「手取川の戦い(1577年)」唯一の 織田 vs 上杉の戦い。謙信にとって信長軍は弱かった!?
- 2020/03/27
天正5年(1577年)9月、かつて織田信長と同盟関係にあった上杉謙信と織田家重臣の柴田勝家の軍勢が手取川にて交戦。
折からの大雨で増水した手取川を舞台に繰り広げられた「織田 VS 上杉」の戦いとは一体どのようなものだったのでしょうか
信長と謙信の同盟関係が破綻
天正3(1575)年8月、越前一向一揆を殲滅した織田信長は、柴田勝家に越前8郡75万石を与えて北ノ庄城に配置。勝家の補佐役には前田利家、佐々成政、不破光春の「府中3人衆」をつけて北陸方面軍を編成します。
天正4(1576)年には、柴田勝家を司令官とした北陸方面軍が加賀への侵攻を開始。侵攻の目的は加賀一向一揆衆の鎮圧と、加賀の平定でした。
しかし信長のこうした動きは、それまで同盟関係にあった越後の上杉謙信との対立を引き起こします。同年の5月、謙信は対立を続けていた石山本願寺の顕如と和睦し、将軍・足利義昭が首謀となる信長包囲網に加わりました。
加賀を足掛かりに越中への進出をもくろむ信長は、一向一揆衆と手を組んだ謙信とも戦わねばならない状況に追い込まれたのです。
七尾城から信長への救援要請
11月に能登へ侵攻した謙信は能登の守護・畠山氏の居城である七尾城を包囲します。
七尾城は越中と能登をつなぐ要所ですから、能登の覇権をとるためには七尾城の存在は欠かせません。謙信も七尾城が喉から手が出るほど欲しかったはず。
この時の七尾城の城主・畠山春王丸はまだ5歳の幼子で、実権を握っていたのは畠山氏の重臣・長続連(ちょうつぐつら)でした。この続連は信長と親密な関係を築いていたため、謙信には七尾城を織田に取られては大事、という思いもあったかもしれません。
とは言え、七尾城は日本5大山城の一つに数えられるほど強固な守りを誇る山城です。周囲の支城を攻略しても、七尾城だけは落ちる気配がありません。
攻めあぐねた謙信は、翌天正5(1577)年4月に一旦七尾城攻めから手を引いて退却しています。しかし閏7月に再び能登へと軍を向けると、七尾城を包囲。
春王丸を擁する畠山氏の家臣らは籠城して抵抗しましたが、籠城中の城内に疫病が蔓延、城主である春王丸が病死するという事態に陥りました。
焦った続連は息子の連龍を信長の元へ送り、後詰を要請します。
救援に向かう織田軍だが…
七尾城から救援要請を受けた信長は、8月8日に重臣の柴田勝家を総大将とする先発隊を能登に差し向けました。さらに信長は援軍として丹羽長秀、滝川一益、羽柴秀吉らを派遣。一行は能登へ向けて急ぎ進軍します。
しかし、七尾城に向かう道のりは平坦なものではありませんでした。道中には加賀の一向一揆衆との対立もあり、織田軍の進軍ははかばかしく進みませんでした。
さらに織田軍には、軍事作戦のさなか勝手に戦線を離脱する者も出ます。
その者とは、勝家の下に援軍として送られてきた秀吉です。秀吉は勝家との意見の対立を理由に無断で自分の軍を引き上げて、居城の長浜城に戻ってしまったのです。
もともと関係が良くなかったとされる勝家と秀吉でしたが、この身勝手な行動には信長も激怒した様子。4万の大軍を誇る織田軍でしたが、足並みがそろっているとは言い難い状況だったようです。
七尾城陥落!
