのが現状です。

では総司は、一体どのような顔をしていたのでしょうか? 通常、創作物では沖田総司はイケメンに描かれることが定番となっています。『るろうに剣心』や『薄桜鬼』、あるいは『燃えよ剣』でも、総司は眉目秀麗な青年とされています。

実物の沖田総司は、少し違っていたようです。 佐藤彦五郎(土方歳三の義兄)の長男・源之助は、総司のことを「ひら顔で目が細い」「色の浅黒い」と伝えています。 八木為三郎も色の浅黒さは認めていますから、色白ではなかった可能性があります。

総司と恋人の話

沖田総司には、イケメン説と同時に恋の話も残っています。

試衛館時代には、手伝いの女性(近藤勇の養女)が総司に告白。常に懐剣を忍ばせるという女性でした。 女性は総司のそばで世話をしたい、と打ち明けています。 しかし総司は告白を固辞。面目を失った女性は恥じて会見を喉に突き刺して自害をはかりました。 結局は命を取り留め、近藤の口利きによって他家に嫁いでいます。

総司は、女性関係については真面目でした。 実際、近藤勇五郎(近藤勇の甥)は、総司があまり女遊びをしなかったことを語っています。

さらに勇五郎は総司が医者の娘と恋仲になったと語りました。 一説には、大坂の医師・岩田文碩の三女であるコウだと言われています。しかし結局は、近藤が間に入り二人の手を切らせることになりました。総司は別れた娘のことを思い出し、涙に暮れたと伝わります。

池田屋事件や粛清で剣を振るう

池田屋事件で喀血する

沖田総司の名前が天下に轟いたのは、やはり池田屋事件においてでした。

元治元(1864)年6月5日、新選組は尊王攘夷派の浪士による京都大火計画を事前に察知。池田屋に集合した浪士たちを襲撃しました。総司は近藤隊に属して少数ながらも多勢を相手に奮戦。屋内でいの一番に敵を斬り倒しています。

池田屋跡。2021年現在、居酒屋となっている。
池田屋跡。2021年現在、居酒屋となっている。

しかし斬り合いの最中、総司の体に異変がおきます。 突如として喀血。昏倒して、途中で池田屋から離脱することとなりました。

労咳(肺結核)の発作だと伝わりますが、定かではありません。 結局、土方隊の援軍によって池田屋は制圧。戦後、総司にも報奨金として褒賞金20両が下賜されています。

兄と慕う山南敬助の介錯を務める

新選組の歴史は、粛清によって成り立っていました。 尊王攘夷派の浪士よりも、粛清によって命を落とした隊士の方が多いともされるほどです。総司は粛清においても、近藤や土方の意を受けて活動しています。

新選組総長・山南敬助も、総司が手を下した一人した。山南は試衛館以来の同志です。総司は山南を実の兄のように慕っていたと伝わります。

慶応元(1865)年、山南は置き手紙を残して脱走。総司は追手として近江国に急行し、山南を捕縛しています。ほどなくして山南は屯所に連れ戻され、隊規違反のかどで切腹の処分が下されました。

切腹の際、総司は山南の介錯役に指名されています。しかし総司は故郷への手紙で、山南の切腹についてはあまり触れていません。

志半ばで労咳に倒れる

新選組の一線から退く

総司の労咳は時と共に悪化の一途を辿ります。 慶応2(1866)年、幕府の御典医・松本良順が新選組を訪問して検診。松本は「肺結核の者が一人いた」と記しており、これが総司である可能性が指摘されています。

慶応3(1867)年頃には、すでに第一線から退いて療養生活に入っていました。 この頃の総司は、周囲も認識するほどに労咳が重病化していたようです。

しかし決して安穏な生活を送っていたわけではありません。 同年12月には、療養先である近藤の妾宅が御陵衛士(新選組の脱退者)の生き残りに襲撃されます。幸いにも、総司は伏見奉行所に発った後で留守でした。

体調の悪化は深刻であり、慶応4(1868)年1月の鳥羽伏見の戦い時も大坂で過ごしています。 新選組が江戸に撤退すると同行。病の身をおして甲陽鎮撫隊に参加して甲斐国に向かいます。しかし病状は思わしくなく、途中で療養を再開。間もなく江戸に戻ることとなりました。

近藤のことを案じながら世を去る

江戸では今戸八幡宮の近くにある医学所に移動。幕府の御典医・松本良順の診察を受けています。新選組が江戸を離れると、総司は千駄ヶ谷の植木屋・柴田平五郎の離れに移り住みました。

やがて近藤は下総国流山で捕縛され、板橋で斬首。総司は近藤の死を知らされていませんでした。 死の間際まで「先生はどうされた」と、近藤のことをずっと気にかけていたと伝わります。

しかし労咳は確実に総司の命を蝕んでいました。自らの死に臨みながら、総司は自信を鼓舞するように「幸い病は治った。敵を倒しにいくぞ」と口にしてます。

5月30日、総司は植木屋の離れで世を去りました。享年二十七。戒名は賢光院仁誉明道居士。墓は専称寺にあります。


【主な参考文献】
  • 菊池明ら『土方歳三と新選組10人の組長』 新人物往来社 2012年
  • 木村幸比古『新選組と沖田総司「誠」とは剣を極める異なり』 PHP研究所 2002年

  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 ...

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