「山南敬助」大河ドラマでは堺雅人が熱演! 『薄桜鬼』にも登場した、悲劇の新選組総長
- 2021/08/26
血風舞い散る新選組の中にあって「親切者」と称された男がいます。新選組総長・山南敬助(やまなみ/さんなん けいすけ)です。
敬助は江戸で近藤勇らと出会い、試衛館に寄宿。やがて浪士組に加盟して、新選組の礎を築くに至ります。池田屋事件や禁門の変を経て、新選組は幕府の代表的な警察組織に成長。しかし一方で、敬助は病を得て隠遁同然となってしまいました。
やがて敬助は意を決して新選組を脱走。結果、沖田総司によって屯所に連れ戻されてしまいます。新選組創設の功労者である敬助には、驚くべき処分が下されました。山南敬助は何のために戦い、どう生きたのでしょうか。山南敬助の生涯を見ていきましょう。
敬助は江戸で近藤勇らと出会い、試衛館に寄宿。やがて浪士組に加盟して、新選組の礎を築くに至ります。池田屋事件や禁門の変を経て、新選組は幕府の代表的な警察組織に成長。しかし一方で、敬助は病を得て隠遁同然となってしまいました。
やがて敬助は意を決して新選組を脱走。結果、沖田総司によって屯所に連れ戻されてしまいます。新選組創設の功労者である敬助には、驚くべき処分が下されました。山南敬助は何のために戦い、どう生きたのでしょうか。山南敬助の生涯を見ていきましょう。
山南敬助の苗字の読み方と前半生
剣術修行の前半生
天保4(1833)年、山南敬助は仙台で藩剣術師範・何某の次男として生を受けたと伝わります。諱は知信と名乗りました。苗字の読み方は「やまなみ」あるいは「さんなん」と読むようです。当時の記録では「三南」「三男」とされているものが確認されますが、あだ名である可能性もあります。
時期は不明ですが、敬助は国許を脱藩。江戸に出て剣術修行を始めていくこととなりました。敬助は剣客として将来を嘱望されていました。10代後半(弘化4(1847)年以降と思われる)で、飯田町堀留の旗本・大久保九郎兵衛の道場に入門。小野派一刀流の免許皆伝を許されています。
しかし敬助は小野派一刀流に飽き足りませんでした。自らの剣の腕前を磨くべく、さらに北辰一刀流にも入門。千葉周作の弟子となって教えを受けていました。
北辰一刀流の門下には、錚々たる顔ぶれが揃っています。坂本龍馬をはじめ、庄内藩の清河八郎や幕臣・山岡鉄舟などが在籍していました。敬助は、道場で剣の腕を磨いていたわけではありません。他国との人脈を形成し、優れた学識に触れる機会を得ていたようです。
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試衛館との出会い
やがて敬助に転機が訪れます。安政年間の後半(1854~1859年)、市ヶ谷の試衛館道場(天然理心流)に他流試合を申請。道場主の近藤勇と立ち合いを果たすこととなりました。しかし敬助は近藤に敗北。腕前と人柄に感じ入った敬助は、天然理心流の門人となる道を選びます。当時の試衛館には、土方歳三や沖田総司、永倉新八らが在籍していました。敬助は彼らと親交を深める一方、門人として試衛館道場と関わりを持っていきます。
すでに敬助は文武両道の人物だと認識されていました。新選組の後援者・小島鹿之助は、敬助を「武人にして文あり」と高い評価を残しています。文久元(1861)年1月、敬助は近藤の出稽古に同行。仲の良い沖田総司も一緒でした。敬助は、すでに天然理心流の師範代クラスとして、近藤から厚い信任を受けていたようです。
8月には府中六所宮で近藤の天然理心流四代目宗家襲名披露が挙行。敬助は野試合に参加して紅白のうち、紅組の一員として参加しています。翌文久2(1862)年には、日野や小野路村に出稽古に出張。試衛館の門弟の中で、変わらずに高い位置にあったことが推察されます。
上洛し、新選組総長となる
浪士組への加盟
風雲急を告げる幕末で、敬助たちが歴史の表舞台に登場する時が訪れました。文久3(1863)年、第十四代将軍・徳川家茂が上洛を決定。身辺警護と尊王攘夷の実行のため「浪士組」が組織されることとなりました。発案者は敬助の同門である清河八郎です。浪士組の取締役には、山岡鉄舟をはじめとした名だたる幕臣たちが名前を連ねていました。
敬助は近藤たちともに浪士組に加盟することを決めます。2月には江戸を出発して京都に到着。本来であれば、幕府への取り立てが叶うはずでした。しかし清河は京都に到着後に、攘夷実行を宣言。敬助ら試衛館一門と芹沢鴨ら水戸出身者たちは、浪士組との訣別を選びます。
新選組総長となる
京都に残留した敬助たちは、壬生の八木邸と前川邸に分宿。本拠と定めて「壬生浪士組」を名乗りました。敬助は土方歳三と並んで副長職に就任。京都守護職である会津藩主・松平容保のお預かりとなって、治安維持に邁進していきます。※参考:壬生浪士組(新選組の前身)の主要メンバー
芹沢鴨一派 | 試衛館一派 |
---|---|
芹沢鴨(局長) | 近藤勇(局長) |
新見錦(局長) | 土方歳三(副長) |
田中伊織 | 沖田総司 |
平山五郎 | 山南敬助 |
平間重助 | 永倉新八 |
野口健司 | 原田左之助 |
佐伯又三郎 | 斎藤一 |
etc… |
