「肥後国人一揆(1587年)」豊臣政権の試練と、佐々成政失脚の戦!九州国衆の大反航戦

 日本史上、最初に日本全国を統一した天下人といえるのは、言わずと知れた豊臣秀吉その人とされています。しかしその道のりは決して平坦ではなく、統一事業の途次では大規模な抗戦を受けることもあり、徐々にその動員兵力もおびただしいものとなっていったことが分かります。

 また、統治政策での失敗が現地勢力の反発を招く事態も起こり、その最たるものが九州経営における一連の騒乱です。天正15年(1587)に勃発した「肥後国人一揆」、あるいは「肥後国衆一揆」や「肥後国天正十五年一揆」などと呼ばれる反豊臣抵抗運動がそうで、非常に緊迫した状況に陥った事件でした。

 今回はそんな肥後国人一揆についてみてみることにしましょう。

合戦の背景

当時の九州における勢力図

 九州地方は歴史的に、いくつかの勢力が盛衰を繰り返しながらパワーバランスのしのぎを削ってきました。

 当時の肥後国(現在の熊本県あたり)は元来の守護である菊池氏が戦国時代までに衰亡し、多数の国人がひしめき合う状態が続いていました。国人とは地侍とも呼ばれ、在地の武装領主層、すなわち有力地方豪族を意味しています。

 南九州の島津氏が勢力を伸長した時期、肥後の国人はその支配下に置かれたこともありましたが、天正15年(1587)に秀吉による九州征伐の結果として撤退していきました。そこで肥後国支配のために派遣されたのが、織田信長の旧臣・佐々成政です。

 成政は織田家中においては反秀吉派のメンバーでしたが、富山の役のときに敗北し、助命されて秀吉の軍門に降っていました。

 そんな難しい立場の成政が、政情不安下の肥後統治政策を通じ、国人と衝突したのが肥後国人一揆へと至る背景です。


戦に至る経緯

 結論からいうと、この一揆の直接の引き金となったのは成政の性急かつ強引な統治政策への反発だったとされています。『小早川家文書』の秀吉朱印状によると、

  • 成政が、秀吉朱印状で保証された通りの領地を国人たちに渡さなかったこと
  • 検地は翌年実施の命令が下っていたにも関わらず、成政は強引に即時実施したこと
  • 成政が農民に対し、過剰な徴税を行ったこと

 以上の三点が原因となって、国人と領民たちによる徹底抗戦へと発展してしまったことが指摘されているといいます。

 諸説あるようですが、基本的にはこのように秀吉の意向とは異なる、成政の独断による圧政への反発があったと考えられています。

合戦の経過・結果

有力国人・隈部親永(くまべちかなが)の造反

 合戦の発端は天正15年(1587)7月上旬、新領主・成政の政策に反発した肥後国北東部の有力国人「隈部親永」が挙兵し、隈府城(まいふじょう:菊池城とも)に籠城したことに始まります。

 親永の子で城村城主であった隈部新泰もこれに呼応、秀吉が本来発行した朱印状の内容を根拠として成政の検地に反抗の構えを示しました。これを征討すべく、成政は拠点としていた隈本城(のちの熊本城)を進発。隈府城を攻囲します。

肥後国人一揆マップ。色塗部分は肥後国

 正確な兵力は詳らかではありませんが、一説には隈府城には弓鉄砲の上手 500~600人とその他1000人余りが籠城していたといいます。成政は3000余騎を差し向けたともいわれ、攻城戦のセオリー通り徒歩兵を含め数倍する戦力でもってこれにあたったといえるでしょう。

 隈府城は8月6~7日の攻撃によって陥落しますが、隈部親永は子の親泰が守る城村城へと退避。
成政軍は城村城の堅牢さに攻めあぐね、攻略に失敗します。

 隈部氏蜂起の報はほどなく肥後北部地域の国人たちにも知られ、「和仁(わに)氏」「辺春(へばる)氏」「内空閑(うちこが)氏」そして旧阿蘇氏家臣団の各城主層がこれに合力していきます。

