「郡山合戦(1588年)」四面楚歌の政宗が領土を守り抜き、蘆名・相馬連合軍を撃破!

ろひもと理穂
 2015/08/10

奥州の地で怒濤の如く勢いを増していく伊達氏に対し、周辺の蘆名氏・相馬氏・最上氏・佐竹氏などは連携して対抗してきました。そんな中で行われたのが、天正16年(1588年)の「郡山合戦」(窪田の戦い)です。伊達政宗はかなりの苦戦を強いられることになりました。今回はそんな郡山合戦の経緯と政宗の対応についてお伝えしていきます。

伊達氏が隙を見せた大崎氏攻めの敗戦

大崎氏攻めの大敗

天正16(1588)年正月、政宗は浜田景隆を陣代とし、高森城主の留守政景と岩沼城主の泉田重光を付けて大崎氏攻めを開始しました。

大崎氏は志田・玉造・賀美・遠田・栗原の五郡を有する勢力でしたが、大崎氏の重臣である玉造郡岩手城主の氏家吉継には調略の手が伸びており、政宗が出陣せずとも大崎氏を滅ぼすことができると考えたのでしょう。

政宗はこの戦いの最中に動き出す最上氏・蘆名氏・相馬氏・佐竹氏を自ら出陣して撃退するつもりだったのかもしれません。しかし、このとき伊達氏の領土に攻め込んだ勢力はありませんでした。逆に大崎氏攻めが予想外の結果に終わります。

味方するはずだった黒川郡の黒川晴氏が大崎氏に加勢。さらに政景と重光の両将に不和が生じたため思うように事が運ばず、伊達氏は大敗を喫してしまいます。

伊達氏に従えば間違えないというムードが奥州には漂っていましたが、この大敗によってそれが一掃されてしまいます。政宗は敵に付け入る隙を見せてしまったのです。そのためその後の1年間は敵からの侵攻を受けての戦続きとなってしまいます。

続々と伊達氏の領土に侵攻開始

2月には帰参していた大内定綱が蘆名氏に寝返り、叛乱を起こします。弟の片平親綱を従えて、伊達成実の二本松城へ侵攻したのです。成実は二本松城を守り抜き、その間、政宗は定綱を許し、百四十貫の知行を与える約束をして再度味方につけています。まずは得意の調略によって危機を脱したのです。

この対応はやや不可解ですが、定綱の武将としての才能を政宗は買っていたため、滅ぼすよりも味方にして利用しようと考えたのでしょう。また、裏切り者を許すということは、それだけ伊達氏が味方を失い追い詰められていたということも物語っています。

この後、蘆名氏は裏切った大内氏を攻めますが、伊達氏と大内氏が協力して戦ったため敗れています。

5月には相馬義胤が伊達氏の領土へ侵攻。これに政宗の家臣である安達郡百目木城主の石川弾正が内応しました。政宗はすぐさま米沢城から大森城へ移り、相馬氏と戦います。義胤は何度か交戦した後、弾正と共に相馬へ引きあげました。

そして6月、佐竹氏と蘆名氏がいよいよ伊達氏の領土侵攻を開始します。

会津の蘆名氏は前年に当主の亀若丸が亡くなり、その跡目として、政宗の弟である竺丸と、佐竹義重の二男である佐竹義広のどちらが入嗣するのかで揉めた経緯があります。このときは伊達氏の意向は却下され、義広が蘆名氏に入って当主となりました。

佐竹氏と蘆名氏の結びつきが強まったのは云うまでもありません。逆に佐竹氏と蘆名氏は結託して打倒伊達氏に動き出します。

つまりこのとき、佐竹義重と実の息子である蘆名義広が協力し、連合を組んで、伊達氏の領土に攻め寄せたのです。伊達氏にとっては各地の戦続きで疲弊していたでしょうし、さらに大崎氏や最上氏、相馬氏の境にも兵を配置しておかねばならず、兵力的にはかなり厳しい状態で迎え撃たねばならない状態でした。

