「治承・寿永の内乱(源平合戦)」鎌倉幕府成立のきっかけとなった大規模内乱
- 2022/04/06
平安時代末期、治承4(1180)年から元暦2年(1185)にわたり続いた大規模な内乱がありました。俗に源平合戦と呼ばれる「治承・寿永の内乱(じしょう・じゅえいのないらん)」です。
平氏の政権に反発した武士たちが各地で蜂起し、最終的には源頼朝率いる軍勢が長門国の壇ノ浦で平氏を滅亡に追い込み、内乱は終結します。日本のほぼ全域を巻き込んだ大事件であり、鎌倉幕府成立のきっかけともなりました。戦場の主役はもちろん武士ですが、内乱の推移や武士たちの去就には政治的な要因が複雑に絡み合っていたのです。
この戦いがどのように推移していったのか、詳しく見ていきましょう。
平氏の政権に反発した武士たちが各地で蜂起し、最終的には源頼朝率いる軍勢が長門国の壇ノ浦で平氏を滅亡に追い込み、内乱は終結します。日本のほぼ全域を巻き込んだ大事件であり、鎌倉幕府成立のきっかけともなりました。戦場の主役はもちろん武士ですが、内乱の推移や武士たちの去就には政治的な要因が複雑に絡み合っていたのです。
この戦いがどのように推移していったのか、詳しく見ていきましょう。
内乱の火種
平清盛のクーデター
内乱のきっかけは治承3(1179)年に遡ります。後白河法皇との関係が悪化した平清盛は兵を率いてクーデターを敢行、法皇を幽閉しその院政を停止してしまいます(治承三年政変)。また、平氏に協力的でない貴族をことごとく解官し、彼らの知行国を奪い取ってしまいました。
清盛は翌治承4(1180)年、孫の安徳天皇を即位させて新たな政権を打ち立てますが、これが平氏の傀儡政権であることは誰の目から見ても明らかでした。武力による強引な政権奪取には各所から大きな反発が巻き起こりました。
以仁王の挙兵
こうした中、後白河法皇の第3皇子・以仁王(もちひとおう)が、摂津源氏の源頼政と協力して平氏打倒を計画します。この計画は以仁王周辺の武士や寺社勢力を巻き込んだ大規模なものとなる予定でしたが、事前に平氏方の知るところとなり、早急に鎮圧されてしまいます。ただ、以仁王はこの時、全国の武士に平氏打倒のために立ち上がるよう檄を飛ばしていました(以仁王の令旨)。この事件を皮切りに、全国で武士たちの反乱が相次ぐようになるのです。
平氏の支配と武士たち
治承三年政変や以仁王の挙兵により、平氏一門の知行国は膨れ上がりました。知行国主の交代はその国に住む武士たちの人事にも影響が出ます。特に平氏の知行国では、現地の平氏方武士が勢いを強め、他の武士たちを抑圧するようになりました。平氏のせいで先祖代々の地を脅かされ、職にあぶれる武士が出はじめたのです。頼朝が流人生活を送っていた伊豆国も例外ではありません。伊豆は元々は源頼政の知行国でしたが、彼が以仁王との挙兵の際に敗死したことで、平氏の知行国となっていました。国内では平氏方の山木兼隆(やまき かねたか)らが権力を握り、頼朝の監視役であった北条氏は国内での立場を失っていきました。
自らの所領と権益を守るため、北条氏をはじめ坂東の武士たちは頼朝を担ぎ上げます。以仁王の挙兵以降、源氏への圧迫が強まっていたこともあり、頼朝もついに挙兵を決意。伊豆国内や近隣の相模・武蔵の武士へ呼びかけ、挙兵の準備を進めます。
東国での反平氏勢力の挙兵
源頼朝の挙兵
治承4(1180)年8月、兵を挙げた頼朝は山木兼隆を襲撃し、これを討ち取ります。好調な滑り出しを見せた頼朝らでしたがその直後、彼らの前に平家方の武士・大庭景親(おおばかげちか)の大軍が立ちふさがります。大雨によって味方との合流が叶わず、頼朝らは大敗を喫してしまいます(石橋山の戦い)。どうにか逃げ延びた頼朝一行は安房国へと脱出し、味方の三浦氏一族との合流に成功します。その後勢力を回復した頼朝のもとへは徐々に武士たちが集まってきました。下総の千葉氏や上総介氏など有力武士も多数味方に加わり、その勢力は急速に強まりました。
頼朝に味方した武士たちは源氏との誼や主従関係を理由に集ってきたわけではなかったようです。上記の千葉氏や上総介氏もまた、平氏方の抑圧によって不利益を被っていた武士です。彼らはみな平氏から自らの権益を守るために立ち上がり、その目的を果たすために頼朝の元へ集ったに過ぎません。長らく流人で自らの武力や所領を持たない頼朝にとって、こうした武士たちとどう付き合っていくかは非常に難しい問題だったと思われます。
※参考:「治承・寿永の内乱」の主な戦の一連の流れ
治承4年 (1180年) |
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寿永2年 (1183年) |
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寿永3年 (1184年) |
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元暦2年 (1185年) |
