「平徳子(建礼門院)」平家滅亡後も生き残った安徳天皇の生母

東滋実
 2022/05/23
寂光院(平 徳子)『文藝倶楽部』7巻13号口絵(水野年方 筆)
寂光院(平 徳子)『文藝倶楽部』7巻13号口絵(水野年方 筆)

「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし(平家一門でない者はみな人でなしだ)」という『平家物語』の平時忠の言葉が示すように、ほかに並ぶものはないほど平家の天下であった時代に、平徳子(たいら の のりこ)は育ちました。

天皇に入内し、生んだ皇子が天皇となり、女性として頂点までのぼった徳子(院号は建礼門院。けんれいもんいん)は、平家の滅亡により零落してしまいます。

この平徳子の悲劇については、本人が語った言葉は残っておらず、ほとんどは『平家物語』の中に描かれた姿からしか知ることはできません。どこまでが史実でフィクションなのか、はっきりしない部分も多いものの、主に『平家物語』を通して彼女の生涯を見ていきましょう。

平清盛の娘

平徳子は、久寿2(1155)年ごろ(諸説あり)に平清盛の次女として誕生しました。母は清盛の継室の平時子(堂上平氏出身)で、同母兄弟には宗盛、知盛、重衡らがいます。

この数年前には祖父の平忠盛が亡くなり、父の清盛が平家の棟梁になっていました。それから保元の乱、平治の乱を経て清盛は参議・正三位に昇進し、武士としては初めて公卿に列しました。さらに仁安2(1167)年には従一位・太政大臣(太政官の長)まで昇り、臣下として最高の地位についています。徳子はこのような時代に生まれ育ったのです。

ところで、この「徳子(とくこ/のりこ/とくし)」という名前は、生まれた時につけられたものではありません。高倉天皇に入内するにあたって新しくつけられた名前で、それ以前のものはわかっていません。

高倉天皇の肖像(宮内庁蔵、『天子摂関御影』より)
高倉天皇の肖像(宮内庁蔵、『天子摂関御影』より)

高倉天皇に入内、国母へ

清盛がスピード出世して権勢をふるい、その娘の徳子が高倉天皇に入内した背景には、後白河院最愛の人といわれる建春門院(平滋子/しげこ)がいました。

建春門院は清盛室・時子の異母妹です。高倉天皇は後白河院と建春門院との間に生まれた皇子であったため、徳子の入内は高倉天皇の生母であり、徳子の叔母でもある建春門院の意向が反映されたものであったと考えられます。

承安元(1171)年12月14日、徳子は名義上、後白河院の猶子となり、院の御所・法住寺殿から内裏に入りました。従三位に叙せられて女御となり、翌承安2(1172)年2月に中宮となりました。

高倉天皇の子を生んだ女性たち

徳子は皇子を生んでほしいという平家一門の期待を背負っており、並々ならぬプレッシャーがかかっていたものと想像されますが、入内から懐妊までは6年ほどかかっています。

入内時に時子が数え年17歳であった一方、高倉天皇は元服したばかりの11歳であったことを思えば無理もないことですが、高倉天皇の最初の子は安徳天皇誕生の2年前の安元2(1176)年に生まれています(功子内親王)。

功子内親王の母は、高倉天皇の乳母および副臥(そいふし/元服後に女性を添い寝させること)を務めた藤原公重の娘(帥局)で、副臥、つまりは「性の手ほどき」をしている間に懐妊したようです。

また、徳子よりも先に天皇の子を生んだ女性は他にもいます。藤原成範(しげのり)の娘・小督(こごう)という女性です。『平家物語』巻六には、この宮中一の美女の小督と高倉天皇の恋のエピソードがあります。

『平家物語』では、この直前に高倉天皇が恋した葵の前という女童(めのわらわ/徳子に仕える女房の召使い)との悲恋を語っています。召使いにすぎない少女を熱愛する天皇の様子に人々が「葵の前(本来召使いに「前」という貴人の敬称は用いない)」と呼んだり、のちに女御になるかもしれないといって「葵女御」などと呼んだりしているのを知った天皇が、はばかって少女を召さなくなったのでした。

