【解説:信長の戦い】観音寺城の戦い(1568) 信長上洛の途で六角氏が通せんぼ!?

犬福チワワ
 2019/04/15
 織田信長が足利義昭を奉じ、上洛する際に起こった「観音寺(かんのんじ)城の戦い」。近江南部の六角氏が、京都を目指す信長たちの前に立ちふさがったことが原因です。なぜ六角氏は“通せんぼ”してきたのでしょう。また、戦いの意外な結末とは?

合戦の背景

足利義輝の自害

 そもそも織田信長は、なぜ足利義昭を奉じて上洛(京都に行くこと)することになったのでしょうか。のちに室町幕府最後の将軍となる義昭ですが、もとは僧籍に入っていた人物。当時は覚慶(かくけい/以下、義昭に統一)と称していました。

 ところが永禄8年(1565年)5月19日、13代将軍・足利義輝(よしてる)が三好三人衆や松永久秀らによって、自害に追い込まれたことにより(永禄の変)、義昭の運命が変わります。彼は義輝の弟であったため、この事件の直後、奈良の興福寺に幽閉されてしまうのです。

 その後、細川藤孝(幽斎)らに救出された義昭は、近江へと逃れていました。こうして近江・若狭・越前と、義昭の流浪が始まります。

上洛したいのにできない義昭

 翌年2月、義昭は還俗(出家した人が俗人に戻ること)して幕府の再興を志します。とはいっても、自分の力だけではどうにもなりません。そこで援助をしてくれないかと、諸国の大名に書を送っていたのです。

 義昭が頼ったのは近江の六角氏、越後の上杉謙信、越前の朝倉義景など。特に謙信と義景のことを頼りにしていましたが、謙信は謀叛、義景は一向一揆に悩まされていたことなどもあり、なかなか上洛は実現せずにいました。

 一方、義昭からの書は、信長のもとへも届いていました。信長側にも上洛したいという気持ちはありましたが、当時は美濃斎藤氏と対立の真っ最中。そのため、すぐに義昭を奉じて上洛するということは叶わなかったのです。

 そうこうしているうちに、永禄11年(1568年)2月には義昭のライバル(※1)・足利義栄(よしひで)が三好三人衆に擁立され、第14代将軍に就任します。これには義昭も、相当焦ったに違いありません。

※1 互いに将軍職の正当性を主張しあっていた仲。従兄弟同士でもある。


 誰にも助けてもらえない、可哀想な義昭。このまま終わっちゃうのかな……なんて思い悩んでいたかもしれません。しかしそんな頃、前年に美濃を攻略し、天下布武を掲げた(なんて頼もしいんだ!)信長から上洛のお誘いが! 義昭が喜ぶ姿が目に浮かびます。

信長、義昭を奉じて上洛

 同年7月13日、朝倉のもとにいた義昭は、越前の一乗谷を後にします。その途中、近江の小谷城では信長の義弟・浅井長政からの接待を受け、25日には岐阜へと到着。さらに信長自らが、美濃と近江の境目まで出迎えてくれるという厚遇ぶり。その後もお金や武具などをもらい、義昭はめちゃくちゃもてなされます。この間までの不遇が嘘のようです。

 そして準備も整い、いざ上洛! と思いきや、大きな問題が発生しました。上洛するには六角氏の所領(琵琶湖の南岸)を通る必要があったのですが、六角氏がこれを拒絶したのです。え、なんで? って感じですよね。それは六角義賢(承禎)が、信長が“これから戦うことになるはず”の三好三人衆と通じていたからです。そりゃあ、通してくれませんわ。

 そこで信長が取った行動は武力解決……ではなく、説得でした。なんとか上洛に協力してくれるよう、六角氏への説得を試みます。しかも7日間も。義昭は六角氏に「協力すれば、幕府の所司代に任命する」とも伝えましたが、結局失敗に終わります。

 というわけで信長軍は、通せんぼしてきた六角氏と戦うことになったのです。

合戦の経過・結果

 永禄11年(1568年)9月7日、信長は岐阜を出陣します。信長軍には尾張・美濃・北伊勢、そして徳川家康や浅井長政の軍勢も加わり、およそ6万という大軍勢でした。対する六角軍は、およそ1万千人。なんだかもう、勝敗は見えているような気が……。すんなりと通してあげればいいのに。

