絢爛豪華な美術品!「洛中洛外図屏風」に描かれた戦国時代の京都とその謎とは?

桜ぴょん吉
 2022/06/30
戦国時代の美術品といえば何を連想するでしょうか?華やかな甲冑や旗指物、刀剣も確かに美術品のひとつです。しかし、戦国武将の居城を飾った調度品を無視することはできません。中でもひときわ豪華なものが、絵師の手による障壁画や屏風絵です。合戦の様子を描いた屏風絵は、戦国好きの人であればどこかで見たことがあるかもしれません。

今回はその中でも「洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)」を取り上げます。戦国時代の京都を描いた屏風絵は、当時の様子が分かるだけではなく、その屏風を欲した権力者の意図も読み取れます。美しい屏風の裏にある深い思惑を、読み解いていきましょう。

洛中洛外図屏風って何?

「洛中洛外図屏風」とは、京都の中心部(洛中)と郊外(洛外)の繁栄を描いた屏風絵の総称です。この類の屏風絵は、6面の屏風の2個セット(六曲一双)で制作することが多く、右側の屏風に洛外、左側に洛中の様子を描くのが一般的です。

屏風には、空から見た華やかな京都が描かれています。まず目につくのは内裏や将軍、近衛家ほか有力な公家や大名たちの邸宅です。彼らの家には有名な庭園がある場合も多く、きれいな桜や松が添えられていることもあります。建物の中には奉公人が往来し、内裏では行事の様子が描かれていることも。逆に誰もおらず閑散とした屋敷がある屏風もあって、それぞれ個性があります。

京都といえば寺社仏閣も欠かせません。現在も観光名所となっている有名な寺院も、参拝客とともにしっかり描かれています。建物だけではなく、祇園祭など神社の祭礼を描いている屏風もあります。それ以外にも、当時の店の様子や買い物をする庶民の日常風景、遊んでいる子供の様子などほっこりする場面もあります。屏風によっては南蛮人が歩いていたり、河原で歌舞伎踊りをしていたりするものもあります。

「洛中洛外図屏風」は、とくに地方から発注が多い画題でした。たとえば『実隆公記』によると、永正3(1506)年12月、京都の絵師・土佐光信が朝倉氏のために「洛中洛外図屏風」を描いていたことが分かります。当時朝倉氏は越前一乗谷を建設しており、京都を強く意識していたことが分かります。

他にも様々な思惑で描かれた「洛中洛外図屏風」は、室町時代から戦国、江戸時代にかけて大量に描かれました。現存品でも百数十点が残されています。

洛中洛外図屏風上杉本の制作経緯

今回は上杉家に伝来した「洛中洛外図屏風」(以下「上杉本」)を詳しくみてゆきます。

「洛中洛外図屏風(上杉本 左隻)」(出典:wikipedia)
「洛中洛外図屏風(上杉本 左隻)」(出典:wikipedia

「上杉本」は、同様の屏風のうち制作年代が比較的古く、しかも制作経緯が分かっている珍しい例です。作者は、戦国時代を代表する絵師・狩野永徳です。制作は、永徳21歳の永禄7(1564)年頃からはじまり、翌永禄8(1565)年9月3日に完成しています。

屏風の発注者は、時の室町幕府将軍・足利義輝です。義輝は、親しくしていた上杉謙信に贈るため、屏風の制作を依頼しました。上杉謙信は、永禄2(1559)年に上洛して足利義輝に謁見し、その2年後には関東管領になっています。彼は「何をおいても公方様をお守りします」と言っており、政情不安定な室町幕府としても頼もしい存在でした。

しかし、永禄8(1565)年5月、足利義輝は三好三人衆に暗殺されます。注文主を失った屏風は狩野永徳の手元にとどめ置かれました。およそ10年後の天正2(1574)年、屏風は無事上杉謙信の手元に届きます。届けたのは、織田信長。のちに狩野永徳に、自分の居城である安土城の障壁画を依頼する信長は、永徳の手元にあった屏風を偶然発見したようです。ちょうど謙信とは同盟関係だった信長は、彼に屏風を贈りました。

