「島津家久」島津四兄弟の末弟はきわめて優秀だった!?調略と軍事に長けた猛将。

島津家久のイラスト
島津家久のイラスト
島津四兄弟の末弟として、九州の統一に向けて数々の戦で軍功を上げた島津家久。かなりの切れ者で調略を盛んに用い、後世にまで語られる「釣り野伏」戦術を編み出した人物です。かと思えば、和歌や連歌好きが高じて京都を観光しまくったり…。「次は何をやらかしてくれる?」と人を惹きつける魅力の持ち主でもあります。

この記事では、生き生きと戦国の世を闊歩した家久を紹介していきます。

島津四兄弟の末弟、兄弟間の格差を乗り越え成長

家久の誕生

天文16年(1547)、家久は島津貴久の4男として生を受けます。母は「橋姫」とされていますが、この女性は隆久の側室であり、家久の兄3人を生んだ正室と比べると格下の存在。

兄・義久とは14歳、義弘とは12歳、歳久とは10歳ほど年が離れているということもあり、島津家では兄弟間の格差も生じていたようです。家久も多少のコンプレックスを感じながら成長していったと思われます。

15歳で早くも戦上手の片鱗を見せる

家久の初陣は永禄元年(1558)のこと。父・貴久とその義兄である肝付兼続との戦いに参陣して15歳にして敵将・工藤穏岐を討ち取っています。

この働きを喜んだ貴久は、家久に脇差や槍などを褒美として与えました。この頃からすでに家久は戦上手の片鱗を見せていました。

和歌・連歌などにも通じた教養人としての一面も

そんな家久は、ただ無骨なだけではなく、和歌や連歌を嗜む教養人としての一面も持っていました。その素養を育んだのは家久の二人の父です。

家久の父・貴久は、自ら連歌会を興行するほどの和歌や連歌に造詣の深い人物。そして、義理の父である横山玄佐は、公家らと和歌や連歌を楽しむ教養人。当代きっての名人・近衛前久から古今伝授(古今和歌集を中心に、師から弟子へ秘説相承で伝授されること)を受けるほどの名手であったと言われています。

二人から影響を受けた家久は、22歳の若さで百韻連歌にも参加するほど連歌にのめりこみ、やがて文武両道の将としても知られるようになりました。

若き家久、「釣り野伏」戦術を確立

祖父・忠良をもって「軍法戦術に妙を得たり」と評される家久は、若い頃から計略を得意としていました。

永禄10年(1567)、島津勢は有力国衆の菱刈氏の本拠地に攻め込んだものの、3年に及ぶ菱刈氏の籠城に手をこまねいていました。しかし、そんな状態に終止符を打ったのが家久です。

家久は300の兵に簑笠を着せ、兵糧を運ぶふりをして「大口城ノ麓路」を通行させました。これを見た城兵は打って出て、蓑笠の兵たちに襲い掛かります。家久はここでわざと兵を引くと、退却を装いました。おびき出した城兵を三方から取り囲むと、336人もの敵の首を打ち落としたのです。

この戦術は後に「釣り野伏」と呼ばれ、島津氏は積極的にこの戦術を用いて戦果を挙げるようになります。

青年時代の家久は好奇心旺盛で闊達…かつ謀略家?

謀反のうわさを流して、所領をねだったり脅迫したり

天正2年(1574)、島津家への謀反を疑われた国衆・入来院重豊は、領地を返上する旨を申し出ました。義久はこの一部を収公すると、召し上げた領地を誰に与えるか協議をはじめます。すると家久は、老中に対してこっそりとこんな要請をしてきました。

「自分は隈之城西手名に40町の所領があるが、たびたびいさかいが起きて困っている。そこで、入来院が返上した山田・天辰・田崎、合わせて42町と取り換えてほしい。」

さらに家久は次のように続けます。

「自分も入来院の謀反を通報したが、所領欲しさにやったと思われると困るので、ご老中の方々には配慮していただきたい。」

欲しい領地を手に入れるために謀反の噂を流しておきながら、出所が自分だとバレないように配慮してほしいとは。なかなかずる賢いことをしていますね。でも、義久はこれをバッサリと却下。家久の兄・歳久はかねてから家久の厚遇に嫉妬しており、この要請を認めると、弟たちの関係がさらにこじれると判断したのです。

でも、これに懲りる家久ではありません。今度は和泉の領主・島津義虎の謀反の噂を流しました。あわてた義虎は使者を送り、弁明します。

「謀反の噂は家久様から出たものです。急ぎ義虎が串木野に来て弁明しろ、そうしなければお前(義虎)は終わりだぞと言われました」

念のため事実確認をすると、家久は「そんなことは知らない」としらんぷり。しかし義久は、あえて家久の調略に乗っかり、「弟がそんなことするはずがない」と、使者を激しく詰問し、義虎を牽制しました。

兄弟それぞれの特性を利用しつつ、周りの敵を1つずつ排除していくという島津4兄弟のスタイルがよく分かる話ですね。

京都へ観光旅行?!半年にわたり見聞を広める

天正3年(1575)、戦いがひと段落着いた島津家では上洛や伊勢参詣の希望者が続出しました。一族の代表として最初に上洛を許された家久は、「旅行記」ともいうべき日記を詳細に記していました。興味深いエピソードが沢山あるので、いくつかご紹介します。

京で織田信長を目撃!

