「天王寺砦の戦い(1576年)」信長、数的優位の本願寺を蹴散らす!

天王寺砦の戦い(天王寺の戦い)は天正4年(1576)5月、織田信長軍と本願寺勢力が対決した戦いです。本願寺の力を見くびっていた信長が、“本気”を出すきっかけになった戦いでもあったようですよ。

合戦の背景

天王寺砦の戦いは、いつ起こってもおかしくないものでした。戦いの数年前から、織田信長は本願寺の顕如との対立を深めていたのです。

顕如との対立

信長と本願寺の顕如の対立は、元亀元年(1570)9月から始まります。野田城・福島城の戦いで信長が三好三人衆との戦闘中に、本願寺勢力が突然信長軍に襲い掛かったのです。

その後も顕如は、反信長の姿勢を貫きます。当時、信長と対立していた足利義昭方につき、浅井氏・朝倉氏・武田信玄らとともに信長包囲網の一端を担う存在になるのです。

甲冑をつけた本願寺顕如の肖像画(石川県立博物館所蔵)
甲冑をつけた本願寺顕如の肖像画(石川県立博物館所蔵)

下記のように、信長包囲網は瓦解していきますが、それでも顕如は態度を変えませんでした。天正2年4月には、信長方の摂津・中島城を攻め落としています。

  • 天正元(1573)年4月:武田信玄の急死
  • 同年7月:足利義昭の追放
  • 同年8月:一乗谷の戦い(朝倉氏滅亡)
  • 同年9月:小谷城の戦い(浅井氏滅亡)
  • 同年11月:若江城の戦い(三好宗家滅亡)
  • 同年12月:松永久秀の降伏
  • 天正2(1574)年7月 長島一向一揆殲滅戦
  • 天正3(1575)年5月:長篠の戦い
  • 同年8月:越前一向一揆殲滅戦

本願寺勢力が毛利輝元と手を結ぶ

天正3年(1575)に入ると、信長はその年の秋に、本願寺包囲作戦を計画。同年3月中には包囲体制(※1)が完成します

※1 本願寺包囲体制
  • 【摂津】荒木村重
  • 【東丹波・山城西岡】細川(長岡)藤孝
  • 【南山城・大和】塙(原田)直政

が、越前一向一揆殲滅戦のため、実行はされませんでした。それどころか信長と顕如は講和の道を選んだのです。えっ……?

とはいっても、一時的な和睦に過ぎないことは明らかでした。本願寺は雑賀(さいか)の鉄砲衆(=雑賀衆)らを入城させ、毛利氏にも援助を求めるなど、信長との対決に備えていたのです。

信長も、大坂にいつでも出兵できるよう、準備をしていました。両者、戦う気満々ですね!

塙 直政ら先方隊が敗退し、天王寺砦が窮地に

天正4年(1576)4月、大坂で小競り合いがあったという情報を聞いた信長は、すぐに本願寺攻撃の命令を出します。

天王寺砦の戦いの要所マップ。色塗部分は摂津国

信長の命を受けて出陣したのは荒木村重・細川藤孝・塙直政・明智光秀ら。三方に分かれ、本願寺を包囲します。

  • 荒木村重:尼崎より海を経て野田に砦を構築
  • 明智光秀・細川藤孝:北東の守口(=守口市)・森河内(もりがわち)(=東大阪市)に布陣
  • 塙直政:本願寺の南方わずか三キロメートルの天王寺に進出

ところが、本願寺は西方の海岸線に多くの砦を構え、大阪湾への海上通路を確保していました。これでは、雑賀や毛利氏と連絡を取るのも簡単です。そこで信長は、海上通路を遮断するため、三津寺(みつでら)砦の攻略を塙直政に命じました。

塙直政の戦死

5月3日の早朝、塙直政と三好康長が三津寺への攻撃を開始。ちなみに三好康長は前年の高屋城の戦いで、信長方に降ったばかりで、その後信長と顕如との一時的な講和も仲介していました。

対する本願寺勢は、数千の鉄砲を擁する1万もの兵でした。織田方の塙・三好軍も4カ国(和泉・根来・山城・大和衆)の大軍でしたが、鉄砲の攻撃に耐え切れず、先鋒の康長は逃亡。続く塙直政も、本願寺勢の総攻撃を受け、混乱の中で戦死してしまいます。

本願寺勢力、天王寺砦を包囲

勢いに乗った本願寺勢は、そのまま信長方の天王寺砦へと攻め寄せます。天王寺砦には、明智光秀と佐久間信栄(のぶひで)が入っていました。が、天王寺砦は堀も整っていないような貧弱な砦。突如、攻撃を受けることになった光秀・佐久間軍は、古畳や殺した牛馬を盾にして攻撃を防ぐしかありませんでした。

ついに信長自ら出陣!

5月5日の早朝、大坂の報せを受けた信長は、自ら出陣します。しかし、あまりにも突然の出陣だったため、お供はわずか100騎ほど。河内若江に逗留し、翌6日には3千ほどの兵が集まりましたが、それでも少ないですね。後に戦う本願寺勢は、1万5千もいたそうですから……。

「天王寺籠城の者を攻め殺させてしまっては、世間のもの笑いの種になる」(『信長公記』)


とはいえ、光秀らのいる天王寺を見殺しにはできなかったようです。

信長軍が勝利する

5月7日の明け方、信長は軍を3段に分けて攻撃を開始します。

  • 先鋒:佐久間信盛・長岡藤孝・松永久秀
  • 第2段:滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀
  • 第3段:信長と馬廻衆

天王寺砦の兵と合流した信長軍は、寡兵ながら積極的な攻撃を行い、本願寺勢を撃破。さらに本願寺城下まで追撃し、2700ほどの首を討ち取りました。大きな犠牲を払いましたが、最終的には信長軍が勝利したのです。

まとめ

戦後、信長は佐久間信盛(織田家臣の筆頭)を天王寺に入れ、7カ国もの与力を付けます。本願寺勢の強さを見せつけられた結果、“本気の”本願寺包囲網を構築したというわけです。

この戦いでは、信長は明智光秀を救っていたのですね! 信長は自ら体を張って、足を撃たれています。光秀を助けてから6年後、それでも本能寺の変はやってきてしまうのです。


【参考文献】
  • 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』(中公新書、2002年)
  • 谷口克広『信長の天下布武への道』(吉川弘文館、2006年)
  • 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)

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  この記事を書いた人
犬福チワワ さん
日本文化・日本史を得意とする鎌倉在住のWebライター。 都内の大学を卒業後、上場企業の経理部門・税理士法人に勤務するも、体調を崩して離職。 療養中にWebライティングと出会う。 趣味はお笑いを見ることと、チワワを愛(め)でること。

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