「壇ノ浦の戦い」源平合戦ついに決着!源氏VS平氏の海上決戦

篠田生米
 2022/05/23
『安徳天皇縁起絵図』第七巻「壇の浦合戦」と第八巻「安徳天皇御入水」(赤間神宮所蔵)
『安徳天皇縁起絵図』第七巻「壇の浦合戦」と第八巻「安徳天皇御入水」(赤間神宮所蔵)

壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)は、治承・寿永の内乱(源平合戦)の最後を締めくくる合戦です。追い詰められた平氏軍の総力を結集した海上決戦で、この合戦に敗れたことで平家は滅亡しました。

『平家物語』では、激戦の末に敗色濃厚となった平家一門が次々と入水していく様を描き、平家一門の最後をドラマチックに演出しています。

この戦いがどのような背景で行われ、どのように戦況が推移していったのか、詳しく見ていきましょう。

追い詰められる平氏軍

屋島の戦いの勝利

元暦2(1185)年2月18日、平氏の拠点であった讃岐国屋島は源義経の活躍であっさりと陥落(屋島の戦い)。先の一ノ谷で人員を、屋島で拠点を失った平氏軍はじりじりと追い詰められていきました。

追い詰められた平氏軍は最終的に長門国彦島を拠点とし、総力を結集して源氏との決戦に備えました。いっぽうで義経は近隣の武士に船の提供を依頼し、海上戦力を有する平氏に対抗するための準備を整えます。

順調な平氏追討は想定外だった?

頼朝はこれまで対平氏を慎重に進めてきました。平氏の手中にある安徳天皇と三種の神器、その安全な奪還を重要視していたからです。

平氏をじっくりと追い詰めて降伏させたのち、交渉の末に天皇と神器を取り返すつもりでした。実際、大将として対平氏戦に臨んでいた範頼は、頼朝の意図通りに長期戦を展開していました。しかし、義経の出撃と短期間での屋島攻略により、戦況が急激に変わります。平氏と交渉する間もなく、決戦となってしまったのです。

義経の出撃自体は頼朝も認めていました。しかし、長期戦を想定していた頼朝にとって、急激な戦況の変化は予想外だったと思われます。

※参考:源平合戦マップ。赤マーカーは源氏方、青は平氏方

源氏についた武士たちの事情

坂東武士と西国遠征

頼朝の想定に反して強まる平氏軍への攻勢。平氏を憎む後白河法皇の意図も関係していたのでしょう。それに加えて頼朝軍に参戦した西国武士の意向も無関係ではなさそうです。

頼朝軍は坂東武士を中心に構成され、彼らが自らの所領を離れ、西へと遠征して平氏と戦ったかように理解されがちです。しかし、対平氏戦前線にいた坂東武士の数は、実はあまり多くありません。例えば、義経軍の中核を成したのは畿内や戦地周辺を拠点とする武士でした。

義経軍の構成と攻勢

坂東武士は自らの権益に直接結びつかない遠征にあまり乗り気ではなかったようです。もちろん頼朝に任された職務遂行のために遠征する者もいましたが、軍勢としてはあまり多くを西へ派遣できなかったのです。

坂東武士が思い通りに動かない…。それは頼朝が挙兵時から抱えていた悩みでもありました。そのため、義経は戦地付近の武士を組織化して戦闘にあたりました。現地で反平氏勢力をかき集めたのです。

現地の反平氏勢力は平氏の脅威を間近で感じている者たちです。戦いに敗れ、源氏が撤収してしまったら、平氏からの報復が待っています。早く平氏軍を追い払いたい…。そんな気持ちで戦闘を逸るきらいがあったと思われます。

屋島以降、義経軍の攻勢が強まった背景には、軍の構成する武士たちの思惑も大いに絡んでいたと考えられます。

決戦のとき

決戦前夜

壇ノ浦の戦いの直前、義経と梶原景時の間で先陣争いがあったことは有名です。義経の先陣を「大将が先陣を切るなど聞いたことがない!」と景時が戒めたため、両者は険悪な雰囲気になったというものです。

この真偽は定かではありませんが、わざわざ西国まで遠征してきた景時ら坂東武士には、ここらで戦功を挙げておきたいという気持ちがあったのではないでしょうか。

上述したように、対平氏戦で義経軍の主力となっていたのは現地の武士たちでした。「平氏との決戦という大舞台で、義経や現地の武士に見せ場を奪われるのは避けたい!」そんな坂東武士たちの本音を景時は代弁していたのかもしれません。