物語はその流れから、少女への恋を諦めた高倉天皇を慰めるために徳子が小督を「参らせ」たということですが、実際は高倉天皇が見染めて召し上げたのでしょう。この後、高倉天皇と小督の関係を知った清盛が激怒して(小督には天皇とは別の恋人・藤原隆房がおり、この男も天皇と同じく清盛の娘婿だった)、清盛を恐れた小督が嵯峨に逃れたものの、高倉天皇に探し出されて女子を生んだ、とあります。

このように、徳子よりも先に天皇の子を生む女性がいては、清盛も徳子も気が気ではなかったでしょう。第一皇子こそ徳子が生みましたが、ほかに上記の女性たちとは別にふたりの女性が皇子を3人生み、また皇女を生んだ別の女性もいます。ただ、天皇が多くの后妃をもつのは普通のことではあります。

徳子と高倉天皇の関係は良好だった?

徳子の女房には、歌人の建礼門院右京大夫がいます。彼女の私家集(個人の歌集)に恋人の藤原隆信、平資盛(すけもり/清盛の孫)との恋の歌を主にまとめた『建礼門院右京大夫集』がありますが、その中には主人の徳子、高倉天皇についての記述も見えます。

はじめのあたりに、高倉天皇在位の承安4(1174)年ごろ、中宮徳子の御所に高倉天皇が訪れた時の歌があります。

「雲の上にかかる月日の光見る身の契りさへうれしとぞ思ふ」

『建礼門院右京大夫』より

「宮中に出仕して、このようにすばらしい御門や中宮様のご様子を、あたかも雲の上にかかっている日月の光のように仰ぎみることは、そしてさらに、そのように定められていたこの身の前世からの約束さえうれしく思われる」という内容の歌で、高倉天皇と徳子を雲の上の存在として見ていることがわかります。

中宮に仕える女房が仕える高貴な主人を前に浮き立つ心情を記した作品といえば、清少納言の『枕草子』が思い出されます。清少納言の主人・中宮定子と一条天皇が相思相愛であったことは有名で、『枕草子』からもそれがうかがえますが、建礼門院右京大夫の主人・徳子と高倉天皇の関係はどうだったのでしょうか。

『建礼門院右京大夫集』には、ふたりに関するエピソードもあるので、不仲であったということはなさそうですが、寵愛されたというエピソードはなく、高倉天皇が一時的に寵愛した女性は多く、定子と一条天皇のように、また叔母・建春門院と後白河院のような関係ではなかったものと思われます。

とはいえ、徳子は治承2(1178)年11月12日に待望の皇子・安徳天皇(言仁親王)を生み、国母となりました。治承4(1180)年皇子は1か月後に立太子されると、その後すぐわずか3歳(満年齢で1歳2か月)で践祚しました。

これほど早い即位の背後には外祖父・清盛がいました。高倉天皇を退位させたのです。あまりに早い即位は世のそしりを受けたようですが、生後わずか7か月で践祚した六条天皇の例もあるように、幼帝の即位は院政期には珍しいことではありませんでした。

それから少し遅れて翌養和元(1181)年11月、国母の徳子は院号宣下を受けて女院(にょういん/上皇に準じる待遇の女性)となり、「建礼門院」と号しました。

転落する平家

清盛の天皇の外祖父としての輝かしい時代は、そう長くは続きませんでした。そもそも、安徳天皇誕生の前から後白河院との関係は変わり始めていたのです。

安元3(1177)年、後白河院の近臣が平家打倒を企てた鹿ケ谷の陰謀が起こりました。後白河院自身もこの事件に関与していたとされ、清盛との間に亀裂が生じました。後白河院と清盛の関係は、院に寵愛された建春門院が潤滑油の役割を担うことで保たれていましたが、建春門院はこの事件の前年に亡くなっていました。

