「平維盛」光源氏の再来と称賛された美貌の平家公達
- 2022/05/21
平維盛(たいら の これもり)は、平清盛の嫡男・重盛の長男で、平家一門の嫡流・小松家(重盛の邸宅・小松第からこう呼ばれる)の公達です。
治承4(1180)年から始まった源平合戦では富士川の戦いや俱利伽羅峠の戦いで総大将として戦いましたが、平家軍は富士川の戦いでは戦うことなく逃走し、俱利伽羅峠の戦いでは惨敗。このことから維盛は臆病で軍事的に無能であったとされています。
その一方で、華やかだったといわれる平家の公達の中でも特に美男子であったことで知られ、後白河院の五十の賀宴で舞を披露し、そのあまりの美しさに「光源氏の再来」と称賛されたというエピソードが有名です。
維盛の叔父の重衡(しげひら/清盛の五男)も牡丹の花にたとえられた美男で、維盛と並んで華のある公達でしたが、重衡が「常勝将軍」と呼ばれたほど武勇に優れた武将であった一方、維盛は同じように大将軍として軍を率いながらも情けないエピソードに事欠かず、戦よりも音楽や舞の才能があった人でした。
戦から抜け出し入水した最期は、父亡き後の小松家が一門の中で居場所を失っていたこともありますが、もともと戦に向いていなかったのかもしれません。
治承4(1180)年から始まった源平合戦では富士川の戦いや俱利伽羅峠の戦いで総大将として戦いましたが、平家軍は富士川の戦いでは戦うことなく逃走し、俱利伽羅峠の戦いでは惨敗。このことから維盛は臆病で軍事的に無能であったとされています。
その一方で、華やかだったといわれる平家の公達の中でも特に美男子であったことで知られ、後白河院の五十の賀宴で舞を披露し、そのあまりの美しさに「光源氏の再来」と称賛されたというエピソードが有名です。
維盛の叔父の重衡(しげひら/清盛の五男)も牡丹の花にたとえられた美男で、維盛と並んで華のある公達でしたが、重衡が「常勝将軍」と呼ばれたほど武勇に優れた武将であった一方、維盛は同じように大将軍として軍を率いながらも情けないエピソードに事欠かず、戦よりも音楽や舞の才能があった人でした。
戦から抜け出し入水した最期は、父亡き後の小松家が一門の中で居場所を失っていたこともありますが、もともと戦に向いていなかったのかもしれません。
平重盛の長男として生まれる
維盛(これもり)の生年には諸説ありますが、同時代の公卿・九条兼実の日記『玉葉』の記述のとおり、承安2(1172)年に14歳だったとすれば、平治元(1159)年生まれと考えられます。維盛は平家嫡流の平重盛の長男として生まれており、『平家物語』や『玉葉』などでは嫡男であったようにいわれていますが、実ははっきりしません。維盛の兄弟の昇進スピードを比較してみると、長男である維盛よりもすぐ下の資盛(すけもり)、またさらにその下の清経の昇進のほうが早いのです。
特に、禁色(きんじき/天皇・貴族の位階によって着用が禁止された色)が許された年齢が早いのは清経でした。清経は重盛の正室・藤原経子(左大臣藤原経宗の猶子で高倉天皇の乳母を務めた)の子であったため、清経こそが嫡男であったといわれます。
維盛や資盛の母は重盛の正室ではありませんでした。資盛の母は藤原親盛の娘で二条院の内侍と呼ばれた人で、維盛の母は名前が知られていない官女(一説には平時子の妹・坊門局とされる)でした。兄弟間で昇進スピードが違い、清経が抜きんでているのは、母の身分や実家の力の差によるところが大きいと思われます。
長男の維盛は途中まで資盛に遅れていましたが、正五位下になった年齢は資盛よりも早かったようです。この年は嘉応3(1171)年。前年に資盛が起こした「殿下乗合事件(摂政・藤原基房の牛車と行き違った際に非礼を働いたため小競り合いとなって恥辱を受け、後日重盛が報復した事件)」の影響で維盛が一歩リードしたのかもしれません。
維盛のこれ以降の昇進スピードは、維盛が藤原成親(後白河院の近臣)という有力貴族の娘を正室に迎えたことも関係してか順調でしたが、重盛の邸宅・小松第を継承し、後白河院の近臣となっていた資盛が嫡男のような扱いであった時期もあり、結局だれが小松家の嫡男なのかはっきりしないところがあります。
光源氏になぞらえられた美しさ
母の出自は兄弟に劣っても、美貌は維盛が一番でした。これは重盛を善玉、清盛を悪玉として小松家の人々をひいきした『平家物語』の美化などではなく、維盛が生きた同時代に彼と接した人々が評価しているので、確かに美しかったようです。九条兼実は『玉葉』で「少将維盛、重盛卿子、衆人之中、容顔第一也」(承安5(1175)年5月27日条)と「大勢の中で一番の容貌」だとほめています。
