「平宗盛」最後の平家棟梁。清盛の後継者は無能だったのか?

平宗盛(たいら の むねもり)は平氏政権を打ち立てた清盛の三男で、清盛の死後はその後継者として、平氏一門を導いた人物です。しかし宗盛にまつわる逸話は冴えないものが多く、特に『平家物語』など軍記物での宗盛は愚かで無能な人物として描かれています。そのため宗盛にはどうしてもマイナスなイメージが付きまといます。

ただ、こうした宗盛像には物語上の演出が多分に含まれています。偉大な父や優秀な兄弟との対比として、宗盛が殊更悪く描かれ、無能ぶりが強調されている点に注意が必要です。最近の研究では政治家としての宗盛の能力を評価する動きもあります。今回はそんな宗盛の生涯に迫ります。

平清盛と平時子の第一子として誕生

宗盛の誕生と平氏一門の躍進

平清盛には重盛・基盛という2人の子がいましたが、彼らの母は基盛を産んですぐに亡くなります。その後、継室に迎えられた平時子(後の二位尼)との第一子として、宗盛は久安3(1147)年に誕生しました。時子の実家は由緒正しい家柄で、政界の中枢にも近かったこともあり、宗盛は若いころから優遇されて育ったようです。

父の清盛は、伊勢平氏の嫡流として当時の都で武士としては軍事力・経済力共に最大規模の勢力を誇っていました。加えて保元・平治の乱で功績を挙げたことで、乱後は政界でも頭一つ抜きん出た存在となりました。宗盛ら一族も次々と昇進を遂げ、平氏一門は政界で存在感を増していきます。


平治元(1160)年の平治の乱の後、政界では後白河上皇院政派と二条天皇親政派が対立していました。清盛はどちらの陣営にも気を配りながら慎重に立ち回りました。その中で宗盛は二条天皇の側近として送り込まれ、朝廷内のバランス調整を図る清盛をサポートしました。

また摂関家当主の近衛基実(このえもとざね)と宗盛の妹・盛子が結婚すると、宗盛は弟・重衡(しげひら)と共に摂関家政所(摂関家内の諸々の雑務を担う機関)の統括者となります。

このように宗盛は、政界で勢力拡大を狙う清盛の下、王家や摂関家との仲介役を担っていました。

清盛の政界引退と宗盛の昇進

永万2(1166)年、清盛は内大臣に昇り、翌仁安2年には律令官制における最高位である太政大臣にまで昇りつめます。しかし清盛は僅か数か月でこれを辞して政界を引退、以降は別荘のある福原から厳島神社の整備や日宋貿易の拡充に専念するようになりました。

清盛の後を継いだのは長兄の重盛です。次兄の基盛はすでに死去しているため、宗盛は一門内でナンバー2の地位となります。また時子の妹・滋子(宗盛の母方の叔母)は後白河上皇の妃で、宗盛は彼女の猶子となっていました。このため後白河との関係も良好で、政界でもかなり安定した立場にあったといえます。

さらに後白河と滋子の子・高倉天皇の側に宗盛に近しい女房がいたので、宗盛は彼女を介して清盛の意志を天皇に伝える重要なポジションにいました。それも手伝い、宗盛は徐々に朝廷と清盛との連絡役も担うようになります。

このように実務官僚としてバリバリ働く宗盛には「愚かで無能」な印象はありません。滋子との関係も手伝い、宗盛は兄・重盛に迫るほどの昇進を遂げていくのです。

政界がクーデターでどよめく中、平氏政権が誕生

元々平氏一門と他の貴族の間には、昇進や各種の権益を巡ってしばしば対立が生じていました。その度に後白河によって仲裁されてきたのですが、平氏と後白河との間を取り持っていたのは滋子でした。

しばらく政局は安定していましたが、その滋子が安元2(1176)年7月に死去したことで事態が一変します。

平氏と周囲の対立は表面化し、滋子の死から1年も経たないうちに、後白河とその近臣らによる平氏打倒の陰謀が露見します(鹿ケ谷事件)。さらにこの2年後、重盛が42歳の若さで病死。彼もまた後白河に近しかったため、調整役を相次いで失った清盛と後白河との関係は急激に悪化します。

後白河の態度に我慢の限界を迎えた清盛は、治承3(1179)年11月にクーデターを決行。後白河を幽閉し、反平氏的な貴族を排除し、親平氏的な人物と挿げ替えてしまいます(治承三年の政変)。そして翌年には清盛の孫にあたる言仁親王(安徳天皇)が即位し、平氏の政権が誕生しました。

