「伊賀の方」北条義時の継室。自分の子を執権に、娘婿を将軍しようと企てた?
- 2022/10/13
伊賀の方(いがのかた)は、北条義時の継室です。義時には正室・妾あわせて生涯に何人かの妻妾がいました。最初の正室とされるのが比企氏出身の姫の前(比企朝宗の娘)ですが、比企氏が滅亡した事件をきっかけに離縁したと考えられます。伊賀の方が継室に迎えられたのはおそらくその後でしょう。
伊賀の方は、義時の死後に自分が生んだ子を執権につけ、さらに娘婿を将軍にして幕府の実権を握ろうと企てたといわれています。「伊賀氏の変」と呼ばれる事件を中心に見ていきましょう。
伊賀の方は、義時の死後に自分が生んだ子を執権につけ、さらに娘婿を将軍にして幕府の実権を握ろうと企てたといわれています。「伊賀氏の変」と呼ばれる事件を中心に見ていきましょう。
北条義時の継室となる
元久2(1205)年6月22日、伊賀の方は義時との間に政村をもうけました。政村元服の儀では三浦義村が烏帽子親を務めています。伊賀の方は伊賀守・藤原朝光の娘で、兄弟には幕府の政所執事の伊賀光宗がいます。義時が貞応3(1224)年6月に急死すると、この光宗とはかって幕府の実権を握ろうとしたといわれています。
伊賀氏の変
幕府では、誰か重要な人物が亡くなる度に内紛が起こっています。頼朝が亡くなった後にはまず梶原景時が討たれ、続いて北条時政と比企能員の対立の末に比企氏が滅亡しました。比企氏を追いやった時政もまた、牧氏事件により失脚しました。伊賀氏の変は牧氏事件によく似ています。牧氏事件では、時政の継室・牧の方が娘婿の平賀朝雅(頼朝の猶子)を将軍に据えようと画策し、その企てが政子や義時に知られて失敗した後、時政は失脚して夫婦ともども伊豆国の北条へ移りました。
今度の伊賀氏の変は、伊賀の方が兄の光宗とはかり、娘婿の一条(藤原)実雅を将軍に立て、そして自分の子の政村を執権として幕府の実権を握ろうとしたという事件です。
『吾妻鏡』に記された事の顛末
6月13日に義時が急死した後『吾妻鏡』は6月28日条からこの件に触れています。それによると、鎌倉ではあれこれうわさが飛び交っていて、その中に伊賀の方ら伊賀氏きょうだいの企てのうわさもあったとか。しかしこの時点で義時の長男・泰時は相手にもしていなかったようです。翌7月5日、鎌倉中が騒がしく、光宗兄弟が三浦義村の邸に出入りしているといううわさが立ちます。義村は政村の烏帽子親で、北条を除けば最も有力な御家人ということで、光宗兄弟は義村を味方に引き込もうとしたのでしょう。
それから10日あまりが過ぎた7月17日、とうとう政子が動きました。政子は真夜中に女房の駿河局ひとりを供につけ、丸腰で義村の邸を訪ね、うわさについて詰問したのです。
政子が義時の後継者に考えているのは長男の泰時です。それなのに義村は光宗兄弟とよからぬ企みをして、泰時を陥れて幕政を牛耳るつもりなのか。あなたは政村の烏帽子親なのだから、光宗や政村が謀反を企てないように諫めなければだめではないか。
と、こんなふうに義村に詰め寄り、いらぬことをせぬようにと釘をさしました。これには義村もタジタジで、「何も知らない」と答えるばかりです。しかしそれでも政子が「態度をはっきり示せ」と言うので、義村は「政村には逆心はないけれど、光宗は何か企てているようです。私が制止しましょう」と約束しました。政子の様子によっぽど怖くなったのか、翌日義村は泰時を訪ねて言い訳をしたとか。
これで義村が伊賀氏の味方に付くことはなくなりましたが、その月末には夜に御家人たちが武装して走り回るような騒ぎがありました。
翌閏7月のはじめ、政子は再び動きます。幼い三寅(のちの4代将軍頼経)を連れて泰時の邸に入り、3日には義村や弟の時房、大江広元ら宿老を集め、謀反人を除こうと宣言しました。光宗は信濃国、伊賀の方は伊豆の北条に流罪とし、伊賀の方はその地で幽閉。一条実雅は公卿であるため、京へ送って朝廷に処分を託すことになりました。
同23日、実雅は鎌倉を出発して京へ送られ、光宗兄弟とその子らが随行しました。29日には光宗が政所執事職を罷免され、52か所の所領を没収されました。光宗の後任には二階堂行盛がつくことになりました。
翌8月29日、事前に決められていたとおり、伊賀の方は伊豆国北条で幽閉、光宗は信濃国に配流となりました。その数か月後の12月24日条には、伊賀の方が病にかかり危篤であるという知らせが入った、と書かれています。その後どうなったのかはわかりませんが、そのまま亡くなってしまったのかもしれません。
実際のところは?