石山本願寺攻めから帰京した信長を目撃した家久。黄色地の「黄永楽」の旗、馬廻衆の装備、馬上で居眠りする信長の様子などを詳細に日記に記しました。

明智光秀に坂本城へ招かれる!

石山寺参詣からの帰り道、明智光秀に対面した家久は茶席に招かれます。しかし、家久は茶の湯の作法を知らなかったため白湯を所望したとされています。「あれ?家久は教養人なのに茶の湯を知らないの?」と思った方もおられるかもしれませんが、実は侘茶の作法はまだ南九州にまで広まっておらず、家久が知らないのも道理でした。

和歌、連歌、文学作品ゆかりの地へ観光三昧

京都滞在中、家久は里村紹巴という連歌師に世話になっていました。家久は紹巴から和歌や連歌の「三部集」の講釈を受けたり、たびたび連歌会に参加したりしていたようです。また、家久は和歌に詠まれた景勝地や歌人の旧跡、文学ゆかりの地などに足を運んで観光しています。

さらには、薩摩への帰りに石見銀山に立ち寄ったり、平戸で唐船に乗ったりもしていたようで、好奇心旺盛で闊達な青年像が浮かび上がります。

九州制覇を目指す島津家の戦上手として

高城・耳側合戦で大勝利を収める

天正7年(1579)9月、大友宗麟が5万もの大軍を率いて島津征伐のために日向に侵攻してきました。「豊後落ち」で大友氏を頼ってきた日向の伊藤氏の領地を取り戻すためです。

大友軍の田原紹忍は南下を続け、高城を包囲します。家久は高城城主・山田有信を救うため城に入り、抵抗を続けました。救援に来た兄・義久・義弘は、到着するや大友軍一千を討ち取ります。

これに対し、大友軍は全軍を率いて反撃に出ました。たまらず退却を始めた島津軍。大友軍は波に乗って追撃を続けたところ…、突然島津軍が反撃に出たのです。そう、家久お得意の「釣り」戦術です。

この戦に勝って島津家は日向のほぼ全域を手に入れました。家久はこの後、大友氏の侵攻を牽制するため日向の最重要拠点である佐土原に置かれることになりました。

沖田畷の戦いで龍造寺氏を下す

天正10年(1582)、家久の取次ぎによって従属してきた島原の有馬鎮貴は、龍造寺氏に攻められ島津家に救援を求めていました。肥後に出陣していた家久は独自に和睦交渉を行い、早期に戦を終わらせ救援に向かう準備を整えます。

そんな折、龍造寺勢が有馬領を攻撃するとの情報を得て、家久は自ら援軍として出陣することを希望します。しかし、肥後攻略中に家久のような戦上手が抜けると困る、と老中たちに出陣を思いとどまるよう説得されていました。

天正12年(1584)に有馬氏の救援が正式に決定すると、家久は兄たちより一足先に「有馬渡海衆」を編成して島原半島へ出陣します。龍造寺勢およそ3万に対し、島津・有馬連合軍は6千あまり。圧倒的な兵力差です。しかし、家久は戦術を持ってここ一番の戦も切り抜けたのです。

まず、家久は有馬の将たちと話し合い、戦の場所を沖田畷に定めました。沖田畷は左右をぬかるみに囲まれた湿地帯で、その真ん中に細いあぜ道が通っているだけの場所。大軍で通り抜けるのは困難な土地です。しかし、龍造寺勢は勢いに任せて沖田畷を進軍してきました。龍造寺の先鋒部隊と島津軍との戦闘が始まると、島津勢は大群に推されてじわじわ退却をはじめました。これに勢いづいてなおも追撃する龍造寺軍。しかし家久は、この時を待っていました。敵軍を十分引き付けたところで、忍ばせておいた伏兵が三方から挟み込んで一気に攻撃します。ここでも「釣り野伏」が功を奏しました。

龍造寺軍の大将・龍造寺隆信は家久の家臣の銃弾に倒れて戦死。大将を失った龍造寺勢は敗走し、島津軍の大勝利に終わりました。この戦の後、大友氏の重臣が、筑後を本拠地とする大友方の国衆に送った手紙には、

