「佐々木只三郎」 小太刀日本一と称された剣技を持つ男! 坂本龍馬を暗殺した京都見廻組与頭

佐々木只三郎のイメージイラスト
佐々木只三郎のイメージイラスト
幕末の日本において、佐幕派ながら凄腕の暗殺者として知られた人物がいます。京都見廻組の与頭・佐々木只三郎(ささき たださぶろう)です。

只三郎は会津に生まれ、若い頃に江戸の御家人の養子となりました。長じて只三郎は小太刀日本一と称されたほどの剣客で、講武所において幕臣子弟の育成にあたります。やがて浪士組の結成とともに清河八郎の討幕計画が露呈。只三郎は幕府の命を受け、清河暗殺を果たしました。その後は上洛して京都見廻組の結成に関与。治安維持に当たるとともに、近江屋で坂本龍馬暗殺にも携わります。

只三郎は何を目指し、何と闘い、どう生きたのでしょうか。佐々木只三郎の生涯を見ていきましょう。

部屋住みから小太刀日本一の剣客へ

天保4(1833)年、佐々木只三郎は陸奥国の会津で会津藩士・佐々木源八の三男として生を受けました。

長兄・直右衛門(勝任)は父・源八の実家である手代木家を相続。佐々木家の家督は次兄が継承しています。只三郎は家督相続の対象外である「部屋住み」でした。身を立てるためには他家に養子入りするしかありません。そこで只三郎は幼少期から武術の鍛錬に力を入れます。

剣術は会津藩の同師範・羽嶋源太に師事。神道精武流剣術の奥義を極める腕前でした。加えて槍術は同師範・沖津庄之助に宝蔵院流槍術を学び、こちらも練達者の技量を身につけています。

部屋住みである只三郎でしたが、やがて前線に出る時が訪れます。

嘉永6(1853)年、浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航。幕府に開国を要求するという大事件が起きます。只三郎は会津藩兵の一員として品川第二砲台に着陣。警備を担当しました。

只三郎の一連の働きは、どうやら幕府にも聞こえていたようです。安政6(1859)年、只三郎は親類の御家人・佐々木弥太夫の養子となって家督を相続。江戸の浅草蔵前の屋敷に暮らし、幕府に仕える御家人となっているからです。

また、只三郎が極めて得意にしていたのが小太刀です。その腕前は日本一と称されるほどでした。武術に長けた只三郎は、幕府講武所の剣術師範を拝命。旗本や御家人たちの剣術指導を行なうことになったのです。

講武所は、幕府の武芸訓練機関であり、旗本や御家人、およびその子弟が学ぶことが出来ました。剣術はもちろんのこと、西洋兵学や最新式の砲術を学ぶことも可能でした。

教授陣には、勝海舟や高島秋帆、伊庭秀俊や大村益次郎ら錚々たる面々が名を連ねています。只三郎はいわば、並み居る逸材と同等の能力の持った人材だと認識されていたようです。

浪士組設立に関与

当時は尊王攘夷運動が隆盛を迎えていました。14代将軍・徳川家茂は朝廷に対して攘夷の返答をするために上洛を決定。将軍警護のために「浪士組」の組織が計画されます。

浪士組は、庄内藩出身の清河八郎が発案したものでした。江戸にいる浪士たちを体良く追払い、同時に京都の尊王攘夷派を取り締まるというものです。

このとき、会津藩主・松平容保は京都守護職を拝命。佐幕派の代表として治安維持業務を担当。そして只三郎の長兄・直右衛門が会津藩の公用人を務め、諸藩との外交交渉を行う立場にありました。

直右衛門の協力のもと、旗本・松平上総介(忠敏)らを取締役とした浪士組が結成されているので、只三郎も浪士組発足に関与していたと思われます。

討幕派・清河八郎を斬る

浪士組の一員として京都に上る

文久3(1863)年2月8日、浪士組は小石川の伝通院に集結。234名を数える浪士たちが募集に応じていました。

浪士組の参加者には、攘夷実行や罪の大赦を確約。そのため収監されていた芹沢鴨や、侠客の祐天仙之助なども募集に応じています。同日に浪士組は江戸を出立。只三郎も幕府派遣の役人として一向に同行して京都へ向かいました。

