「足利義持」偉大な父・義満の影に隠れた4代目は聡明な将軍だった!

足利義持肖像(神護寺蔵、出典:wikipedia)
足利義持肖像(神護寺蔵、出典:wikipedia)
 室町幕府3代将軍で知られる足利義満は、将軍職や家督を早い段階で嫡男の義持(よしもち)に譲るものの、実質的な権力はその死まで手放しませんでした。そのため、義持は4代将軍でありながら、偉大すぎる父親の影に甘んじる時期が長く続きました。

 とはいえ、義持に政治力がなかったわけではありません。結果論ですが、彼は義満の代よりも将軍権力を強化することに成功しています。家臣にも恵まれ、安定した時代を築いた義持は、間違いなく聡明な将軍でした。

 今回は知られざる名君、室町幕府4代将軍・足利義持の生涯に迫ります。

父の影にかくれて

 足利義持は、至徳3年(1386)、足利義満と側室・藤原慶子の間に誕生しました。

 義持には異母兄が2名いましたが、母の身分が低すぎたために家督継承者とみなされず、実質的に義持が嫡男となります。同母弟に、のちに6代将軍となる足利義教(よしのり)、異母弟に足利義嗣(よしつぐ)などがいます。

            足利義詮(2)
              ┃
             義満(3)
     ┏━━━━┳━━━┫
    義教(6) 義嗣   義持(4)
  ┏━━┫        ┃
 義政 義勝       義量(5)

※参考:足利義持の略系図。()は将軍の代

 義持が8歳の時、すでに強大な権力を手にしていた父・義満(36歳)が出家を宣言します。このとき義持は元服し、足利家の家督と征夷大将軍の職を譲られました。義持が将軍としての公務を始めたのは、それから6年後の応永7年(1400)頃からです。ただし、実権は変わらず父・義満が握っていました。

 義持にとって気がかりなのが、8歳年下の弟・義嗣の存在でした。当初、僧になるため梶井門跡に送られていましたが、あまりに美しく成長したのを見た義満は、応永15年(1408)に義嗣を寺から連れ帰り、それ以来、溺愛しはじめたのです。

 その年の2月には義満が北山亭に後小松天皇を招待する一大イベントも開催されました。その場に義持が呼ばれもしなかったにもかかわらず、義嗣は父義満とともに全日程に参加。天皇滞在中に官位も与えられ、数日で義持を追い越してしまいます。加えて4月には、内裏で義嗣元服の儀式が大々的に開催されました。

「義持は後継者から除名され、改めて義嗣が4代将軍になるのだろう」

 世間の大半がそのように確信していました。しかしその直後の5月には、義満が急死。管領・斯波義将以下の幕閣は、混乱を避けるために、義持を将軍として引き続き盛り立てていくことを決定したのです。

 義持22歳、将軍職を継いでから14年目のことでした。

政治家・義持の治世

 義持は父義満とは反対の性格だったようです。義満が良くも悪くもわかりやすい人だったのに対し、義持は内向的で腹の底が読めない人だったと伝わっています。

 義満の死後、義持は様々な政治的遺産を整理しはじめました。最終的には義満が晩年に握っていた権力を、朝廷の権威の裏付け(太政大臣)なしに維持することに成功します。政治家としては義持のほうが父親より一枚上手だったと言えるでしょう。

 では義持は何を捨てて、何を維持強化していったのか。具体的に見ていきましょう。

義持が捨てたもの

1、屋敷

 義持は実権を握ってすぐ、義満時代の雰囲気を一掃する政策に出ました。

 まずは政庁の変更をします。当時、義持は父義満の建てた「花の御所」室町邸にいました。義満の死後、彼はそこを出て、いったんは晩年に義満が住んでいた北山邸(現在の鹿苑寺)に入ったものの、すぐ三条坊門邸に移りました。

 三条坊門邸は、祖父・足利義詮(よしあきら)や、義詮の叔父・足利直義(ただよし)が住んでいたところで、室町幕府草創期の政庁でした。義持は北山邸の一部を移築して三条坊門邸を整備し、そこで政務をはじめます。義持の引っ越しとともに幕閣たちも、三条坊門邸近くに引っ越しました。

2、必要以上の称号

 義持は必要以上の高位高官を放棄しました。父義満が「太政大臣」にまで昇進したため、義持も黙っていればそれに近い官位まで昇進することができました。しかし、義持はそれらを好まず、必要以上の官位を辞退しました。そのため、公家としての立場は父親より3ランク下の「内大臣」止まりでした。