ただ、武力によって政権を奪った平氏には各所で反発の声が上がることになります。


「源平合戦」が勃発、そして平氏の棟梁へ

こうした中、安徳天皇即位の直後、後白河法皇の第3皇子・以仁王(もちひとおう)が平氏に対して反乱を起こしました(以仁王の挙兵)。

この反乱自体、すぐに鎮圧されるものの、このときに以仁王は全国の武士に平氏追討を呼びかけており、この事件を皮切りに全国各地で反乱が相次ぐようになります。治承寿永の内乱、俗に言う「源平合戦」の勃発です。

不穏な空気が漂う中、清盛は突如として福原への遷都を提案、強行しようとします。敵対する寺社勢力に囲まれて危険な京を棄て、福原で体制を立て直すのが目的だったようです。あまりも急な遷都には宗盛ら一門内からも反対の声が上がりましたが、それを一蹴して清盛は準備を進めました。

しかし治承4(1180)年11月、反乱鎮圧のために派遣した軍勢が富士川の戦いで大敗。各地で反乱の勢いがさらに加速し、もはや遷都に割く余力などありません。ここで声を上げたのが、いつもは清盛に従順な宗盛でした。

宗盛は還都を主張して清盛と大喧嘩になります。他の一門も宗盛の意見に賛同したため、さすがの清盛も今回は折れ、京に還ることになりました。

※参考:源平合戦における主な戦い。赤マーカーは源氏方、青は平氏方

清盛の後を継ぐ

還都の翌年、宗盛は新たに設置された畿内惣官(きないそうかん)に任じられます。これは畿内諸国に対する軍事指揮権を持つ行政官のようなもので、これにより宗盛は畿内諸国の武士に対し、広域的な軍事動員をかけることが可能になりました。

宗盛らが反撃の準備に勤しむ中、清盛が謎の高熱に倒れます。病床で自らの死期を悟った清盛は宗盛に後を託してこの世を去りました。このとき、清盛は頼朝の首を自分の墓前に供えるよう遺言したといいます。

かくして平氏の棟梁という重責を背負うことになった宗盛。頼れる兄ももういません。日増しに反平氏の機運が高まる状況下で、平氏一門の命運は宗盛に委ねられたのです。


激化する内乱

清盛の死により、治承三年の政変以降、幽閉されていた後白河法皇が解放されると、宗盛は清盛の遺言通り、後白河と協力して国政運営にあたります。

清盛のような強硬路線をやめ、後白河と協調の道を採ることになりました。とはいえ、後白河と宗盛は意見が合わず、滋子存命時のような安定した関係を築くことはできなかったようです。

源頼朝の和平工作

後白河が国政に復帰したとはいえ、軍事指揮権は未だ平氏が掌握していたため、宗盛は再び反乱鎮圧に力を注ぎます。しかし中々思うようにいきません。そんな中、関東の大部分を支配下におさめていた源頼朝は、密かに後白河へある提案をします。後白河を介して、平氏と和平を結ぼうとしたのです。

このとき国内は深刻な飢饉に見舞われており(養和の飢饉)、戦線は膠着していました。内乱が長引けば京内の物資不足も深刻化するので、理にかなった提案と言えます。後白河は宗盛に意向を尋ねますが、宗盛は先の清盛の遺言を理由にこの提案を撥ねつけます。

武士の世界では父祖の言葉には大きな影響力があります。宗盛らは亡き父の遺言通り、是が非でも頼朝討伐を成し遂げようとしたのかもしれません。現実問題として、この時の平氏軍は官軍の立場にありました。いくら強大でも所詮は反乱軍、いずれ鎮圧できるという自信があったとも考えられます。

一門の都落ち

和平を拒否した宗盛でしたが、反乱の勢いは増すばかりでした。この時彼を悩ませたのが、信濃で兵を挙げた木曾義仲(きそよしなか)です。彼は挙兵後、破竹の勢いで平氏軍を破りその勢力を拡大していました。宗盛は追討軍を送り込みますが、勢いに乗る義仲軍の前に大敗を喫してしまいます(俱利伽羅峠の戦い、篠原の戦いなど)。

義仲軍が目の前に迫り、京の防衛が絶望的になった宗盛は後白河法皇と安徳天皇を擁して西国への退去を決意します。しかし、これを事前に察知した後白河には逃げられてしまいます。狙いが外れ途方に暮れた宗盛は、仕方なく安徳と三種の神器を擁して西へと出立します。