維盛の美貌を称えるエピソードとしてもっとも有名なのは、安元2(1176)年3月に行われた後白河院の五十の賀(50歳の祝い)の祝宴での様子でしょう。三日目に桜と梅の枝をさして「青海波(せいがいは)」を舞った維盛は「桜梅少将」と呼ばれました。その時の様子は、建礼門院(平徳子)の女房で資盛の恋人でもあった建礼門院右京大夫の私家集『建礼門院右京大夫集』に詳しく書かれています。
いづれも、今の世を見聞くにも、げにすぐれたりしなど思ひ出でらるるあたりなれど、際ことにありがたかりし容貌用意、まことに昔今見る中に、試しもなかりしぞかし。されは、折々には、めでぬ人やはありし。法住寺殿の御賀に、青海波舞ひての折などは、「光源氏の例も思ひ出でらるる」などこそ、人々言ひしか。「花のにほひもげにけおされぬべく」など、聞こえぞかし
これより先の源平争乱の最後に、維盛が熊野灘で入水して亡くなったことをうわさに聞いた建礼門院右京大夫が、過去を思い出すように語るエピソードでは、
「平家の公達は誰もかれもすぐれていたことが思い出されるけれど、維盛の中将こそ際立った容姿と心遣いが昔今を通じて例もないほどで、称賛しない人はいたでしょうか」として、青海波を舞った時は「光源氏の例も思い出される」
…と、『源氏物語』の「紅葉賀」巻で源氏が桐壺帝の朱雀院行幸の試楽(予行演習)で頭中将と「青海波」を舞ったのに重ねて、人々が維盛の美しさをうわさした、と振り返ります。その美しさは「花の美しさも圧倒されるほど」だったとか。
天皇(上皇)の五十の賀の行幸で青海波を舞うというのがそもそも『源氏物語』を先例とするもので、白河院の時に始まったものだったようなので、人々が源氏になぞらえるのも当然ではあるのですが、維盛が単に美男子であったからだけでなく、舞が見事であったからこそ称賛されたのでしょう。
維盛は舞だけでなく、笛や付歌(つけうた/神楽歌、催馬楽、今様などの門付歌)や朗詠(和歌に節をつけてうたうこと)なども得意で、音楽の才能があったようです。
維盛は無能な臆病者?
美貌が宮中でもてはやされた一方、武家の男子としてはどうであったかというと、失態ばかりが目立ちます。たとえば、承安4(1174)年の春日祭で春日使(勅使)に選ばれた時、維盛は興福寺大衆が蜂起したのを知って病と称して勝手に帰洛してしまったとか。この興福寺大衆の行動は以前興福寺の大衆が蜂起した際に重盛が兵を派遣して防いだことへの恨みによるものだったようなので、重盛の子でまだ十代半ばの若い維盛が恐れるのも無理もないことでしょう。
維盛の無能ぶりをよく物語るのが、総大将として挑んだ治承4(1180)年10月の富士川の戦いです。この時『平家物語』で維盛の容姿や態度は
「大将軍権亮少将維盛は、生年廿三、容儀体拝絵にかくとも筆も及びがたし」
と称されていますが、肝心の戦はというと、平家方の兵たちが水鳥の羽音を敵の奇襲と勘違いして驚き混乱状態になり、戦うこともなく逃走してしまったという散々な結果に終わりました。
この結果に祖父・清盛は激怒して入京することを許さなかったといわれますが、この戦の結果を単純に維盛の無能さゆえ、平家の武士の弱さゆえ、とすることはできません。
維盛率いる巨大な軍はすべてが統率のとれた純粋な平家軍というわけではなく、その多くは方々から臨時で集められた駆武者(かりむしゃ)と呼ばれる武士たちで、有り体にいえば寄せ集めの軍だったのです。
平家方の現地の武士たちはこの戦いの前の鉢田の戦いで武田信義ら甲斐源氏軍に敗れていたこともあって士気の低下は著しく、戦闘の前に敵方に投降する者が数百人もいました。ぎりぎり軍勢の形を保っていた平家軍が、水鳥の羽音で崩壊してしまったのです。
この水鳥の羽音の件は『山槐記』という同時代の公卿・中山忠親の日記に見えるエピソードなので史実のようですが、この情報を忠親にもたらしたのは平家軍副大将の平忠度(ただのり/清盛の異母弟)の部隊であったらしく、自分たちの失態を弁解するため誇張して伝えたと考えられています。
『玉葉』によれば維盛自身は臆病心で恐怖におののいて逃げるということはなく、退くつもりは全くなかったのに伊藤忠清(維盛の乳母夫)が再三教訓する上に、兵士がすでに士気を失っていたので、撤退するしかなかった、ということのようです。歌人・藤原定家も日記『明月記』の中で、東へ遠征して疲弊した平家軍と、迎え撃つ源氏軍とでは条件が異なる、と同情しています。
寿永2(1183)年、同じく総大将として木曾義仲と戦った俱利伽羅峠の戦いでも惨敗した維盛には負け戦ばかりなイメージがついてまわります。しかしこれより前の治承5(1181)年3月の墨俣川の戦いでは、総大将の叔父・重衡とともに戦って快勝し、重衡の討ち取り205人(+生け捕り8人)に次ぐ討ち取り74人という活躍を見せています。
