「屋島の戦い(1185年)」多くの挿話が残る合戦!実はほとんど戦闘がなかった?
- 2022/04/20
寿永3(1184)年2月、一ノ谷の戦いは大方の予想に反して頼朝軍の大勝利で決着しました。その次に頼朝軍と平氏軍が激闘したのが「屋島の戦い(やしまのたたかい)」です。
この合戦は那須与一の扇の的や義経の弓流しなど、有名な挿話が多く残されていることで有名です。古文の教科書で読んだという人も少なくないのではないでしょうか。
各種エピソードに恵まれる一方、実際の合戦は驚くほどあっけなく決着してしまったようです。今回はそんな屋島の戦いについて詳しく見ていきましょう。
この合戦は那須与一の扇の的や義経の弓流しなど、有名な挿話が多く残されていることで有名です。古文の教科書で読んだという人も少なくないのではないでしょうか。
各種エピソードに恵まれる一方、実際の合戦は驚くほどあっけなく決着してしまったようです。今回はそんな屋島の戦いについて詳しく見ていきましょう。
一ノ谷の戦いを終えて
平氏との交渉
一ノ谷の戦いで一門の多くを失う大打撃を受けた平氏軍は、都落ち後の本拠である讃岐国屋島へと撤退します。京への帰還を目論んでいた平氏軍でしたが、ここを本拠として守りを固める方針に転向したのです。一ノ谷で大勝したとはいえ、瀬戸内海の制海権を握る平氏軍相手に頼朝軍は迂闊に手を出せません。三種の神器と安徳天皇も未だ平氏が握ったままです。
特に三種の神器は政務に不可欠です。後白河法皇は神器を取り返すため、平氏との交渉を画策します。先の戦いで捕虜となっていた平重衡(清盛の五男)と天皇・神器を交換し、源氏と和平を結ぶことを平氏総帥の平宗盛に提案します。
和平ならず
和平提案への提案への返書で宗盛は、一ノ谷の合戦直前に後白河から平氏軍へ事実上の休戦命令があったこと、これを信じて和平の使者を待っていたところに源氏の襲撃があったことを訴えています。宗盛の言葉が事実であれば、平氏は一ノ谷で騙し討ちにあったも同然です。これが単なる事故だったのか、あるいは後白河の策略だったのかはもはや分かりませんが、宗盛は返書の中で後白河への不審感を露わにしています。
その後宗盛は、天皇と神器を帰京させる代わりに一門の安全を保障して欲しいという提案を出しますが、結局和平も天皇と神器の帰京も叶わないまま時が過ぎていきました。
源氏の大将たちの動向
鎌倉に帰る範頼、京に残る義経
一ノ谷の戦いで大勝した頼朝軍にとって、その戦後処理と畿内の治安維持は重要な任務です。大将の範頼が鎌倉へ帰る一方、もう1人の大将である義経は、頼朝の代官として京に留まることになりました。戦乱の長期化や折からの飢饉で物流は滞り、平氏の残党も未だ畿内に潜伏中です。義経の任務は疲弊・混乱した畿内情勢の回復、および畿内・西国の武士たちの統制でした。
義経による治安維持は上々で、周辺武士の統制も順調に進んでいきました。そんな中、後白河は安徳天皇の存在を無視して尊成親王(後鳥羽天皇)を即位させます。神器もなく、先帝の安徳天皇が退位しないままという異例の即位でした。
安徳の否定は、彼を担ぐ平氏の否定でもあります。事態は頼朝軍にとって有利に進みつつありました。
対平氏戦の再開と範頼遠征軍の出陣
三日平氏の乱
一ノ谷の戦い後、大規模な戦闘こそ起こっていませんが、義経指揮下の御家人が平氏軍に襲撃される事件が度々発生していました。屋島に籠る平氏軍を孤立させるため、西国へ出兵する必要が出てきたのです。頼朝は当初対平氏戦の総大将を義経としていたため、西国出兵の大将も義経となる予定でした。そんな矢先に事件は起こります。元暦元(1184)年7月、伊賀・伊勢に潜伏していた平氏の残党が蜂起したのです(三日平氏の乱)。
この蜂起は「三日」という名称に反してかなり大規模なもので、有力御家人の佐々木秀義が討死するなど頼朝軍もかなりの被害を受けました。1ヶ月近くを要してようやく鎮圧されましたが、首謀者の1人である藤原忠清は乱後もしばらく潜伏を続け、京の人々を悩ませ続けました。このため義経は京を離れられなくなってしまいました
範頼の出陣
三日平氏の乱への対応で手が離せない義経。そこで白羽の矢が立ったのが、鎌倉に戻っていた範頼です。範頼は北条義時や三浦義澄ら1,000騎を引き連れ鎌倉を出立します。8月末に京に到着した範頼は追討使に任じられます。京の治安維持に専念する義経に見送られる形で、範頼遠征軍は九州を目指して進軍を開始しました。