 さらにその間には、成政軍不在で手薄となった隈本城が阿蘇氏家臣の甲斐親英らによって包囲されるという事態を招き、危機的状況に陥りました。

 急きょ、城村城攻略から転進して隈本城へと向かった成政軍でしたが、その撤退戦のさなか成政の甥・佐々成能を含む多くの家臣が戦死し、戦況打破のため秀吉へと援軍要請を送るまでに追い詰められたのでした。

第一次救援の失敗、第二次救援の激戦

 成政からの援軍要請を受け、同年9月に安国寺恵瓊と鍋島直茂が補給部隊を派遣します。しかし肥後国北西部の南関において在地勢力の待ち伏せを受け、この第一次成政救援作戦は失敗に終わります。

 次に第二次救援部隊として派遣されたのが立花宗茂と高橋直次の兄弟で、現在の福岡県柳川市本城町にあった柳川城を発しました。補給部隊を含むこの第二次救援隊では直前の戦訓により、敵方の伏兵を事前に予測した突破作戦を採用しています。

 これにより南関の大津山城を攻略し、隈部勢に包囲されていた成政の軍に兵糧を届け、これを救出することに成功しました。この時、成政軍は隈部親泰の城村城をけん制するために建設した支城にて包囲されるという、絶体絶命の状況下にありました。

 救援の立花・高橋勢は一日に実に13度に及ぶ戦闘と、7城を攻略するという獅子奮迅の働きをみせ、多数の肥後国人方の武将を討ち取ったといいます。これにより、成政軍は辛くも防戦に成功したと伝わっています。

大軍勢による一揆殲滅作戦

 肥後国北部で着火した反抗の狼煙でしたが、この運動はやがて一国全域に波及していきました。

 また、豊前国の中通一揆、肥前国の諫早一揆、筑後国の草野氏の動揺等々、九州各地の国人衆にまでその影響が及んでいきます。

 一連の反抗戦は「一揆」と名の付くように、有力な農民層などの庶民もが積極的に関わったものでした。その総兵力はおびただしいものとなり、当時の九州島はまさしく火薬庫の様相を呈していました。

 事態を重く見た秀吉は同年9月7日、小早川隆景への出兵命令をはじめ九州および四国各地の大名にも派兵要請を行い、一揆勢の徹底弾圧を厳命します。しかし反抗勢力は精強であり、10月初旬には一揆加担者全員の斬首と、翌春には2万人の兵力動員を計画していました。

 さらに二段構えとして、それでも鎮圧ができない場合は豊臣秀長麾下・10万の兵力を動員する掃討作戦を構想していたとされ、事実上殲滅戦の様相を呈していました。

 12月までには小早川(毛利)秀包を総大将とする九州・四国大名混成部隊を派遣、12月26日には隈部親永が籠もる城村城をついに攻略し、一応の一揆鎮圧を実現したのでした。


戦後

 肥後国の代理統治者としての失策から大戦を招いた佐々成政は、戦後に謝罪のため大坂の秀吉に謁見を願いますが、秀吉の怒りは深く、面会を許されないまま切腹を命じられます。

 また、一揆勢の頑強な抵抗という戦訓がもとになり、農民の武装化を抑制する刀狩りが強化されていくことになります。

 やや緩やかな体制での一部武装解除は例としてあったものの、この肥後国人一揆が契機となり、その施策はより徹底したものへと変貌していきました。

 こうして九州を平定した秀吉は、やがて文禄・慶長の役の足掛かりとなる、前線基地を構築していくことになります。


おわりに

 肥後国人一揆という国衆との大規模な戦闘を経て、豊臣軍が認識したのは武装した農民兵力、つまり民兵の恐ろしさではなかったでしょうか。

 当時の農村では「惣(そう)」と呼ばれる強固な自治組織があり、有事には戦うこともいとわない精強さをもっていたと考えられます。

 自身も農民層出身であった秀吉は、圧制支配では統治できないことをよく理解していたはずです。後の刀狩令でも、単純に武装解除を命じるのではなく、改修した刀槍類を大仏建立の建材にするといった名目を設けるなど、人心掌握に配慮を行っています。

 対領民という意味においても、この事件は豊臣政権にとって重大な局面であったことがうかがえます。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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