 同様に、対外的な「日本国王」の地位も放棄しました。具体的には “日明貿易の中止” です。治世初期は、管領・斯波義将が貿易推進派だったため、多少のやりとりはありました。しかし管領が変わったことで「日本国王」としての朝貢貿易の中止に踏み切ります。もともと将軍は「日本国王」ではないので、朝貢貿易そのものが偽りの貿易でした。そのため当初から幕閣の反対も多く、義持も彼らの意見に賛同したようです。

3、異母弟・義嗣

 晩年には義満が溺愛した異母弟である義嗣を、幕閣らとともに殺害します。

 応永16年(1409)10月、関東で乱がおこりました。前関東管領の上杉禅秀が、関東公方・足利持氏を襲撃した「上杉禅秀の乱」です。

 義嗣は、この年の12月に畿内から出奔しようとして捕縛され、上杉禅秀と内通して義持打倒を企てた容疑で処刑されました。

 一説によると、この義嗣出奔は、義持承認のもと幕閣たちが仕組んだ罠だったそうです。現に義嗣は関係者として複数の幕閣を白状していますが、彼らに捜査が及ばないどころか、お咎めなしのままです。そこから考えると、どうも義嗣は新政権に不都合な存在として消された可能性が高そうです。

天皇家とは友好を維持

 義持は義満の政治と反対を行ったものの、天皇家とは友好を維持しました。後小松上皇・称光天皇(二人は父子)の相談役をつとめたのは相変わらずです。政治の相談に加えて、気性が激しい上皇父子のまわりで起きる様々な事件の解決にも、義持は奔走しました。

 たとえば応永25年(1418)、称光天皇の女房・新内侍と、伏見宮貞成親王(後小松上皇のはとこ)との間に密会疑惑が持ち上がりました。上皇父子は激怒して貞成親王を処分しようとしたものの、義持が調査したら全くの誤情報だと判明します。貞成親王も「潔白です」という起請文を送ってきたため、義持が上皇らを説得して事をおさめました。

 このような事が続き、実際の官位はどうであれ、上皇らに物申せる人物として、公家社会における義持の存在は大きくなってゆきました。

組織力を強化

 義持は義満死後、当時の管領らの支持で政権を握りました。そのため、義持の幕府政治は独断で決めるというより、幕閣たちの意見を聞きながらの運営となりました。

 何か政治的案件が持ち上がると、義持は幕閣らを招集して意見を問います。幕閣は相互に話し合って意見をまとめ、義持に答申しました。招集されるメンバーは、三管四職家と呼ばれる、室町幕府の要職に就くことができる家の当主たちや、当時実力があった守護大名です。

 たとえば応永30年(1423)であれば、管領・畠山満家の他、細川満元・斯波義淳・山名時煕・赤松義則・一色義範といった三管四職家と、当時力をつけてきた大内盛見が常任メンバーです。関東の話題になると、駿河守護の今川範政も招集されました。

 彼らの話し合いは管領の家で行われます。義持のいる三条坊門邸と管領家の間のやりとりは、義持側近である三宝院満済(さんぼういんまんさい)と管領の弟・畠山満慶が担当しました。

 もちろん、義持は諮問にかけることなく政策決定をすることも可能で、何件かそのような事例もあります。ただし、力関係は「義持 < 幕閣」だったようで、義持の独断に対して幕閣が猛批判をしたり、ストライキをしたりする一幕もありました。

コラム:義持期の記録

 足利義持の側近である三宝院満済は、『満済准后日記』を残しています。

義持の側近、三宝院満済の肖像(出典:wikipedia)
義持の側近、三宝院満済の肖像(出典:wikipedia)

 満済は義持が招集する幕閣の会合に関わったほか、個人的に義持の相談に乗ることもありました。その内情を事細かに日記に残したため、義持の政策のみならず、会合で誰がどんな意見を言ったかとか、誰からどんな付け届けがあったかまで、当時の状況を知ることができます。

 この他にも、伏見宮貞成親王の『看聞日記』や、公家・武家間の取次をした万里小路時房の『建内記』など、この時期は良質な日記が多く残り、室町人の息遣いを今に伝えています。

後継者問題でひと波乱

 足利義持は9歳で将軍となり、22歳で実権を握り、応永35年(1428)正月に42歳で亡くなるまで政権の中心にいました。彼の治世は比較的安定していたものの、晩年になり、誰もが最も危惧していた不安要素が出てきてしまいます。