政子の行動により事件が未然に防がれ、一件落着めでたしめでたし……と言いたいところですが、本当に伊賀の方と光宗兄弟が完全な悪者であったのか、疑問が残ります。この事件に関しては『吾妻鏡』以外に詳しい史料がありません。『吾妻鏡』はのちに北条氏が中心となって編纂させたため、あらゆる出来事は北条氏に都合のいいように書くことができるのです。そもそも、『吾妻鏡』の中でも伊賀氏周辺で何か動いているといううわさがあって、処分することになったと書かれているだけで、実際に謀反を企てたとは書かれていません。事件は未然に防がれたので、起こらなかったことの証拠を示せと言われても無理なことですが。
『吾妻鏡』に記された事件の流れをよく見てみると、伊賀氏の周辺が何やら企てているといううわさこそあれ、実際に行動したのは政子ただひとりです。伊賀氏に排除されそうだという当事者の泰時は、このうわさを歯牙にもかけていません。
永井晋氏は『鎌倉幕府の転換点 『吾妻鏡』を読みなおす』(吉川弘文館)の中で、この事件は政子が伊賀氏を排除するためにでっち上げたものとする説を唱えています。伊賀の方にはもともと政村を嫡男にしようという考えはなく、世間がうわさで騒がしくなっても不穏な情勢を察知して邸から動かなかった。泰時もうわさを否定した。そのため政子は多数派を形成できず、伊賀の方が政子の挑発に乗らなかったために事件は長期化したとしています。
この事件は伊賀氏を排除したい政子ひとりが積極的に動いて起こしたことで、ほかの人々は消極的だった。そう捉えてみると、配流された光宗が政子が亡くなった嘉禄元(1225)年に罪を許されているのは、筋が通るように思えます。
たとえ本当に伊賀の方が政村を嫡男にしようと考えていたとして、それは当時の家族制度からすれば間違いではありません。義時が家督継承を行うこともできず急死してしまったことで、北条家の家長は一旦後家の伊賀の方が担うことになります。政子だって、頼朝の後家として尼将軍として家長の役割を担っているのです。
義時がいたころは政子と協力して幕府を支えて関係も強固でしたが、代替わりすると政子と北条家の関係には少し距離ができます。伊賀の方が後家として地位を上げれば、政子は北条家、さらには幕府内での自分の立場が脅かされてしまうかもしれない。そんなふうに考えたのかもしれません。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
- 『世界大百科事典』(平凡社)
- 岡田清一『北条義時 これ運命の縮まるべき端か』(ミネルヴァ書房、2019年)
- 永井晋『鎌倉幕府の転換点 『吾妻鏡』を読みなおす』(吉川弘文館、2019年)
- 渡辺保『人物叢書新装版 北条政子』(吉川弘文館、1985年)
- 安田元久『人物叢書 北条義時』(吉川弘文館、1961年)
- 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