戦国時代の旅行事情ってどんな感じ?島津家久の旅行記よりご紹介!

 現代において旅行は大きなイベントです。交通が発達していない時代であれば、旅行の機会自体も少なく、危険度も高かったことでしょう。各地で内戦がおこっている戦国時代であればなおさらです。

 そんな戦国時代に、鹿児島の戦国武将・島津家久(しまづ いえひさ)は鹿児島県から三重県伊勢神宮まで旅行に行き、京都・奈良・滋賀一帯を観光しています。

 今回は彼の旅行記『中書家久公御上京日記(ちゅうしょいえひさこうごじょうきょうにっき)』をもとに、戦国時代の旅の様子をみていきたいと思います。

戦国の旅の動機

避難するために旅行した!?

 戦国時代の旅行の動機として特徴的なものは「避難」です。応仁・文明の乱(1467~77)などで京都の治安が悪化したのを受け、伝手を頼って地方に逃げる公家が増加しました。彼らは戦国大名や芸事の弟子を頼るほか、親戚がいる大きな寺に逃げることもありました。

 たとえば一条兼良は応仁・文明の乱の勃発に際し、興福寺にいる息子の尋尊を頼って避難しています。戦国大名では大内義隆が関白・二条尹房や、武田信玄の義父など、多数の公家を受け入れました。他にも、蹴鞠の師範・飛鳥井雅綱は弟子である織田信秀のもとに赴いています。

 これとは別に、連歌師をはじめとする文化人は、各地の大名に招待されて地方を回ることもありました。戦国時代では今川氏のお抱え連歌師・宗祇は北陸から九州まで全国を旅しています。もちろん、商人や大名家の使者の往来、巡礼など、他の時代に見られる旅行者もいました。

島津家久の場合

 島津家久の場合、兄・義久(よしひさ)の三州(薩摩・大隅・日向)平定祈願をするため、天正3年(1575)に伊勢神宮を目指して旅に出ました。ちなみにこの頃の戦国島津氏は、既に薩摩・大隅の2か国は統一しており、残る日向国の統一のために伊東氏と戦っていたころです。

 家久は、道中では京都に立ち寄り、連歌師・里村紹巴(さとむらじょうは)などの文化人や明智光秀など織田家の武将、近衛前久ら主だった公家と交流を持ちました。京都と地理的に離れている薩摩島津家にとって、中央政権と関係を持つことも今回の大事なミッションでした。

 これまでも、薩摩島津家からは家老・喜入季久が元亀元年(1570)に足利義昭・細川藤孝(幽斎)を訪ねて上洛しています。家久もまた有力者と交流を深めることが求められていたのです。

戦国の旅を妨げたもの

日数がかかりすぎる!

 家久は、天正3年(1575)2月20日に領地の串木野(鹿児島県いちき串木野市)を出立。船で九州西岸を北上し、関門海峡から瀬戸内海に入って、西宮(兵庫県西宮市)で上陸、4月17日に京都市内に到着。しばらく京都周辺に滞在してから、6月1日に伊勢神宮に参拝し、同9日に尼崎で帰りの船に乗り、7月20日には串木野に帰着しました。

 鹿児島から神戸市付近まで、当時の船旅だと、おおよそ30~40日かかっていたことが分かります。現在、大阪~鹿児島発着のフェリーが片道約15時間ほどだと考えると、その差は歴然ですね。日数がかかるということは、天災・人災にあう確率も上がりますし、その間は仕事等もできなくなります。昔は少しの距離だとしても今以上に時間がかかり、往来のハードルは高かったのです。

関所が多すぎる!

 ただでさえ往来が不便なのに、それを更に不便にしている原因の一つが「関所」です。関所は高速道路の料金所のようなところで、街道沿いや主要な港湾に設置され通行料の徴収等を行います。

 江戸時代には大半が幕府公認の関所ですが、戦国時代では大名家公認の関所のほか、その村や町などが独自に設置した非公認の関所もありました。

 家久も関所には難儀しました。通行料をとられるならまだしも、家久の行列が途中で止められて、お供の一部が関所を通過できない事態も発生しました。家久も関所に対してはかなり荒っぽい対応をしています。難癖をつけられて通れなかった旅人を自分の一行に混ぜ込んで通してあげた他、関所に警備がいない深夜を待って強引に突破する(江戸時代だと犯罪です!)など、旅先ながら強引な対応をしています。

 大半は、船頭の口利きや宿屋の主人の紹介状などで平和に通過しているので、土地の有力者への伝手があれば問題なかったのかもしれません。それにしても、全国的に名高い島津家久も、地方においては宿屋のおやじの紹介状を求める側であるとは、なかなか面白い構図です。

山賊がヤバすぎる!