この屏風は、代々上杉家に伝来し、現在は国宝として米沢市上杉博物館が所蔵しています。同博物館は、米沢市上杉博物館・市立米沢図書館収蔵文化財総合データベースで詳細な画像も公開しています。

基本的に当時の京都の様子、だけど…

「上杉本」が描いた京都は、基本的に永禄年間前後の京都の様子です。しかし、一カ所だけ当時と明らかに異なる場所があります。それが、室町将軍の邸宅です。

「上杉本」の将軍の邸宅は左隻下段中央に描かれています。通りを挟んで上(方角では南)に近衛邸があるので、この建物の所在は室町通り沿いと分かります。「室町通り」という名から分かるように、ここは室町幕府ゆかりの地。南北朝合一を実現し、太政大臣にもなった将軍・足利義満の邸宅「花の御所」があった場所です。

しかし、当時の将軍邸は「花の御所」ではありません。足利義輝は、当時京都の二条に住んでいました。三好三人衆が襲撃したのも、のちに足利義昭が住んだのも、二条御所と呼ばれる別の屋敷です。

ではなぜ、現実と違う描写がされていたのでしょうか。一説には、これは足利義輝の理想を描いたものだと言われています。足利義輝は、権威が失墜した室町幕府の立て直しをはかり精力的に活動した将軍でした。彼にとって、幕府が「花の御所」にあった時の状態は理想そのものだったのでしょう。

「洛中洛外図屏風(上杉本)」花の御所(出典:wikipedia)
「洛中洛外図屏風(上杉本)」花の御所(出典:wikipedia

義輝の理想は、もう一つ描かれています。屏風には「花の御所」に向かう貴人の行列が描かれています。行列の中央にいる輿に乗った人物(上記画像右上)は、家来の人数や持ち物から、管領ではないもののそれに準じた立場の人だと分かります。当時、室町幕府の有力者といえは細川氏や三好氏がいますが、彼らの屋敷はむしろ小さくて閑散としている様子で、この行列の主ではなさそうです。

現在、この貴人は上杉謙信ではないか、と言われています。足利義輝は、謙信の上洛を待ち望んでいました。屏風中に謙信の行列を描くことで、義輝は、謙信に上洛し幕府を支えることを訴えようとしたのでしょう。
この屏風は、上杉謙信に対して足利義輝が示す「理想の未来図」だったのです。

上杉謙信がこの屏風を見ることができたのは、足利義輝死後のことです。義輝の思いを知った謙信が何を感じたかうかがい知ることはできませんが、屏風は上杉家の重宝として、代々秘蔵されました。

おわりに

その後も都市を描いた屏風は人気でした。画題は京都にとどまらず、「安土図屏風」や「聚楽第図屏風」などその時の中心地の絵も多く描かれました。屏風には、当時の建物の様子や庶民の生活、祭礼の様子など、文字史料にはなかなか残らないような情景が描かれており、歴史研究の上で貴重な情報となっています。

一方で、屏風の絵は「発注者が見たい様子」を描いているので、現在の写真や写生と異なる点は注意が必要です。足利義輝が、すでにない「花の御所」や居るはずもない上杉謙信を描くように注文をしたのは先に見た通りです。なので、屏風絵に描かれていることを無批判で「当時の様子」とすることはできません。むしろ、発注者の意図があることを前提で、それも含めて読み込むのが都市図との向き合い方といえるでしょう。




【主な参考文献】
  • 米沢市上杉博物館・市立米沢図書館収蔵文化財総合データベース 洛中洛外図屏風(上杉本)左隻
  • 黒田日出男『謎解き洛中洛外図』(岩波新書、1996年)
  • 河内将芳『戦国時代の京都を歩く』(吉川弘文館、2014年)
  • 小島道裕『洛中洛外図屏風』(吉川弘文館、2016年)
  • 小島道裕『描かれた戦国の京都』(吉川弘文館、2009年)
  • 成澤勝嗣『狩野永徳と京狩野』(東京美術、2012年)
  • ColBase 洛中洛外図屏風(舟木本)

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  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武関係にくわしい。 公家日記や故実書、絵巻物を見てきたことをいかし、『戦国ヒストリー』では主に室町・戦国期の暮らしや文化に関する項目を担当。 好きな人物は近衛前久。日本美術刀剣保存協会会員。

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