「薩英戦争(1863)」世界最強のイギリス艦隊を撃退!?薩摩の強さを見せつけた一大画期

 幕末という激動の時代を生み出した原動力の一つとして、外国勢力への対応が挙げられます。よくご存じの通り、黒船来航によって海外からの強圧的外交の脅威が顕著となり、全国で急激に危機感が高まりをみせました。

 そんな風潮のなか誕生したのが「攘夷」という思想です。ごく簡単にいうと、武力でもって外国勢力を退けることを意味していますが、当初は彼我の戦力差を正確に把握していた者は多くはありませんでした。しかし、実際に外国勢力と交戦することになった藩がありました。「薩長」とも呼ばれる薩摩藩と長州藩です。

 とりわけ薩摩藩は当時世界最強ともいわれる英国海軍を相手にし、その結果が後の日英関係進展に大きく影響したと考えられています。今回はそんな幕末画期のひとつ、薩英戦争(さつえいせんそう)の概要をみてみることにしましょう。

開戦の背景

 薩英戦争の直接の原因となったのが、文久2年(1862)8月21日の「生麦事件」です。

 横浜港にほど近い生麦村で、薩摩・島津久光の行列を下馬して避けなかったイギリス人4名が無礼として斬りかかられたことはよく知られています。2名が負傷し、1名が死亡する事態となり、これが国際問題となりました。

 このとき横浜港にはイギリス・フランス・オランダ各国の艦隊が停泊しており、英人死亡の報を受けた居留民たちは激怒し、ただちに武力報復を決議するという一触即発の状態へと至ります。

 各国艦隊の武器と水兵を動員して島津久光の宿所を襲撃するよう要請し、これにイギリス領事代理やフランスの公使および司令官も同調。ところがイギリス代理公使を務めていたジョン・ニールが断固としてこの動きを退け、即時の武力衝突は回避されました。

 このとき本国に帰国していたイギリス公使・オールコックの意見も容れ、同年12月24日付で幕府および薩摩藩への賠償提起方針が代理公使ニールへと通達されます。

 幕府に対しては、

  • 事件に対する十分かつ正式な謝罪
  • 10万ポンドの賠償金支払い

 薩摩藩に対しては、

  • イギリス海軍士官立ち会いのもとでの主犯処刑
  • 遺族および犠牲者への賠償金2万5,000ポンドの支払い

をそれぞれ要求するという内容でした。

 これらは聞き入れられなかった場合には海上封鎖や砲撃を伴うという、強力な措置を前提としたものだったといいます。翌文久3年(1863)、横浜港に集結したイギリス艦が10隻を超えた2月19日にまずは幕府向けに要求を提示。同年5月17日までにすべての賠償内容が実現しました。

 一方の薩摩藩への要求については折しも長州藩による下関海峡通過外国船の砲撃という事態を受け、薩摩本国での現地交渉を企図して6月22日にイギリス艦隊は横浜を出港したのでした。

開戦の経緯

 薩摩へと向かったイギリス艦隊は、計7隻の軍艦から成っていました。旗艦・ユーライアラス号にはイギリス東インドシナ艦隊司令長官のオーガスタス・キューパーが坐乗、代理公使ニールほかの公使館員もすべて各艦に分乗。

 同月27日に鹿児島湾へ到達すると、翌日に来航の目的を訪ねに来た薩摩藩士らに24時間という回答期限を設けて2項の生麦事件賠償要求を突きつけます。薩摩藩は期限内に回答したもののその内容はさらなる審議を求め、事件で抜刀した藩士をかばうことが明白ととれるものでした。

 艦隊は桜島の横山村および小池村沖へと移動。薪水などの補給を求めたところ、物売りに偽装した薩摩藩士らが奇襲を企てるという事態が勃発。そこには生麦事件で英人を斬った奈良原喜左衛門をはじめ、海江田信義・黒田清隆・大山巌ら後に日本史に名を残す人物が参加。薩摩藩の使者を装った彼らは艦上にあがれたものの、イギリス艦隊の警戒が厳になったことにより、奇襲作戦は中止となりました。

 7月1日には要求が容れられない場合の武力行使をイギリス側が通達。開戦を決意した薩摩藩側は艦砲射撃の射程距離にあった鹿児島城から本陣を西田村(現在の鹿児島市常盤)千眼寺へと移転します。これらの動きを受けて、代理公使ニールは強圧手段の発動をキューパー司令に要請。7月2日明け方に薩摩藩船3隻を拿捕したことを皮切りに、同日正午に砲戦が開始されました。