「義弘と家久はいずれも軍事を得意とする武将であるが、特に家久は大酒など余計な遊びをすっかりやめて、軍備ばかりに力を入れる、とても尖った人物である」

と。

家久は島津四兄弟の中でも特に警戒すべき人物と目されていたようですね。家久も軍事に神経を傾けていた様子がうかがえます。

豊後への侵攻をめぐる兄弟対立

天正13年(1585)に入ると、筑後の支配をめぐって大友氏との関係が悪化します。家久は早期に豊後へ侵攻し、大友氏を攻めるべきと主張していました。しかし、義久は慎重な姿勢を示します。

でも、調略が得意な家久がじっとしているはずがありません。豊後の南端の緩木城主・入田氏が島津氏への寝返りを申し出てくると、これをチャンスととらえて義久に虚偽の報告を行いました。「大友氏に手切れを通告した入田氏が、大友氏と豊後で戦っていますよ」と。しかしこれを見破った義久から、家久は勝手に出陣しないよう説得されてしまいます。

天正14年(1586)に大友氏との決戦が避けられない状況になると、一族あげての豊後侵攻がようやく実現しました。家久は戸次川の戦いで大友氏の救援に来た豊臣軍を討ち破るなど順調に戦果を挙げていきますが、義弘は苦戦を強いられ、城を落とすことができません。協議の上、義弘と家久は陣替えをすることになりました。家久はこうした状況に不満を持ち、義弟に愚痴をこぼしています。

「出陣衆は欲ばかり出して合戦を避けているし、兄義弘も軍功が挙げられず自分と争うようなありさま。伊集院忠棟も底意地が悪く、もう撤退したい。」

これ以降、豊後での戦況も次第に不利になってきたため、義久は撤退を決意。日向の守りを固める方向へシフトしていきました。

快進撃を続けた島津四兄弟に陰り

九州最強の島津四兄弟、ついに豊臣秀吉に降伏

天正15年(1587)、総勢18万もの軍を率いて九州討伐に向かう秀吉は筑前から肥後、薩摩へと侵攻。秀吉の弟秀長は豊後から日向へと侵攻しました。秀長は日向北部の守りの要である松尾城を落とすと、日向南部の要である高城を包囲します。

秀長は高城を厳重に包囲して兵糧攻めにしながら、島津軍が高城の救援に向かう際に必ず通る根城坂に砦を設けて待ち伏せしました。義久は義弘、家久などを率いて根城坂の陣営に夜討ちを仕掛けましたが、大軍相手に勝ち目はなく、多くの戦死者を出して敗退しました。

根城坂の戦の直後、家久は秀長の家臣・藤堂高虎の説得に応じて降伏。秀長に対し、こんな申し出をしています。「降伏後、秀長とともに上方に上り、そこで似合いの扶持を受けて奉公したい」と。これに対して秀吉は「神妙である」として家久に所領を還付しています。

薩摩の総指揮官と呼ばれた家久、毒殺される

天正15年(1587)5月14日、義弘に会見する秀長に同行するため、病をおして野尻に赴いた家久は、そこで病状が悪化して佐土原城に戻ります。しかし、病状は回復せず、そのまま6月5日に41歳で永眠となりました。

家長の死因には、毒殺説や病死説などがありますが、ルイス・ フロイスの『日本史』では、家久が豊臣家に対して策略を仕掛けることを恐れ、秀長が宴席で毒入りの盃をとらせたとしています。家久が上方で活躍することで、島津氏の勢力が再び拡大することを危惧していたのかもしれませんね。

秀長は家久の長男・忠豊に対し、父の死を受け入れ「分別」を求め、家久の降伏を説得した高虎と諸事談合するよう伝えています。また、忠豊の覚悟次第では引き立てるとも約束しています。毒殺が本当なら、忠豊らがいずれ謀反を起こすかもしれないと恐れていたのかもしれません。しかし忠豊は「分別」ある行動によって、家久の旧領を引き継ぐことが許され、島津本宗家からは独立して豊臣大名となったのでした。

おわりに

島津四兄弟の中では兄に比べて身分が低く、格下と考えられていた家久ですが、調略と武功を両立させ、数々の戦で活躍。島津家の実質的な九州制覇は家久なくしては成り立たなかったかもしれませんね。


【主な参考文献】
  • 新名一仁「島津四兄弟の九州統一戦」星海社新書、2017年
  • 新名一仁「島津家久・豊久父子と日向国」宮崎県文化講座研究紀要第44輯、2017年
  • 栄村顕久『島津四兄弟 義久・義弘・歳久・家久の戦い』南方新社、2016年

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  この記事を書いた人
玉織 さん
元・医療従事者。出産・育児をきっかけに、ライター業へと転向。 現在はフリーランスとして、自分自身が「おもしろい!やってみたい!」 と思えるテーマを中心にライティングを手掛けている。 わが子の子育ても「得意を伸ばす」がモットー。

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