一行は同月23日に京都に到着しますが、程なくして浪士組を激震させる事件が勃発します。

浪士組の発案者・清河八郎は「浪士組の目的は尊王攘夷の実行にある。浪士組はその先兵となる」とし、浪士組に攘夷決行のために江戸への帰還を宣言します。浪士組を朝廷直属の組織にするべく、翌日には朝廷の学習院に建白書を上申し、受理されています。

こうした清河の一連の動きに対し、只三郎や他の人物たちは大きく反発。芹沢鴨や近藤勇、土方歳三らは京都残留を主張し、浪士組本隊から分離、独立することになったのです。

只三郎は、近藤らに協力するべく兄・直右衛門や会津藩に働きかけたようです。

3月、近藤らは京都で壬生浪士組(後の新選組)を結成。会津藩お預かりとなって治安維持に当たっていきます。会津藩公用人の直右衛門は、役目の中に新選組の指揮も含まれていました。

只三郎の胸中には、清河への反発はもちろんのこと、近藤らへの期待も多分にあったようです。

麻布一の橋で清河八郎を暗殺する

浪士組は江戸に帰還すると、不穏な動きを取り始めます。京都に跋扈する不逞浪士と同じく、軍資金調達と称して商家への押し込みを働き始めました。

清河は既に攘夷実行のための挙兵を計画。横浜の外国人居留地の襲撃をはじめ、甲府城を乗っ取りを企んでいました。いずれ討幕の兵を起こす考えでいたようです。

当然、幕府が看過しておくはずがなく、やがて只三郎には清河暗殺の命令が下ります。只三郎は仲間五人と共に清河の行動を把握。斬るべき時をうかがっていました。

ただ、清河八郎は北辰一刀流の免許皆伝を許されたほどの剣客です。彼自身も幕府に狙われていることは察知しているので、斬ることは容易ではありません。

文久3(1863)年4月13日、清河が同志の家から帰宅する途中において、只三郎ほか、速水又四郎や窪田泉太郎(鎮章)ら総勢6人が清河を麻布の一の橋付近で待ち伏せます。

やがて清河が一の橋付近に差し掛かります。只三郎側は6人ですから、一斉に斬りかかりそうな光景が想像されますが、実際はそうではありませんでした。

只三郎は歩いている清河に対して「清河先生」と気楽に声をかけます。清河が視線をくれると、只三郎は編笠を取り、深々と頭を下げました。これにつられたのか、清河も自然と編笠を取って一礼しますが、その瞬間に只三郎たちが抜刀。清河を斬り捨てて、首を討ったのです。

清河の暗殺によって挙兵は頓挫し、浪士組は新徴組に再編。江戸の市中警備を担っていきます。

京都見廻組の幹部へ

只三郎の能力は、やがて中央政界でも必要とされていきます。

元治元(1864)年、京都において幕府直属の治安維持組織「京都見廻組」の発足が決定。これは御家人を中心とした部隊です。

二人の京都見廻役のもと、400人ほどの規模を想定しましたが、思うように隊士が集まりません。そこで白羽の矢が立ったのが只三郎でした。6月、只三郎は管理役である見廻組与頭勤方を拝命。京都の治安維持の一端を担うこととなります。

大半の隊士がまだ揃っていない中の翌7月に勃発した禁門の変では、只三郎ら四人の与頭勤方と浅尾藩士らとともに出陣。長州勢と矛を交えています。隊は危機的な状況でしたが、只三郎は幕府軍の一員として勝利を掴み取ることが出来ました。

8月になると、京都見廻組は市中の巡察を行うようになります。そこで当初反目したのが新選組でした。

新選組は池田屋事件などの実績をあげ、京都守護職のもとで市中巡察に当たっていました。しかし徐々に新選組と提携を深め、市中の警備場所を分担するようになります。実質的に京都見廻組を取り仕切っていた只三郎の貢献が大きかったことが想像できます。