戦闘状況

 イギリス艦5隻が拿捕した薩摩藩船には、五代才助(友厚)や松木弘庵(寺島宗則)らが乗り組んでいました。これらの船が桜島の小池沖へと曳航されたことを確認した薩摩藩は、鹿児島湾内7か所の砲台にイギリス艦隊追討を発令。陸上砲台と艦砲の激しい砲撃戦が始まります。

 このうち薩摩本陣から最至近にあった天保山砲台へは伝令の急使として大久保一蔵(利通)が派遣されましたが、その到着前に天保山は砲撃を開始。イギリス艦隊旗艦・ユーライアラス号に照準を合わせます。

 これを受けて対岸の桜島・袴腰砲台も砲撃を開始、艦隊の一隻・パーシュースに命中弾を浴びせ撃退。薩摩側の予想外の激しい反撃に戦列を立て直すべく、キューパー司令は拿捕した薩摩藩船を焼却するよう命令し、艦隊を単縦陣に配置。薩摩藩の各陸上砲台に精密砲撃を加えて沈黙させていきました。

 薩摩藩の応射は熾烈を極めましたが、イギリス艦の艦載砲に比べて射程が4分の1程度の短さであるなど性能面でのハンデがあったといいます。しかし接近した艦には陸上から小銃での狙撃を行い、折からの荒天やイギリス艦の機関故障などが重なったことが薩摩にとって追い風となりました。

 そして同日午後3時前、薩摩藩の辨天波戸砲台から発射された砲弾が、イギリス艦隊旗艦・ユーライアラス号の甲板を直撃。艦橋で炸裂し軍議室にいた艦長・ジョスリング大佐を含め、副長以下多数の士官が即死しました。

  同席していたキューパー司令は奇跡的に無事でしたが、ほどなく僚艦・レースホースが波浪と機関故障により座礁。これを救出するためハボック・アーガス・コケットの3隻が接近しますが、薩摩の新波戸砲台からの砲弾3発がアーガスを直撃。 レースホースは救出されて戦線を離脱し、午後7時頃にハボックが湾内の琉球船などを襲撃。これにパーシュースも合流し、薩摩の西洋式工場群である集成館に攻撃を加えて壊滅させています。

 午後8時頃には同じくパーシュースが鹿児島の城下町にロケット弾などの艦砲射撃を行い、民家・武家屋敷・寺社などが炎に包まれました。

 翌7月3日、イギリス艦隊は戦死者を水葬し薩摩市街地と各砲台への攻撃を続行。砲台の順次沈黙により薩摩側からの反撃は規模が小さくなっていきましたが、イギリス艦隊も多数の死傷者を出し、弾薬も尽きるなど激しく消耗していたため、7月4日に撤退を開始。7月11日にすべての艦が横浜に帰還しました。

 この戦闘により鹿児島城下の約10%が焼失。薩摩側の戦死者5名、負傷者10数名と記録されています。一方イギリス艦隊は戦死者13名、負傷者は50名にのぼりました。

戦後

 双方ともに大きな打撃を被った薩摩とイギリスですが、この戦いを経て薩摩では攘夷から対英和平へと方針転換する機運が高まります。

 イギリス側もこれに応じ、同年9月28日に幕府の仲介によって横浜イギリス公使館で薩英間の講和談判が開始。最終的には薩摩が幕府から借用する形で11月1日に賠償金を支払い、主犯捜索と発見次第の処罰という体裁で決着しました。

 イギリス本国では対日武力外交を非難する声が上がり、薩英戦争時の城下攻撃にも多くの抗議が寄せられたといいます。

おわりに

 幕末に薩摩が強大な影響力をもつに至った背景には、イギリスとの太いパイプがあったことが知られています。しかしそれはこのような戦闘を経てのことであり、薩摩という国の精強さを海外に深く印象付ける結果へと導きます。

 多くの近代装備がイギリス経由で薩摩にもたらされ、やがて維新への確固たる軍事力として結実します。薩摩が新政府樹立に中心的な役割を果たしたのも、この薩英戦争の影響によるところが大きいといっても過言ではないでしょう。


【主な参考文献】
  • 『日本大百科全書』(ジャパンナレッジ版) 小学館
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • かごしま市観光ナビ

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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