戦場は現在の滋賀県近江八幡市安土町。地図上の線は上洛ルート。

箕作城の陥落

 六角義賢・義治親子が立て籠ったのは、六角氏の主城である観音寺城(※2)。その近くには、支城の和田山城と箕作(みつくり)城(ともに現在の滋賀県東近江市)がありました。

※2 現在の滋賀県近江八幡市安土町。2006年には、日本100名城にも選ばれた城。信長との戦い以前にも、応仁の乱などでは何度も戦いの舞台となった。


 六角氏は前線にある和田山城の守備を固め、信長軍を迎え撃つつもりでした。しかし、信長軍が襲い掛かったのは、なんと観音寺城よりもさらに奥にある箕作城だったのです。 そっちかーい! 

 9月12日申の刻(午後4時頃)、信長方の佐久間信盛・木下秀吉(のちの豊臣秀吉)・丹生長秀らが率いる軍勢は、箕作城への攻撃を開始しました。特に秀吉軍は夜襲を決行。松明を数百本用意し、火攻めを行ったとされています。このようにして、箕作城は夜のうちに陥落するのです。

無血開城した観音寺城

 では六角親子のいる、観音寺城はどうだったのでしょう。これが意外とあっけなかったのです。

 箕作城が落城したことを知ると、その日の夜に六角親子は城を捨て、甲賀方面へと逃げてしまいました。というわけで、観音寺城は戦うことなく無血開城。六角さん、もう少し抵抗しても良かったんじゃないかと……。

戦後

近江国衆の降伏

 六角親子が逃げた後、六角方として戦っていた近江国衆たちの多くは、次々と信長に降伏します。永原・後藤・永田・蒲生(※2)・青地といった、南近江に大きな勢力を持っていた国人領主たちが、信長に与することになったのです。

※2 このとき降伏した六角氏の家臣・蒲生賢秀の息子が蒲生氏郷。信長の人質となり、のちに豊臣秀吉に仕えたことでも知られる武将。


上洛成功、義昭将軍となる

 邪魔な六角氏がいなくなった今、信長と義昭の上洛はほぼ確実なものとなりました。9月14日、信長は義昭に迎えの使者を派遣。22日には桑実寺(くわのみでら/現在の滋賀県近江八幡市安土町)で、信長と義昭は合流しています。

 そして26日には京都に入り、同年10月18日、義昭は悲願であった将軍宣下を受けたのでした。「義昭、感激!」と言ったとか、言わなかったとか。

まとめ

 永禄の変によって兄・義輝が亡くなり、幕府再興を目指した足利義昭。彼は諸国の大名に上洛を要請したところ、「天下布武」を掲げる信長が協力してくれることになりました。ところが上洛の途中、敵・三好三人衆と通じていた六角氏が、彼らの前に立ちふさがったのです。信長は説得を試みましたが、六角氏はこれに応じなかったため、「観音寺城の戦い」が勃発しました。

 信長軍は、6万もの大軍勢で六角氏を撃破。支城・箕作城が1日で落城すると、六角親子は主城・観音寺城を捨て、甲賀方面へと逃げて行きました。戦いが終わると、有力な近江の国衆たちが次々と信長に降伏し、また上洛も成功。義昭は将軍職に就きます。こうして信長の「天下統一」への野望がまた一つ、現実味を帯びていったのです。


【主な参考文献】
  • 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』(中公新書、2002年)
  • 谷口克広『信長の天下布武への道』(吉川弘文館、2006年)
  • 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
  • 『超ビジュアル! 人物歴史伝織田信長』(西東社、2016年)
  • コトバンク(観音寺城、足利義輝、足利義昭、蒲生賢秀など…)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
犬福チワワ さん
日本文化・日本史を得意とする鎌倉在住のWebライター。 都内の大学を卒業後、上場企業の経理部門・税理士法人に勤務するも、体調を崩して離職。 療養中にWebライティングと出会う。 趣味はお笑いを見ることと、チワワを愛(め)でること。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加