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富士川の戦い
頼朝の挙兵とほぼ同時期に、甲斐では武田信義を中心とする甲斐源氏が、信濃では頼朝の従兄弟にあたる木曾義仲が相次いで兵を挙げていました。拡大する反乱を危惧した平氏一門は追討軍を編成して差し向けます。追討軍は東海道を進み、治承4年10月18日、駿河国富士川で甲斐源氏の軍勢と対峙します(富士川の戦い)。反乱軍と平氏軍ついに激突か!と思いきや、反乱軍の大軍をみた平氏軍は意気消沈し、戦う前から離脱者が相次ぐ始末だったといいます。結局目立った戦闘の無いまま追討軍は総崩れとなり京へと撤退してしまいます(水鳥の飛び立つ羽音を反乱軍の奇襲と勘違いした平氏軍がパニックに陥ったとも)。
軍制上の問題で平氏軍は元々士気が低く、加えて平氏軍が頼りとしていた駿河国の橘遠茂が直前に甲斐源氏に敗北していたことも影響を与えたと考えられています。
勝利した頼朝は勢いに乗って上洛を狙いますが、味方の武士たちからは先に関東の平定を優先すべきとの意見が上がります。彼らの意向を無碍にはできません。頼朝は上洛を断念し、以降しばらく北関東の敵対勢力の鎮圧に力を注ぐようになります。
清盛の死
富士川で大敗した平氏は畿内の反乱勢力への対応も強いられていました。特に興福寺などの寺社勢力に手を焼いた清盛は、鎮圧のため息子・重衡を差し向けます(南都焼討)。嫡男の宗盛へは数か国規模の軍事指揮権を持たせるなど反乱への対処を進めていく清盛でしたが、治承5(1181)年閏2月、謎の高熱に倒れこの世を去ります。清盛の死や後白河院政の復活によって益々状況が悪化した平氏一門でしたが、反乱には依然強い態度で臨み続けました。折からの飢饉(養和の飢饉)で戦線が膠着する中、清盛の死を知った頼朝は朝廷に密使を送り、平氏との和平を画策します。
自分たち反乱軍の立場が保証されるなら、平氏と共存しても構わないという提案でした。しかし清盛の後継者・宗盛はこれを一蹴、頼朝軍と平氏軍の戦いは継続することとなります。
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源氏 VS 源氏
義仲の上洛
寿永2(1183)年4月、平氏の大軍を破った木曽義仲が破竹の勢いで進軍し、京に迫ります(俱利伽羅峠の戦い、篠原合戦など)。京の防衛が絶望的となった平氏一門は安徳天皇と三種の神器を擁して西へと逃れました(平家の都落ち)。宗盛は後白河法皇を同行させようとしますが、逃げられて失敗となり、一門内からも離反者が出はじめます。後白河という後ろ盾を失った安徳天皇は正当性を失い、彼を奉じる平氏も一気に官軍から賊軍へと転落してしまうのでした。
義仲は京を平氏から解放し、上洛を遂げた当初こそ歓迎されましたが、度重なる失態で徐々に評判を落としていきます。義仲の統制が行き届かず、京では略奪や狼藉が横行し、法皇の権限である皇位継承にも口を出す始末でした。
一方、朝廷では義仲の評価低落に伴って、頼朝への期待が益々高まることに。義仲を疎ましく思いはじめた後白河は平氏追討を理由に義仲を京から出立させるのです。
反乱軍の立場を脱する頼朝軍
義仲の出陣後、後白河は頼朝に連絡を取り、上洛を促します。10月14日、後白河は頼朝ら反乱軍がこれまで築いてきた軍事体制を公認し、東国における事実上の軍事・警察権を認めました(寿永二年十月宣旨)。これにより頼朝は「謀反人」の立場を脱し、その軍勢は反乱軍とは見做されなくなりました。しかし、頼朝は鎌倉からは動かず、弟の義経を大将として京へ派遣します。一方の義仲は出征先で平氏軍に大敗し、有力な配下を失っていました(水島の戦い)。そんな中、鎌倉から軍勢が上洛してくるという情報を得た義仲は急遽京へと帰還します。自分を蔑ろにし、頼朝を頼った後白河のことを義仲はたいそう恨んだといいます。
後白河は義仲に問い詰められても強硬な態度を変えず、2人の対立は決定的なものに。怒った義仲は後白河の籠る法住寺殿を襲い、彼を幽閉してしまいます(法住寺合戦)。
義仲は法皇に迫って頼朝追討の命を出させ、翌寿永3(1184)年正月には征東大将軍に任じられます。クーデターによって政権を掌握した義仲は形式上、官軍の立場となりました。
義経の出撃と義仲の最後
鎌倉を出立した義経軍はすぐには京に入らず、しばらく伊勢国に逗留していました。鎌倉から率いてきた軍勢が少数だったこともあり、付近の武士たちの組織化に勤しんでいたと考えられています。義仲軍と戦うための兵力は中々集まりませんでしたが、法住寺合戦によって状況が一変しました。これまで義仲に味方していた武士たちが一斉に反旗を翻したのです。彼らは京周辺に所領を持つ独立した武士団で、平氏の都落ち後は京中守護という共通の目的のため、義仲と協調していたに過ぎません。クーデターによる強引な政権掌握を敢行した義仲に対して鋭く反発したのです。
こうして大軍となった義経軍は京に迫ります。孤立した義仲は成す術もなく、逃亡の途中、近江粟津で戦死するという最期でした。