順調に進む範頼軍でしたが、平氏の西の拠点・長門国彦島を前にして進撃はストップしてしまいます。折からの飢饉で兵糧が不足していたのです。
戦果も挙がらず、九州へ渡ることもできないまま時が過ぎていきました。年が明ける頃には範頼軍の士気はすっかり下がりきっていました。
頼朝の対平氏構想
戦闘の長期化に苦しむ範頼軍でしたが、平氏との長期戦は頼朝の構想でもありました。頼朝は平氏を包囲し、じっくり追い詰めて降伏に持ち込むつもりだったと考えられています。事実頼朝は、屋島の平氏から安徳天皇以下の貴人や三種の神器を”安全に”取り返すよう範頼に強く命じていました。今回の遠征も九州を制圧して平氏軍の背後を遮断、平氏軍本隊を孤立させるのが狙いだったのです。
進軍が滞り窮状を訴える範頼に対し頼朝は、平氏軍本隊への攻撃の際は「急がず静かに」行うよう指示しています。強引に攻め立てて天皇や神器に危害があれば、戦後の後白河との交渉で不利になります。頼朝はそれを気にしていたのかもしれません。
長期戦は想定済みとはいえ遠征軍の士気低下は問題です。戦線が崩壊し、平氏に逆転されてしまっては元も子もありません。範頼軍苦戦の報には頼朝も慌てたことでしょう。
そしてこの報は京にいるもう一人の兄弟の耳にも入っていました。
義経の四国渡海と決着
義経の出陣
範頼軍苦戦と聞いた義経は、後白河法皇に出陣の許可を求めます。平氏追討は元々自分の担当だっただけに、遅々して進まない追討を歯痒く思っていたのかもしれません。渋る後白河を説得し許可を得た義経は、元暦2(1185)年1月10日に京を出立します。京を出た義経は摂津国渡辺にしばらく留まり、付近の武士らを組織化します。海上交通に詳しい武士らを多く味方に引き入れた義経は、後白河の制止を振り切り2月16日に渡辺を出立、怒涛の勢いで四国を目指します。
なお、この義経出陣が誰の意図によるものなのかは詳しく分かっていません。頼朝の了承を得たものであったのか、義経の独断であったのか、はたまた後白河の指示だったのか……。研究者の間でも意見が分かれる問題です。
四国上陸
渡辺を出た義経は、翌17日には阿波国に上陸します。当時を考えると凄まじいスピードです。義経は現地の武士を味方に引き入れ、彼らの案内で屋島を目指します。義経が屋島攻撃の準備を整えていた間、範頼の遠征軍にも動きがありました。何とか船を調達した範頼軍は九州への上陸に成功、現地の平氏方武士を撃破します。とはいえ物資不足は深刻で、進軍は困難なままでした。
頼朝は範頼に補給物資を送った上で、状況によっては九州の制圧を諦め、屋島の平氏本隊を攻めるよう指示を出しました。
仮に義経の出陣が頼朝に無断だったとしても、この頃にはさすがに頼朝も彼の動向を知り、その上で出陣を追認していたのでしょう。兄弟たちの動きや戦況を考慮し、作戦を一部変更したものと考えられます。
屋島奇襲
2月18日、周囲の民家に火を放ち大軍を装った義経軍は、屋島の平氏軍に襲い掛かります。予想外の襲撃に大混乱に陥った平氏軍は、まともに戦闘すらせず、我先にと船で海上に逃走してしまいました。『平家物語』では両軍入り乱れる激闘の様子や各種エピソードが描かれますが、実際は碌な戦闘すらなく、義経軍の圧勝で決着がついてしまったようです。
一ノ谷で人員を、屋島で拠点を失った平氏軍はいよいよ追い詰められました。武士たちの離反も相次ぎ、陸地に逃げ場はほとんどありません。
かつて栄華を極めた平家も、いまや寄る辺のない海上を漂うのみ。源平合戦終結の時がすぐそこまで迫っていました。
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【主な参考文献】
- 上杉和彦『戦争の日本史 6 源平の争乱』吉川弘文館、2007年
- 川合康『源頼朝 すでに朝の大将軍たるなり』ミネルヴァ書房、2021年
- 元木泰雄『源義経』吉川弘文館、2007年
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コメントありがとうございます。本稿で「ほとんど戦闘がなかった」としているのは、義経の奇襲~平氏軍の海上逃亡までですので、こちらご理解いただければと思います。
今回字数の都合で省略しておりますが、ご指摘いただいたように合戦前後の各勢力の動向も面白いですよね。別の機会で解説を書けたらと思っております。
2022/05/31 14:48