同年12月、只三郎は京都見廻組与頭に昇格。名実ともに京都見廻組を取り仕切る立場となりました。

なお、京都での只三郎の暮らしは、公私とも充実していたようです。只三郎は紀州藩士の娘・美津と結婚。見廻組の組屋敷ではなく市中の寺に住んでました。美津との間には、一子・高をもうけています。

只三郎は和歌をよく読み、いくつか作品を残しています。自らの境遇と心持ちを「先がけて 折れし忠義のふた柱 くづれんとせし軒を支えて」と託していました。

文才や教養の高さは勿論ですが、只三郎の任務における覚悟を物語っています。また、和歌によって薩摩藩の高崎正風らと親交を持つなど、外交にも力を入れていました。

近江屋事件で坂本龍馬を暗殺する

しかし只三郎の栄典をよそに、幕末の政治は混迷を深めていきます。

慶応2(1866)年1月には坂本龍馬の周旋もあって薩長同盟が成立。両藩は討幕へと向かい、幕藩体制は次第に揺らぎを見せていきました。

6月、幕府は第二次長州征伐を実行。しかし15万の兵を擁しながら、わずか4千の長州軍に大敗を喫してしまいます。大坂城では将軍・徳川家茂が病没。幕府は事実上の敗北宣言である休戦協定を締結しました。

次期将軍には徳川慶喜が就任しますが、幕府の体制は崩壊寸前です。京都にも討幕派の浪士がのさばるようになり、京都見廻組や新選組は対応に追われました。

慶応3(1867)年10月、慶喜は大政奉還を断行します。260年続いた徳川幕府は終焉を迎えました。

大政奉還に向けて動いていたのが、土佐の坂本龍馬です。このとき、会津藩公用方である兄の直右衛門は、只三郎に坂本暗殺を命じました。直右衛門の背後には、松平容保がいたと伝わります。

11月、只三郎は京都見廻組の隊員数名を連れ、坂本が泊まる近江屋に向かいました。只三郎らは十津川郷士を名乗り、2階に侵入。「才谷先生、お久しぶりでございます」と坂本の変名に呼びかけ、返答をした坂本に斬りかかりました。

現場にいた坂本龍馬はその場で死亡。中岡慎太郎も2日後に亡くなりました。坂本龍馬暗殺は、長らく犯人が不明でしたが、直右衛門が残した話によると、只三郎らが実行犯のようです。

鳥羽伏見の戦い

只三郎は、旧幕府軍として軍を率いることとなります。

慶応4(1868)年1月3日、鳥羽伏見の戦いが勃発。旧幕府軍は薩長の新政府軍と熾烈な争いを繰り広げます。只三郎は京都見廻組400人を率いて鳥羽方面に出陣。その後も、鳥羽や富ノ森で激戦を展開しました。

旧幕府軍は装備や兵力で薩長に優っていたものの、戦意の低さと不意を突かれことで苦戦していました。只三郎は奮戦するものの、橋本での戦いで被弾。腰に重傷を受けて戦闘不能となります。

薩長に錦の御旗が降りると、旧幕府軍は賊軍と見なされました。まもなく総大将である徳川慶喜は、全軍を置いて大坂城から逃亡。江戸に帰ってしまいます。

重傷を負った只三郎は、大坂に送られています。しかし大坂城にいつまでも留まることはできませんでした。紀州藩を頼って和歌山に落ちることになります。

只三郎の傷は深く、痛みに苦しんでいました。介抱した直右衛門は「ずいぶん人を斬ったのだから、これくらいの苦しみは当然だ」と言って笑いました。直右衛門なりの励ましだったかも知れません。

只三郎は、紀三井寺、或いは停泊中の軍艦・富士山丸の中で没しました。享年三十六。

辞世は「世はなべて うつろふ霜にときめきぬ こころづくしの しら菊のはな」と伝わります。これは死ぬ少し前、飛び込んだ酒屋に代金がわりに襖に書いたものとのことです。

戒名は賢浄院殿義岳亮雄居士。墓所は紀三井寺や会津若松の武家屋敷にあります。


【参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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