「郷御前」源義経と運命をともにした正室の悲劇的な人生

東滋実
 2022/05/20
郷御前のイラスト

源義経の妻妾として有名なのは、当代随一の白拍子として名の知れた愛妾の静御前です。しかし義経には静御前のほかにも何人かの妻妾がおり、中でも郷御前(さとごぜん)は義経の兄・頼朝の仲立ちにより迎えられた正室でした。

義経と静御前の吉野山での悲しい別れや、静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞って義経を思い歌ったエピソードはよく知られるところですが、義経と最後までともにあったのは正室の郷御前でした。静御前の陰に隠れてしまっている郷御前も魅力的な人物なので、あまり知られていないのはちょっともったいないような気がします。

河越重頼の娘

源義経の正室である河越重頼の娘の本名は不明ですが、一般に郷御前(さとごぜん)と呼ばれています。

河越重頼は、桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族です。活躍は同じく秩父氏の畠山重忠の方が目立ちますが、当初は重頼が秩父氏の家督を継ぐ嫡流であり、秩父一族の中でも特に有力な武将であったと考えられます。

それに加え、重頼の室は頼朝の乳母・比企尼(ひきのあま)の次女でした。頼朝は嫡男の頼家誕生の折にこの重頼室に乳付け(生まれた子に初めて乳を飲ませること)を任せて乳母としており、重頼夫妻が頼朝の信任を得ていたことがうかがえます。

郷御前はこのように武蔵国に勢力をもつ重頼の娘として、仁安年間ごろ(没年から逆算)に生まれました。

義経との結婚

郷御前が義経の妻となったのは元暦元(1184)年9月のことです。歴史書『吾妻鏡』に、義経に嫁ぐため9月14日に河越重頼息女が上洛したとあります。これはかねてより決められていた結婚であったようです。

ふたりの結婚は頼朝が命令した政略結婚でしたが、これは義経が頼朝の知らないところで勝手に検非違使・左衛門尉に任官して頼朝の怒りを買うという出来事があった翌月のことでした。

以前から決まっていた結婚とはいえ、頼朝と義経に不和が生じるきっかけとなった事件の直後に頼朝が仲を取り持った女性との結婚が決まるというのは、何かが裏にあったと思えてなりません。

この結婚により頼朝が信頼する重頼と義経を結び付け、勝手な行動が多い義経をなんとか留めようとしたのか、あるいは重頼を通じて監視しようとしたのか。何らかの理由があったのでしょうが、頼朝に命じられて義経と結婚することになった郷御前、そしてその家族は、この結婚により運命を狂わされることになります。

家族を誅殺されても義経のそばに

頼朝が義経との関係修復を考えて郷御前と結婚させたとしたら、それは失敗に終わったと言わざるを得ません。わずか1年足らずで両者の関係は修復不可能になってしまったのです。

文治元(1185)年、鎌倉では義経追討が決定しました。義経は後白河院に頼んで頼朝追討の院宣を下してもらいますが、味方が集まらず不発に終わり、頼朝上洛の前に都落ちすることに。

同年11月、郷御前の父・重頼は、義経の岳父であったために所領を没収され、嫡男の重房ともども誅殺されてしまいました。義経の縁戚となったのは重頼自身が望んだことではなかったのに、ひどい話です。

しかし頼朝も恩ある比企尼と関係深い河越氏を根絶やしにしようとまでは考えなかったようで、本領の河越庄を含む大部分は重頼の老母の預かりとなり、文治3(1187)年には後家となった重頼室に安堵され、河越氏は御家人として存続しました。

この間、義経と結婚したばかりに親兄弟を殺されることになった郷御前の心境がどのようなものであったかはわかりませんが、それでも義経と別れることなくそばに残りました。義経が京都に潜伏していた文治2(1188)年ごろ、郷御前は女児を出産しています(亡くなった時4歳だったことから逆算して)。

『吾妻鏡』文治3(1187)年2月10日条によると、義経は鎌倉の捜索から逃れ、伊勢国、美濃国を経て、少年期の庇護者・藤原秀衡を頼って陸奥国平泉(現在の岩手県)に入ったようです。この旅には妻子も伴い、一行は山伏や稚児に変装していたとか。この妻子には、郷御前とその娘も含まれています。

義経と一緒に死ぬ道を選んだ郷御前

平泉に入ってからは、それまでのあちこちを転々として隠れ暮らした生活に比べれば穏やかな日々もあったのではないでしょうか。しかし、同年10月に庇護者の秀衡は亡くなり、平泉の地も安心して暮らせる場所ではなくなりました。

そして文治5(1189)年、秀衡の跡を継いだ嫡男・泰衡は頼朝の圧力に屈し、「義経を主君として仕えよ」という父の遺言に背いて義経を襲撃し、死に追い込みました。

義経と家臣は防戦したものの、ついに囲まれ、持仏堂で自害しました。この時、22歳の郷御前と4歳の娘も一緒でした。『吾妻鏡』には、義経が妻子を殺した後で自害したとあります。

郷御前には、おそらく義経と離縁して親元へ帰る選択もありました。その機会は死の直前まであったはずです。女性である郷御前とその娘は戻ったとしても命までは取られなかったでしょう。しかし、義経と一緒に死ぬことを選んだのでした。

頼朝に命じられて義経と政略結婚し、そのために一族は没落することになり、自身は流浪の生活を送る羽目になった。郷御前の人生は頼朝・義経兄弟に振り回されて悲劇的なものでしたが、義経と運命を共にすると決めたのは郷御前自身だったのではないでしょうか。それが義経への愛情によるものか、親を殺した鎌倉への恨みによるものか、武家の女として最後まで夫に従おうという矜持のためかはわかりませんが、郷御前はただ周りに流されるままに生きた人ではなかったのです。

郷御前の最期をこのように捉えると、静御前の陰に隠されてしまっているのがもったいなく思えてきます。

おわりに

義経と最後までともにあった郷御前の存在が埋もれてしまっているのは、彼女が北条氏と対立して滅んだ比企氏の親戚であったことが関わっているのかもしれません。

『吾妻鏡』は北条氏に都合のいいように編集されたところがあります。河越氏の同族・畠山重忠がやたら理想的な武士として褒めたたえられているのも、武蔵国に影響力を持っていた重忠をヨイショして、うまく武蔵国を支配するたためであったとか。

それと同じように、北条氏が滅ぼした比企氏とその縁者について大きく扱うのは都合が悪かったため、比企尼の娘を母に持つ郷御前も静御前より小さい扱いになってしまったのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 安田元久『武蔵の武士団 その成立と故地を探る』(吉川弘文館、2020年)
  • 元木泰雄『源義経』(吉川弘文館、2007年)
  • 校注・訳:梶原正昭『新編日本古典文学全集(62) 義経記』(小学館、2000年)
  • 安田元久『源義経』(新人物往来社、1993年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター ...

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