「常勝将軍」の重衡や武勇で知られた「清盛最愛の子」知盛に比べるとどうしても見劣りしますが、まったくの無能であったというほどのことはないように思われます。知盛の武勇は宗盛の無能を強調するため誇張されたともいわれています。
壇ノ浦の戦いで敗れた知盛ら平家一門が次々と入水する中、宗盛はぷかぷか水の上に浮いて捕虜になってしまったという情けないエピソードで知られるように、途中で戦線を離脱して出家し入水した維盛の「弱い」イメージから、ことさら戦に負けたことが誇張されて語られるのかもしれません。
平家都落ち
俱利伽羅峠の戦いの大敗で、平家一門は都落ちを余儀なくされました。その責任は総大将であった維盛にあります。これ以前に氏の長者であった父・重盛が病没し、嫡流が宗盛に移ったこともあり、小松家の面々は一門での立場を失いつつありました。維盛も宗盛らの都落ちに従って西国へ向かいましたが、妻子は京に残していきました。妻は先述のとおり藤原成親の娘です。成親といえば、俊寛らとともに平家打倒を企てたことで清盛によって配流され、殺された人物です(鹿ケ谷の陰謀)。妻子を連れて一門と行動をともにすれば針の筵になることは間違いなく、それを避けるために置いていったのでした。
この妻子と別れを惜しんで維盛が一足遅れたこと、資盛が叔父・頼盛とともに後白河院の庇護を求めて遅れたこと(頼盛は院の異母妹の八条院と近しいこともあり、そのまま庇護された)で、小松家の者たちは一門から疑いの目を向けられていたようです。
維盛の最期
以後、平家は一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いといった主だった戦いで源氏に敗れて滅亡することになります。いままで大将として戦ってきた維盛ですが、都落ち後に目立った活躍はありません。俱利伽羅峠の戦いの大敗で意気消沈したというより、都落ちで維盛の郎等がかなり離反したため、大将として戦うことすらできなかったようです。
寿永3(1184)年2月ごろ、維盛はひそかに屋島を抜け出しました。『平家物語』は、その足で高野山に入って出家し、さらに熊野へ向かって、そこから船で那智の海へ漕ぎ出で、入水したと伝えています。維盛は妻子への未練を捨てきれない様子でしたが、最後は西の極楽浄土に向かって手を合わせて念仏を百回唱え、「南無」と唱える声と同時に海に入りました。
これとは別に、『源平盛衰記』では生き延び、頼朝がいる鎌倉へ下向する途中の相模国の湯ノ本で餓死したとされていて、維盛が実際どのような最期を遂げたのか、はっきりとはわかっていません。
あの「青海波」を舞った人生のもっとも輝かしい日を頂点に、維盛は一気に転落して20代半ばの若さで短い生涯を閉じました。
維盛の遺児・六代は、僧侶の文覚の助命嘆願により一度は頼朝の処刑を免れましたが、結局のちに処刑されたといわれています。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 『世界大百科事典』(平凡社)
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
- 永井晋『平氏が語る源平争乱』(吉川弘文館、2019年)
- 高橋昌明『平家の群像 物語から史実へ』(岩波書店、2009年)
- 上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館、2007年)
- 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集(45) 平家物語(1)』(小学館、1994年)※本文中の引用はこれに拠る。
- 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集(46) 平家物語(2)』(小学館、1994年)
- 校注・訳:久保田淳『新編日本古典文学全集(47) 建礼門院右京大夫集/とはずがたり』(小学館、1999年)※本文中の引用、現代語訳はこれに拠る。
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平維盛さんの墓は津市にあり、彼は生き延び晩年を安濃町で過ごしたと言う伝承が津市では一般的です。私の家も維盛の子孫と伺っています。和歌山県に維盛に詳しい地元の方がみえ、「どっこい生きていた」だと思いましたが、本を書いてみえますので興味があればご参考になさって下さい。
2024/01/25 10:58