 旅行中、島津家久が最も恐れたのは山賊でした。戦国武将として戦の実績もあり、お供も100名ほど引き連れていたにも関わらず、彼は山賊を恐れていました。

 6月13日、月野瀬(現在の和歌山県東牟婁郡付近)の関所付近で、「山賊が出た」と聞いた家久は「明日は自分が襲われるかも」と恐怖しています。戦場ならいざ知らず、旅において山賊は恐ろしい存在だったことがうかがえます。

戦国の旅の楽しみ

観光地めぐり

 旅には危険もつきものですが、旅の楽しみもまたありました。その一つが観光地巡りです。鹿児島から京都までの旅路で、島津家久もまた、現代でも知られた観光地に立ち寄っています。

 一例を挙げると、

  • 3月23日:厳島神社
  • 4月20日:北野天満宮
  • 4月28日:八坂神社・三十三間堂
  • 5月15日:比叡山延暦寺
  • 5月17日:石山寺・三井寺・南禅寺
  • 6月1日:伊勢神宮
  • 6月4日:興福寺
  • 6月5日:東大寺・二月堂
  • 6月6日:平等院

など、まるで修学旅行生のように有名スポットをはしごしています。なお、上記観光地の他にも、織田信長の凱旋行列の見学(4月21日)・賀茂祭見物(5月1日)・祇園祭見物(6月7日)など、イベントごとの見物も行っています。

 現代ではTVやインターネットで楽しむことも可能ですが、それができない戦国時代、とくに地方の人にとっては観光自体がとても贅沢な楽しみだったものと思われます。

超豪華なおもてなし

 観光するといっても、島津家久は1人ではありません。時に宿屋の亭主、時にその地の知人など、行く先々で案内人がいました。彼らが観光地を案内し、場合によっては宴席を設けて「おもてなし」をしていました。京都では、連歌師の里村紹巴が案内人として、彼の滞在をサポートしています。

里村紹巴像(東京国立博物館蔵、出典:wikipedia)
里村紹巴像(東京国立博物館蔵、出典:wikipedia)

 おもてなしの中でも特に豪華だったのが、5月14~16日まで逗留した近江坂本でのおもてなしです。里村紹巴とともに訪れた近江坂本では、城主の明智光秀の歓待をうけます。今回家久は信長に会っていないので、光秀の対応は信長の命令というより、「紹巴の知人」として対応している模様です。

 光秀は出迎えとして家来を派遣しますが、家久が乗る用の馬を連れていかせる気遣いぶりを発揮します。更に初日の夜から舟遊びに誘い、しかも畳敷きの豪華な御座船に一行を迎えました。光秀はそのまま城に横付けして、家久に坂本城内を案内しています。次の日も光秀は家久一行を城に招待し、家久が恐縮して断ると、すぐさま城下町で宴席を設けます。そこでは琵琶湖の幸を供するほか、連歌や茶の湯も行い、帰り際に豪華な着物を3セット贈るなど、この旅中で一番のおもてなしでした。

 当時、遠方から訪ねてくること自体が、多くの危険と隣り合わせで容易にできない事でした。そのため、訪ねて来た人に対する感謝とねぎらいの気持ちは現代より数倍増しで、旅先での歓待につながりました。

おわりに

 戦国時代の旅は現代とは比べ物にならないほど困難が伴いました。一方で、困難を越えてたどり着いた先での喜びもまた、すぐ旅に出られる現代より大きなものだったでしょう。


【主な参考文献】
  • 九州史料刊行会編『九州史料叢書第18 近世初期九州紀行記集』(九州史料刊行会、1967年)
  • 白井忠功「<論説>京都の島津家久 : 『中書家久公御上京日記』」(『立正大学文学部論叢』108、1998年)
  • 斎藤慎一『中世を道から読む』(講談社現代新書、2010年)

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  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武関係にくわしい。 公家日記や故実書、絵巻物を見てきたことをいかし、『戦国ヒストリー』では主に室町・戦国期の暮らしや文化に関する項目を担当。 好きな人物は近衛前久。日本美術刀剣保存協会会員。

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