「山木兼隆」伊豆国目代。挙兵した源頼朝が最初に討った人物

加藤景廉に騙されて斬られる山木兼隆の絵(月岡芳年作、出典:wikipedia)
加藤景廉に騙されて斬られる山木兼隆の絵(月岡芳年作、出典:wikipedia)
山木兼隆(やまき かねたか)は、平安時代末期の武士で、伊豆国目代を務めました。伊勢平氏の一族の兼隆は、平家の家人でした。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では伊豆国に下向した兼隆がいかにも驕る平家らしく偉そうにするさまが描かれていましたが、実のところ兼隆は何らかの罪によって官職を解かれて配流された人物で、その点は源頼朝と同じです。頼朝が挙兵すると、最初に標的にされたのがこの兼隆でした。

流人として伊豆国へ

山木兼隆は、伊勢平氏の一族で検非違使や受領を歴任した平信兼の子です。『吾妻鏡』治承4(1180)年8月4日条によれば、理由は不明ですが父・信兼の訴えによって伊豆国の山木郷へ配流されたとか。

兼隆は平清盛の義弟にあたる時忠(清盛正室・時子の弟)のもとで働いていて、伊豆国目代になったのも伊豆国の知行国主であった時忠に命じられたためでした。兼隆は流人から一転、国司の代官となったのです。

北条政子が嫁ぐかもしれなかった?

「鎌倉殿の13人」の中でも触れられていたことですが、頼朝の正室・政子が父・北条時政に頼朝との結婚を反対され、兼隆に嫁がされそうになっていたという話があります。これは軍記物語『曾我物語』にあるエピソードです。

それによれば、当時すでに頼朝が政子のところに通っていたものの、それを知らなかった時政は都で兼隆を婿にとっていて、都から伊豆へ下る道中でその話を伝えられて慌てたとか。兼隆は自分がとった婿なので反故にすることもできず、政子と頼朝を無理やり引き離してしまいました。しかし政子は兼隆の館で一夜も過ごさないうちに逃げ出し、頼朝のもとへ走ったといいます。

『吾妻鏡』文治2(1186)年4月8日条でも、政子が過去を振り返って「平家を恐れた時政が私を閉じ込めてしまったけど、それでも私はあなたを慕って雨が降る夜に逃げ出してあなたのもとへ走りました」ということを語っているので、『曾我物語』の完全な創作とは言い切れず、実際にそのようなことがあったのでしょう。

治承4(1180)年の時点で頼朝と政子の長女・大姫は生まれているので、兼隆に嫁ぐ嫁がないの騒動があったころにはもう大姫を妊娠していたか生まれていたかしたはずですが、頼朝の先妻・八重姫も頼朝との間に子をもうけていても父・伊東祐親に別れさせられているので、そのあたりは親の都合でどのようにでもなるのでしょう。

兼隆館攻め

治承4(1180)年8月、頼朝は以仁王の令旨を受け、挙兵しました。その最初の標的となったのが兼隆でした。平家の家人だからというのもあったのでしょうが、院政期ごろはあちこちで目代とその土地の武士との衝突があったようで、目代が武士に圧力をかける、武士が目代を殺害する、ということがよく起こっていたといいます。最大の敵である平家の者ということはもちろんですが、とりあえずいちばん身近で目に付く嫌な奴だったというのもあるかもしれません。

8月4日、頼朝は藤原邦通に兼隆館(現在の伊豆の国市にある韮山)の見取り図を作成させ、襲撃の準備が進められました。卜筮(ぼくぜい。占い)により襲撃は8月17日に決定しました。実際は占いの形をとっただけで、18日は頼朝がかかさず行う仏事とかぶり、19日では予定が延びすぎて露見する可能性があるということで決められた日程でした。

当初は17日の夜明け前に襲撃する予定でしたが、佐々木定綱、経高、盛綱、高綱兄弟の到着が遅れ、その日の夜にずれ込みました。

戦いは、佐々木一族による堤信遠(兼隆の後見であったといわれる人物)の館攻めから始まりました。『吾妻鏡』はこの時佐々木経高が放った合図の矢を「是源家征平氏最前一箭也(これが源氏が平氏を征伐する一番矢となった)」と記しています。

佐々木一族は堤信遠を討ち取り、その一方で北条時政らの軍勢は兼隆の館を襲撃。この時三島社の祭りがあって警護の者たちは酒宴に興じており、館の警備は手薄になっていました。そのため兼隆は苦戦しますが、それでも郎党らが必死に抵抗。しかし、兼隆は頼朝が加勢に送った佐々木盛綱、加藤景廉(かげかど)、堀親家らにより討ち取られてしまったのでした。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 永井晋『平氏が語る源平争乱』(吉川弘文館、2019年)
  • 上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館、2007年)
  • 校注・訳:梶原正昭・大津雄一・野中哲照『新編日本古典文学全集(53) 曾我物語』(小学館、2002年)※本文中の引用はこれに拠る。
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)※本文中の引用はこれに拠る。

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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