 それは、後継者の不在です。

 義持は応永14年(1407)、正室・日野栄子との間に嫡男・義量(よしかず)を授かっていました。応永30年(1423)に義量へ征夷大将軍職を譲って隠居するものの、その2年後に義量は18歳の若さで病死してしまいます。他に男児がいなかったため、義持が再び政務をとることになりました。義持は40代だったので、まだまだ子供も望めると思っていたことでしょう。しかしその矢先、義持も倒れてしまいます。

 応永35年(1428)正月7日、義持は尻にできた腫物を浴室でかき破ってしまいました。そこから菌が入り、翌日以降、義持は高熱にうなされて座るのもままならない状態になりました。

 義持の死因は怪我の化膿によるものです。当時は抗生物質もないため、傷が致命傷となります。15日には傷が腐りはじめ、16日には重体となり、死期を悟った義持は、病床に側近の三宝院満済を呼びます。

 この時、義持はまだ自分の後継者を指名していませんでした。僧籍に入っている弟4人が候補で、誰もがそのうち指名するものと思っていたのですが、幕閣が何度聞いても義持は首を縦に振りません。この日やってきた満済も、幕閣から後継者指名をするよう説得を頼まれていました。

 ここでの話を伝える日記が残っています。

 万里小路時房の『建内記』では、義持は以下のように言ったそうです。

「たとい仰せ置かるといへども面々用ひ申さずば正体あるべからず」

★意訳「たとえ義持が後継者を指名しても、幕閣がその人物を受け入れなければ意味がない」
『建内記』

 義持の根底には、「幕閣が支持してこその征夷大将軍」という意識があったことが読み取れます。彼自身の経験からしても、十分納得できる思想です。

 一方で、義持側近の三宝院満済自らが書いた『満済准后日記』では、いっそう生々しい義持の本音が見えます。満済が幕閣の要望を伝えたときの二人のやりとりです。

義持:「たとえ実子がいても指名はしなかった。皆ではからい、しかるべく決定してくれ」

満済:「おつたえしますが、幕閣もあきらめないでしょう。ご兄弟がいるのですから、その中から指名するか、それがかなわないのなら、ご兄弟のお名前をくじにして石清水八幡神前でそれを引いて決定するのはいかがでしょうか」

 石清水八幡宮は義持が深く信仰していた神社です。

 義持はくじ引きには同意しますが、自分の死後に行うように指示しました。それと言うのも、義持は義量が死んだ後、石清水八幡宮前で「この後実子が誕生するか否か」のくじをひいたそうです。そして「誕生する」との結果が出た上、男子が生まれる夢まで見たそうです。そのため、「もし今自分が後継者を指名したら、石清水八幡宮の神慮を否定することになる」との配慮から、今まで自ら進んで指名しなかったとの事でした。

 満済は人間・義持の信仰心を外に漏らすことはありませんでした。おそらく誰かに聞かれた時には、「家臣が支持しなければ…」のような内容を言ったのでしょう。幕閣たちは相談の上、あらかじめ石清水八幡宮で義持弟たちの名前を封入したくじを引き、義持死後に開封することにしました。

 義持は18日夜に死去しました。抽選の結果、次の将軍は天台座主の義円と決まりました。彼こそ、後に比叡山延暦寺を焼き、万人恐怖の世と言われる政治を行った、6代将軍・足利義教です。

足利義教像(妙興寺 蔵、出典:wikipedia)
足利義教像(妙興寺 蔵、出典:wikipedia)

おわりに

 良くも悪くも目立つ義満を父親に持ち、父親在世中は何かと我慢が多かったことは、義持の不運でした。ただ、近い存在であるが故に、義持は冷徹な目で父親を観察していたことでしょう。

 義満死後、義持は朝廷の高位高官や「花の御所」、「日本国王」という虚飾にみちた称号などを一気に断捨離します。それでいて、朝廷に対しては義満期以上の影響力を保ち続け、幕政も家臣たちの意見を聞きつつ確実な運営をします。後継者問題は残りましたが、義持は、もしかしたら義満以上に優秀な政治家だったのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 桜井英治『室町人の精神』(講談社学術文庫、2009年)
  • 石原比伊呂『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版、2015年)
  • 『続群書類従補遺1 満済准后日記上』(続群書類従完成会、1958年)
  • 『続群書類従補遺2 満済准后日記下』(続群書類従完成会、1958年)

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  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武関係にくわしい。 公家日記や故実書、絵巻物を見てきたことをいかし、『戦国ヒストリー』では主に室町・戦国期の暮らしや文化に関する項目を担当。 好きな人物は近衛前久。日本美術刀剣保存協会会員。

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