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源氏 VS 平氏
一ノ谷の戦い
寿永3(1184)年正月20日、京は頼朝軍の支配下に置かれました。義仲の討伐を果たした頼朝軍はいよいよ平氏軍と対峙することになったのです。平氏追討を強く主張する後白河法皇の意を汲み、同年の2月1日に範頼と義経が京を出立します。畿内周辺の武士たちを味方に加えながら進み、兵を二手に分けて摂津国福原で陣を構える平氏軍を強襲します(一ノ谷の戦い)。虚を突かれた平氏軍は総崩れとなり、一門や有力武将の多くを失う大損害を被りました。
一ノ谷の勝利によって畿内を支配下に収めた頼朝軍は義経を平氏追討の担当とし、引き続き対平氏戦に備えます。しかし度重なる戦乱によって疲弊・混乱した畿内情勢のため、義経はしばらく京に留まって治安維持に専念することになりました。
そんな最中の7月、伊勢・伊賀で平氏一門と家人による大規模な反乱が勃発します。御家人が戦死するほどの被害が生じ、反乱鎮圧後も首謀者の一人である伊藤忠清が潜伏を続け、京に不安を与え続けました。そのため義経は益々京に留まらざるを得なくなり、平氏追討が進まなくなってしまいました。
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屋島の戦い
8月、京の治安維持で手が離せない義経に替わり、兄の範頼が東国武士を率いて平氏追討に向かいます。目的は九州へ渡り、讃岐国屋島に拠点を構える平家軍の背後を遮断することでした。東国の精鋭を率いて出立した範頼でしたが、平氏方の抵抗により中々九州に渡れずにいました。
これを聞いた義経は後白河法皇に許可を得て出撃、道中で頼朝にも許可を得ると一気に四国へと渡ります。四国で現地の武士の協力を得た義経軍は屋島を急襲し、平氏軍を追い落とします。
またしても虚を突かれた平氏軍は戦闘らしい戦闘も行わずに逃走したようで、戦死者もほとんどなかったと考えられています。
対義仲戦からここまでを見ると分かる通り、義経軍は戦闘のたびに京周辺や、戦地付近の反平氏勢力を組織化して動員しています。武士たち、特に東国武士は西国への遠征のように自らの所領や権益に関わらない戦いには消極的でした。
治承・寿永の内乱は、終始東国武士たちが主体となって平氏を追い込んでいったようなイメージがありますが、実際には様々な勢力が入り乱れ、敵になったり味方になったりしながら進んでいったのです。
壇ノ浦の戦い
義経の活躍もあり、一気に追い詰められた平氏軍ですが、こうした急速な進展は頼朝にとっても予想外でした。頼朝は元々平氏をゆっくりと追い詰めて降伏に追い込む算段を立てていたと考えられています。降伏させた平氏から三種の神器と安徳天皇を安全に取り戻し、戦後の後白河法皇との交渉を優位に進めようとしていたのかもしれません。屋島から続く義経らの性急な攻撃は、平氏に降伏させる隙を与えなかったのです(後白河法皇が平氏追討を強く主張していたのもあります)。
元暦2(1185)年3月24日、総力を結集した平氏と決戦の火蓋が切って落とされます(壇ノ浦の戦い)。激しい戦闘が行われますが、戦いは多くの味方をそろえた義経軍の圧勝でした。平氏一門は次々と討死・自害し、生き残った者も悉く捕虜となりました。
安徳天皇の命は平時子(二位尼)と共に失われ、三種の神器のうち宝剣はついに見つからずじまいだったといいます。戦闘こそ頼朝軍の大勝利でしたが、安徳と神器の奪回は叶いませんでした。
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激闘の果てに
壇ノ浦での勝利、平氏滅亡の知らせは4月11日に鎌倉の頼朝の元に届けられました。知らせを聞いた頼朝は言葉を発さず、じっと黙ったままだったといいます。平氏追討を達成しつつも、安徳天皇と神器を失う始末、無言の頼朝の胸中はどのようなものだったのでしょうか。平氏の滅亡により、長きに渡った内乱はようやく終結しましたが、一件落着とはいきませんでした。戦時に反乱軍として出発した頼朝軍は、自らを平時に対応させるため、組織改革を行う必要があったのです。
この後は義経をはじめ、頼朝方として内乱を戦った者たちに大きな混乱があったことは知っての通りです。武士たちのあり方がこれまでと大きく変わろうとしていました。
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【主な参考文献】
- 上杉和彦『戦争の日本史 6 源平の争乱』吉川弘文館、2007年
- 川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究』講談社学術文庫、2010年
- 川合康『源頼朝 すでに朝の大将軍たるなり』ミネルヴァ書房、2021年
- 元木泰雄『源義経』吉川弘文館、2007年
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