壬生浪士組において、敬助は土方と並んで近藤の片腕として活動していきました。同年の八月十八日の政変では御所に出動。御所内にあるお花畑の警護を担当しています。
政変においての働きが認められ、壬生浪士組は「新選組」の名前を拝領。京都における佐幕派の中でも名前が知られる存在となりました。
表の任務だけでなく、敬助は裏方でも活躍しています。9月、狼藉を重ねていた筆頭局長・芹沢鴨らを土方や沖田らとともに襲撃。暗殺に成功しています。
新選組の組織は、敬助や土方らによって固められました。敬助は近藤や土方に次ぐ総長職に就任。より高い位置で新選組を支えていくこととなります。
山南敬助、自ら現場で刀を振るう
岩城升屋事件で刀を振るう
敬助は、実際に浪士との戦いに最前線にも赴いています。文久3(1863)年10月、敬助は近藤や土方らと共に大坂に滞在。将軍・家茂を警護するための任務についていました。任務中、大坂の呉服商・岩城升屋に浪士が押し入ります。敬助は土方歳三らと二人で岩城升屋に急行。不逞浪士たちの撃退に成功しています。岩城升屋での激闘は凄まじいものでした。敬助の佩刀・播州住人赤心沖光の刀は刃こぼれを起こし、真っ二つに折れてしまっています。一説によると、敬助は左腕を負傷。命懸けで任務に当たっていた様子が窺えます。
岩城升屋での働きにより、敬助は会津藩から8両の報奨金を受領。確かに働きは認められていました。
池田屋事件では屯所を守る
岩城升屋の事件以降、敬助の足跡は途絶えてしまいます。元治元(1864)年2月、多摩蓮光寺村の名主・富澤忠右衛門が公用で上京。富沢は壬生村の屯所を訪問し、土方と沖田総司、井上源三郎と面談しています。しかし敬助については「山南敬助は病に臥し逢わず」と記録しています。敬助はどうやら病を患っていたようです。6月には、新選組は池田屋事件に出動。京都大火計画を未然に防ぐ大きな手柄を挙げています。池田屋事件時は、敬助は屯所の留守を預かっていました。
しかし同年8月の報奨金リストには、敬助の名前が記されていません。11月には新選組において長州出陣のための行軍録が作成。そこにも敬助の名前はありませんでした。さらに同月には、伊東甲子太郎が参謀として入隊。幹部としての地位を奪われていくこととなります。
新選組からの脱走と切腹
新選組からの脱走
講談や映画では、敬助は組織内で土方歳三と対立し、追放同然だっとされています。しかし事実は違っていたようです。当時、敬助は療養状態にありました。壬生の屯所を離れ、単身で「病気」の治療に当たっていた状態です。
岩城升屋での怪我以降、圭介がどのような状態になったかは、詳しくは分かりません。しかし確実なのは、敬助の足取りが途絶えたこと。そして慶応元(1865)年2月の段階では大津にいたことが確実です。
同月22日、ついに事件は起きました。敬助は屯所に「江戸へ戻る」旨の置き手紙を残して姿を消したと伝わります。新選組の規律では、脱走は切腹です。当然、敬助が知らないはずはありません。第一、脱走を図るならば、置き手紙を残す必要はないのです。
近藤勇や土方歳三は、追手として沖田総司を差し向けました。敬助は、沖田総司と親しい間柄でした。抵抗を思いとどまらせる意図があった、と伝わりますが定かではありません。
しかし、前述のように敬助は大津で療養していました。屯所から逃げたというより、帰隊命令に従わなかった方が近いかも知れません。
沖田に追いつかれた敬助は、翌23日に屯所に帰還。同日中に「切腹」という命令が下っています。江戸以来の同志である永倉新八は、敬助に再度の脱走を打診。しかし受け入れることはありませんでした。
惜しまれつつ世を去る
一連の脱走劇は、最初から意図されたもののようです。敬助自身に逃げるつもりがなかった可能性さえありました。むしろ自ら死ぬ道を選んだに近いやり方です。敬助が脱走した理由は、西本願寺への屯所移転への反対や、尊王攘夷派との敵対関係を嫌ったという説があります。そして同日夕刻、敬助は前川邸で切腹に臨みました。介錯を務めるのは、敬助が信頼する沖田総司です。技量は勿論、敬助にとっては本望に近い人事だったと推察されます。
いざ腹を切ろうとしたとき、ある人物が駆けつけました。現れたのは、敬助の愛人・明里です。明里は島原の天神(芸妓)でしたが、敬助が落籍していました。当時は二十一、二の上品な美女だったと伝わります。
敬助と明里は、格子戸越しに言葉を交わします。明里は別れを惜しみ、格子にしがみついていました。やがて内障子が閉められ、明里は涙を流しながら立ち去ったと伝わります。
敬助は沖田総司の介錯のもと切腹して果てました。享年三十三。墓は光縁寺にあります。参謀の伊東甲子太郎は、敬助の死を惜しみ、「春風に 吹き誘われて 山桜 散りてぞ人に 惜しまるるかな」と詠んでます。
近藤勇は、敬助の死に際し「浅野内匠頭でも、こうは見事にあい果てまい」と言い残しました。
【主な参考文献】
- 菊池明ら編著 『新選組日誌』上(新人物往来社、2013年)
- 菊池明ら著 『土方歳三と新選組10人の組長』(新人物往来社、2012年)
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