戦闘開始

同年3月24日、戦いの火蓋が切って落とされました。総力をつぎ込み約500艘で挑む平氏軍を、義経軍はさらなる大軍勢で迎え撃ちました。

壇ノ浦の戦いの地図(出所:wikipediaより)
※参考:壇ノ浦の戦いの地図(出所:wikipediaより

かつて瀬戸内海の制海権を握った平氏軍でしたが、このときには自慢の海上戦力すら義経軍に負けていたようです。

なお、戦闘に際して、義経が敵船の漕ぎ手を狙うよう命じたとされます。義経の掟破りの戦法として有名ですが、実はこれは義経の命だったわけではありません。

確かに『平家物語』には、平氏船に乗り移った源氏方の武士が漕ぎ手を殺害する場面が描かれています。しかし、これは勢い余って行為に及んだに過ぎず、意図的・戦術的なものではありません。

加えて上記は源氏の勝利がほぼ決まった段階の出来事なので、漕ぎ手の殺害は、義経の戦法だったわけではなさそうです。

決着

戦いは数に勝る義経軍の圧勝でした。義経は朝廷への報告書に「戦いは正午から16時ごろにかけて海上で行われ、平氏軍の多くを討ち取り、また捕虜にした」と書いています。

旧来は潮の流れが戦況に影響をもたらしたと言われていましたが、戦場の比定が進んだことにより、今日ではほとんど影響がなかったと考えられています。大軍勢を擁した義経軍を前に、孤立し追い詰められた平氏軍ではそもそも勝ち目がなかったのかもしれません。

敗北が決定的となった平氏一門は次々と入水(じゅすい。水の中に身を投げて自殺すること)していきました。安徳天皇も平時子(二位尼)に抱かれて入水。8歳という若さでこの世を去りました。また、戦闘の混乱のなかで、三種の神器のうち宝剣が行方不明となってしまいました。

かくして、天皇の命と神器が失われるという前代未聞の犠牲を伴いつつも、長きにわたる源平合戦はここに終結したのです。

戦後

壇ノ浦勝利の報

壇ノ浦での勝利、その第一報は4月4日に京にもたらされました。京の人々は、戦乱の恐怖や食糧難からようやく解放されたのです。

鎌倉へ報が届いたのは少し遅れた4月11日。これを聞いた頼朝は言葉を発さず、じっと黙ったままだったといいます。平氏を倒すという最終目標こそ達成しましたが、天皇と神器の安全な奪還は失敗に終わっています。無言の頼朝の心中が気になるところです。

生き残った人々

多くの者が壇ノ浦で死亡した平家一門でしたが、総帥の平宗盛父子や平時忠、建礼門院徳子など、捕虜となった者も少なくありませんでした。

宗盛父子は鎌倉へと護送、頼朝の前に引き出された後に近江国で処刑されました。敗者の末路は過酷です。

しかし、それは戦闘員に限っての話。時忠など、一門の貴族は配流にこそなりましたが、数年の間に京へ戻っており、その後政界復帰を果たした者も多くいました。非戦闘員に対する処遇は寛大だったのです。

安徳天皇や時子も、投降すれば身の安全は保障されたはずです。時子は何を思い、安徳と神器を道ずれにした死を選んだのでしょうか。

戦後の戦い

約5年もの間続いた戦乱は、頼朝ら源氏の勝利で終結しました。平氏の滅亡によって政情も安定し、全て一件落着となるはずでした。

しかし、この後義経をはじめ頼朝方として内乱を戦った者たちに、大きな混乱があったことは知っての通りです。戦時に反乱軍として出発した頼朝軍には、自らを平時に対応させるため組織改革を行う必要があったのです。

武士たちの“戦い”はまだ終わりではありませんでした。


【主な参考文献】
  • 上杉和彦『戦争の日本史 6 源平の争乱』吉川弘文館、2007年
  • 川合康『源頼朝 すでに朝の大将軍たるなり』ミネルヴァ書房、2021年
  • 元木泰雄『源義経』吉川弘文館、2007年

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  この記事を書いた人
篠田生米 さん
歴オタが高じて大学・大学院では日本中世史を学ぶ。 元学芸員。現在はフリーラン ...

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