一方、謙信は畠山氏の重臣であった宇佐続光と通じて七尾城内部の分裂を図り、その続光が温井景隆、三宅長盛兄弟とともに続連・綱連親子を殺害。9月15日、七尾城はついに陥落となります。(第二次七尾城の戦い)
謙信は織田の大軍を能登には入れず、加賀で迎え撃とうと考えます。2日後の17日、上杉軍は南下して能登末森城をも陥落させると、織田軍との戦いに向けてさらに南下してきたのです。
その後、上杉軍は手取川にほど近い松任城はなかなか落とせず、この時織田軍が既に松任城に近い水島あたりに布陣していたことで攻略をあきらめますが、結局は和睦に持ち込んだ上で松任城に入城し、織田勢との戦いに備えています。
手取川で大敗する織田軍
七尾城の陥落を知らずに進攻する勝家
一方、織田軍は9月18日には加賀国湊川まで進出していましたが、七尾城の陥落や上杉軍の接近を全く認識していなかったようで、23日には七尾城を目指して手取川を渡河していきます。
実はこの手取川、かつて木曽義仲が「流れが強く速いので、皆で手を取り合って渡るように」と指示したことがその名の由来と言われており、古くから急流で知られていました。
しかも、この時は大雨で水かさも増えていたため、渡河は一層困難だったと思われます。ようやく手取川を渡り切った軍勢は疲労困憊していたことでしょう。
そんな時、勝家にもたらされたのが七尾城陥落の知らせでした。さらに悪いことに、謙信率いる本隊が手取川のすぐ近くの松任城に入ったとの知らせももたらされます。
上杉軍の追撃と手取川の急流に織田軍が惨敗
手取川は松任城からわずか10㎞。もしこの場所で謙信との戦が始まった場合、織田軍は文字通り「背水の陣」でしょう。
こうなると一刻の猶予もありません。ようやく情勢を把握した勝家は、全軍に退却を命じ、湊川を渡って撤退しようとしましたが、この撤退中に上杉軍に襲撃されたのです。
実のところ、この合戦の内容に関しては史料にとぼしく、信頼性の高いものは謙信の書状だけのようです。
それによると、上杉軍は千人余りの織田兵を討ち、残る織田兵は手取川に逃れたものの、洪水続きのために川を渡れず、馬もろとも押し流される者が相次いだといいます。
手取川一帯は既に謙信の支配下でした。いかに織田軍の猛将たちが追撃する上杉軍を食い止めたとしても、すでに体力も戦意も低下した大軍を奮い立たせることは困難です。応戦しようにも、川の水で頼みの鉄砲や火薬も濡れてしまい、使い物にならなかったのでしょう。
結果的には織田方の大敗となりました。ただ、織田方からの史料には一切記録にないので、本当に上記のような合戦内容だったのかは少々疑問が残ります。
口さがない京童の落首にも
「上杉に逢うては織田も名取川(手取川)はねる謙信逃げるとぶ長(信長)」
手取川古戦場に残された石碑に刻まれた落首です。手取川での戦いぶりについて揶揄した歌で、京童たちが口ずさみ広まったとされています。
この落首には、跳ねるがごとく勢いづいた謙信の軍勢を前に、信長は飛ぶように逃げるしかなかった、という意味が込められています。実際には信長は手取川の戦いには参戦していないのですが、戦況をよく表したものとなっていますね。
謙信はこの戦いで信長が出陣していると思っていたらしく、必死に信長を探していたともいわれ、織田軍を破った後、「織田軍は案外弱い。この分なら都まで容易に進めよう」といった旨を述べたとか。
手取川の戦いにおける軍勢の数は、織田軍が4万もの大軍であったのに対して、上杉軍は2万。率いる軍勢にはおよそ2倍の違いがありました。
それでも圧倒的な勝利を収めることができた上杉軍。地の利を生かし、追手側が圧倒的に有利と言われる追撃戦に持ち込んだ謙信の戦略が功を奏したのでしょう。
おわりに
戦いの後、謙信は平定した能登国での守備を整えるなどの政務を行ない、冬の到来のために越後へ戻ります。越後、越中、能登、加賀の大部分を勢力下におき、北陸における勢力図を塗り替えました。
しかし、その翌天正6(1578)年の春には病で急死してしまいます。
信長は北陸の脅威であった謙信の死去により、再び北陸平定の軍事作戦に乗り出したのでした。
【参考文献】
- 『超図解!戦国大合戦絵巻』(ダイアプレス 2018年)
- 小和田泰経『戦国合戦史辞典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社、2010年)
- 岡田正人『織田信長総合事典』(雄山閣出版、1999年)
- 谷口克広『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』(中公新書、1998年)
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