平氏に従う者は少なく、一門内でも離脱者が出る始末でした。特に後白河と袂を分かち、その後ろ盾を失ったことは致命的で、宗盛らは官軍から一転、賊軍へと転落してしまいます。


落日の平氏一門

宗盛らは九州に落ち延びますが、現地の平氏追討軍の勢いは強く、僅か数か月で追い出されてしまいます。何とか支援者のいる四国に落ち着きますが、後白河から平氏追討の任を受けた義仲軍が間近に迫っており、一門は絶体絶命の危機に晒されていました。

危機回避と勢力挽回

和平交渉も聞かず、四国上陸を狙う義仲軍を平氏軍は何とか阻止します。そんな中、後白河が頼朝と手を組んだという報が義仲の耳に入ります。義仲は平氏を都落ちさせたまでは良かったのですが、軍勢を上手く統率できず、京中では義仲軍の狼藉が問題になっていました。日頃の義仲の振舞いにも不満を抱いていた後白河は、とうとう義仲を見限ったのです。

慌てた義仲軍が撤退したおかげで難を逃れた平氏一門は、義仲と頼朝が戦っている隙に勢力の回復に成功します。讃岐国屋島(やしま)に内裏を築き、さらに福原に前線基地を設けて頼朝軍との戦いに備えました。

度重なる敗戦

義仲を倒し、平氏追討の任を受けた頼朝軍と対峙した平氏軍は、福原を中心に広域的な防衛陣地を築きます。しかし頼朝軍の大将・源義経による奇襲で大敗北を喫し、有力な武将の多くを失ってしまいます(一ノ谷の戦い)。

大打撃を受けた宗盛は、ここでようやく先の和平交渉に応じる姿勢を見せます。神器や天皇らを帰京させる代わりに、一門の安全を保障して欲しいと後白河に頼みますが、時すでに遅し。徹底的な平氏追討を決めていた後白河と頼朝はこの和平交渉には応じませんでした。

屋島へと退却し防御を固める平氏軍を頼朝軍は攻め立てますが、ここで予想外の苦戦を強いられます。平氏軍は頼朝軍の根負けを狙えるところまで粘りましたが、拠点の屋島がまたしても義経の奇襲に遭います(屋島の戦い)。

そして周囲の味方も次々と攻略され孤立した平氏軍は、残った兵力を結集し頼朝軍に決戦を挑むことに…。


宗盛と平氏一門の最期

総力を結集して挑んだ決戦(壇ノ浦の戦い)は序盤こそ平氏優勢で進みますが、次第に追い詰められてしまいます。軍が壊滅すると平氏一門は次々と海へ飛び込み、命を絶ちました。宗盛も同様に入水しますが死にきれず、結局息子の清宗と共に海から引き上げられ、捕虜となってしまいます。

捕虜となった宗盛親子は敗軍の将として鎌倉に護送されます。頼朝らの前に引き出された宗盛は必死に命乞いをし、周囲を呆れさせたといいます。命乞いも空しく、その後は京へと送還されて斬首。享年39。ちなみに息子の清宗も同じく処刑され、宗盛の系統は途絶えてしまうのでした。

おわりに

平氏都落ち後の惨めな姿ばかりが注目され、悪い印象を抱かれがちな宗盛。確かに自害できなかったり、命乞いをしたりと、武将としての才覚はイマイチだったのかもしれません。しかし王家や摂関家との仲介役を務めたり、清盛に対して物怖じせずに意見を言ったりと、政治家としての宗盛には決して無能な印象はありません。

そもそも、清盛存命時にはすでに反平氏の動きが深刻化していたので、内乱の拡大は宗盛1人の裁量ではどうしようもなかったとも考えられます。平氏政権が抱えていた課題は、宗盛の手に余るほどの難題だったのです。


【主な参考文献】
  • 田中大喜「平宗盛―悲運の武家の棟梁」(野口実編『治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立(中世の人物 京・鎌倉の時代編 第二巻)』清文堂出版、2014年)
  • 元木泰雄『平清盛の闘い―幻の中世国家―』(角川ソフィア文庫、2011年)

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  この記事を書いた人
篠田生米 さん
歴オタが高じて大学・大学院では日本中世史を学ぶ。 元学芸員。現在はフリーランスでライター、校正者として活動中。 酒好きなのに酒に弱い。

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