徳子の出産の折には後白河院自ら祈祷をしたことが中山忠親の日記『山槐記』や『平家物語』に記されていますが、後白河院は鹿ケ谷の一件の罪滅ぼしのような気持ちで臨んでいたのかもしれません。

それも空しく、清盛と後白河院の関係はさらに悪くなります。治承3(1179)年のクーデター(治承三年の政変)で、清盛は軍を動員して後白河院の院政を停止させて幽閉し、院に近い貴族たちを解官し、自分の息のかかった藤原基通(清盛の娘婿)を関白に据えたのです。

この清盛の行動をきっかけに、翌治承4(1180)年5月、後白河院の第二皇子・以仁王(もちひとおう)が挙兵するとともに、各地の武士たちに打倒平氏を促す令旨を発しました。以仁王とそれに従った源頼政はすぐにつぶされたものの、令旨を理由に関東で源頼朝が挙兵しました。

平家は当初頼朝の挙兵など歯牙にもかけていなかったでしょうが、頼朝は関東で勢力を伸ばし、平家の栄光に翳りが差し始めました。

そんな中で高倉上皇、父清盛の死が続いたのは、平家一門にとって不運なことでした。なんとしても後白河院とのつながりを保ちたい清盛と時子は、危篤の高倉上皇が亡くなった場合、建礼門院を後白河院の後宮に入れるということさえ視野に入れていました。後白河院との和解条件には他の案もありましたが、他の誰でもない後白河院が建礼門院を自身の後宮に入れることを望んだといいます。

しかし、危篤とはいえまだ夫がいる身の建礼門院は、夫の父親の後宮に入ることは受け入れがたく、「そうするくらいなら出家する」と言って拒んだといいます(九条兼実の日記『玉葉』より)。

生き残った建礼門院

清盛の死後の寿永2(1183)年7月、頼朝の従兄弟の木曾義仲に敗れた平家はついに都落ちを決意します。

平家は安徳天皇と三種の神器、そして安徳天皇の皇太子とする弟皇子の守貞親王をつれて行きましたが、事前に察知した後白河院には比叡山に逃げられてしまいました。「治天の君」である後白河院を逃してしまったのは平家にとって不運でした。

その後、後白河院は三種の神器がないまま安徳天皇の代わりとなる天皇を新たに立て(後鳥羽天皇)、安徳天皇が亡くなるまでふたりの天皇が同時に存在することになりました。

西へ逃れた平家は何度か盛り返したものの、文治元(1185)年3月、長門国の壇ノ浦の戦いで敗れ、ついに滅亡。この時、安徳天皇は二位尼(時子)に抱かれ、八尺瓊勾玉、草薙剣とともに入水し、亡くなっています。

安徳天皇はまだ8歳(満年齢では6歳)のみずら結いの幼子。歴代でもっとも早く亡くなった天皇となりました。

安徳天皇の入水場面を描いた蠟人形
安徳天皇の入水場面を描いた蠟人形(出所:wikipedia

入水の時、「尼ぜ、われをばいづちへ具してゆかむとするぞ(尼ぜ、私をどちらへつれて行こうとするのだ)」と言う幼い天皇に二位尼が「この国は粟散辺地とて心憂きさかひにてさぶらへば、極楽浄土とてめでたき処へ具し参らせさぶらふぞ(ここは嫌なところだから、極楽浄土といういいところへお連れ申し上げます)」と言うと、天皇は激しく涙を流しながら手を合わせて東の伊勢神宮、西に念仏を唱えました。

そして「浪の下にも都のさぶらふぞ(波の下にも都がございますよ)」となぐさめた二位尼とともに海の底に消えて行ったという『平家物語』巻第十一の場面はとても有名ですが、時子に比べて安徳天皇の母である建礼門院は影が薄い存在です。