義重としても伊達氏を破る絶好の機会と考えていたことでしょう。実際に政宗は苦戦を強いられるのです。

郡山合戦の経緯と勝敗

四千VS六百

佐竹氏と蘆名氏の連合軍は総勢四千で伊達氏の領土である安積郡に侵攻しました。それに対して政宗は六百の兵だったと伝わっています。『会津史』には、政宗は6月12日には宮森城を出陣し、杉田・本宮の間にあたる窪田山王館に本陣を置いたと記されています。

なお、佐竹・蘆名連合は四万だったとされていますが、さすがにここまでに兵を動員できるわけもないので信憑性に欠けます。どれほどの兵力差があったのか詳細はわかりませんが、伊達氏としてはやはり国境の兵を動かすことができないため、迎撃に回せる兵力はかなり限定されていたのは間違いないでしょう。少なくても6倍以上の兵力差はあったのではないでしょうか。

当然この兵力差ですから伊達勢は真っ向からぶつかるわけにもいかず、守りを固めて応戦しました。

郡山合戦マップ。色塗部分は陸奥国

およそ1ヶ月に渡る小競り合いが続いたのですが、伊達勢の守りが堅く、連合軍は大きな成果を何もあげていません。そんな中、最も激戦となり、多数の死傷者が出たのが7月4日のことです。

この日、窪田を守っていた当番は伊達成実と片倉景綱であり、午前8時から午後4時の間までに伊達勢は二百の敵兵の首を討っています。伊達勢が突出してきた敵部隊に攻撃を仕掛け、深追いし過ぎたために撤退戦で激しい戦いになったようです。ただし伊達勢も六十~七十の兵を討たれており、損害はどちらも厳しいものだったといえます。

和議の成立

結局のところ郡山合戦は痛み引き分けという結果に終わっています。7月中旬から下旬にかけ、岩城常隆と石川昭光の仲介によって両軍に和議が成立したためです。

明らかに形勢不利であった伊達氏にとっては勝ちに近い引き分けでした。もしこのタイミングで最上氏や大崎氏、黒川史などが連携して伊達氏の領土に攻め寄せていたら、さすがの政宗もしのげなかったことでしょう。

一説には、政宗の母である保春院(義姫)の計らいで、7月21日に最上氏や大崎氏との和睦が成立していたともいわれています。最上氏は保春院の実家ですから、その影響力が及んだ可能性はあります。

また、政宗自身が調略の手を伸ばし、蘆名氏の重臣である猪苗代盛国とその子である猪苗代盛胤の間に争いを起こさせたため、蘆名氏は戦を中止せざるを得なくなり、佐竹氏も伊達氏に加担する北条氏直の出陣を聞いて、後背を突かれることを恐れ和議に応じています。

このあたりどうしてもあと一歩攻め込めない蘆名氏や佐竹氏にもどかしさを感じてしまいます。ここはやはり政宗の調略や外交手腕が一枚上手だったということでしょう。

さらにこの時期には豊臣秀吉によって惣無事令が制定されています。関東や奥州に惣無事令が発令されたのは天正15(1587)年12月ですから、戦いをやめ、和睦をするような指示も秀吉から再三あったものだと考えられます。

まとめ

寡兵でありながら連合軍の攻撃に耐え抜いた伊達勢の粘り強さと、政宗の調略の巧みさが光る結果に終わった郡山合戦。この大苦戦をしのぎきった政宗は息を吹き返し、ここから伊達勢の反撃が始まります。

この戦はそういった点において転換期だったといえるでしょう。政宗がしのげた要因のひとつに惣無事令の存在があった可能性は否定できません。

この時期には天下は秀吉によってほぼ平定されており、反撃後、惣無事令を無視して獲得していった伊達氏の領土は奥州仕置のよって没収されてしまうのです。秀吉の惣無事令は政宗にとって救いになることもあり、また逆に勢力拡大を妨げる大きな要因にもなったといえるでしょう。


【主な参考文献】
  • 遠藤ゆりこ(編)『伊達氏と戦国争乱』(吉川弘文館、2015年)
  • 小和田哲男『史伝 伊達政宗』(学研プラス、2000年)
  • 小林清治『人物叢書 伊達政宗』(吉川弘文館、1985年)
  • 高橋富雄『伊達政宗のすべて』(新人物往来社、1984年)

  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。
当サイトでもあらゆるテーマの記事 ...

  • このエントリーをはてなブックマークに追加