母とわが子が入水した時、建礼門院はどうしていたかというと、『平家物語』によれば焼石(温石)と硯を懐に入れておもりにして同じように身投げしたものの、源氏方の熊手に髪が引っ掛かって引き上げられ、生き延びたということです。

物語が描いたことなのでいずれにしてもどこまで史実に近いのか不明ですが、建礼門院の行動が事実なのだとしたら、温石や硯程度で沈むとは思えないので、ひどく動揺していたのだと想像されます。

大原御幸、建礼門院の「六道語り」

『平家物語』は、生き残って隠棲する建礼門院が、訪れた後白河院と対面して語る灌頂巻で幕を閉じます。

平家滅亡後、護送されて都に戻った建礼門院は、出家して大原の寂光院(京都市左京区大原)で、安徳天皇を弔いながら暮らしました。当時の大原は都から離れた北の方にある寂しい山里です。もとは吉田にいた建礼門院ですが、人々に好奇の目で見られることを避けて隠棲したのかもしれません。

『平家物語』が描く寂光院は屋根が壊れ、扉が落ちているような荒廃ぶりということで、『源氏物語絵巻』「蓬生」の末摘花邸のような状態を想像してしまいます。頼朝から荘園を与えられるのは文治3(1187)年のことですから、このころは本当に苦しくわびしい生活だったのかもしれません。

平家滅亡の翌年の文治2(1186)年4月下旬、後白河院は大原の建礼門院を訪ねます(大原御幸)。落魄した建礼門院は後白河院との対面をはじめ恥ずかしく思いながら、これまでの自分の栄華から転落までを語ります。

建礼門院は生涯で起きたつらい出来事を「六道(りくどう)」の天上道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道になぞらえ(宮中での生活・都落ち・一ノ谷以後・竜宮の夢/姦淫問題・船上生活での飢え・壇ノ浦など)て語りました。

『平家物語』は異本が多いため、本によってあるものないもの、内容の違いはあります。中には畜生道として、自身の兄・宗盛との近親相姦、源義経との姦淫のうわさが立てられた(『源平盛衰記』『延慶本』など)という話もあります。

実際どうだったかはわかりませんが、物語に書かれているならば当時そのようなうわさがあったことは事実なのでしょう。親兄弟、幼いわが子まで喪い零落した建礼門院はそれだけでもつらいのに、このようなうわさがあった(実際に本人が耳にしたかはわかりませんが)としたら、都を離れて大原に隠棲する気持ちもわかります。

姦淫問題について、そもそも後白河院が大原を訪れたこと自体、『平家物語』はスキャンダルをにおわせている、ともいえます。後白河院はかつて建礼門院を後宮にと望んだ人物で、『平家物語』の諸本のひとつ四部本では大原で建礼門院と「同宿」したいと院が言ったとあり、男女関係をにおわせます。

姦淫問題と同様に、当時建礼門院と後白河院の関係もうわさされていたのかもしれません。

建礼門院の最期

『平家物語』は、大原御幸の後の建礼門院について詳しく書いていません。

そのまま寂光院で亡くなったという説もありますが、貞応2(1223)年ごろに京の法勝寺で亡くなったという説が有力(法勝寺は建礼門院の妹の夫・藤原隆房管理する善勝寺の近くにあった)です。きっと亡くなるまで安徳天皇を弔って生きたのでしょう。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 佐伯真一『建礼門院という悲劇』(角川学芸出版、2009年)
  • 円地文子監修『人物 日本の女性史 第三巻 源平争乱期の女性』(集英社、1977年)
  • 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集(45) 平家物語(1)』(小学館、1994年)
  • 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集(46) 平家物語(2)』(小学館、1994年)※本文中の引用はこれに拠る。
  • 校注・訳:久保田淳『新編日本古典文学全集(47) 建礼門院右京大夫集/とはずがたり』(小学館、1999年)※本文中の引用、現代語訳はこれに拠る。

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター ...

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