「三木合戦(1578-80年)」堅城の三木城、20か月に及ぶ兵糧攻め(三木の干殺し)の末に開城させる!
- 2020/05/16
播磨平定を目前にして織田方から毛利方へ寝返った三木城主の別所長治。これを攻める羽柴秀吉は、のちに「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めを行いました。
秀吉の徹底した攻略作戦に、三木城内に立てこもる兵たちはなすすべなく飢えていくばかり。兵糧攻めによって別所長治を切腹による開城へと持ち込んだ秀吉ですが、単に秀吉は城を取り囲んで傍観していただけではありませんでした。
別所の軍勢を「干殺し」に至らしめた秀吉の戦術とはどのようなものだったのでしょうか。
合戦の背景
播磨平定に向け、秀吉が毛利軍を牽制
織田信長は毛利輝元の勢力が次第に伸びつつある播磨を平定するため、天正5(1577)年10月、羽柴秀吉を播磨に派遣します。
秀吉は播磨に到着すると、小寺孝高(黒田官兵衛)の居城である姫路城に入り、ここを拠点にしました。
事実上、播磨の国衆の多くはすでに信長に従う意志を見せていたものの、秀吉はさらに播磨中の国衆から人質を徴収するという念の入れよう。播磨入国からわずか半月程度という短期間でほぼ平定します。
続いて播磨の北、但馬へも攻め入って岩洲城や竹田城を陥落させると、再び播磨に軍を進め、今度は上月城の攻略に取り掛かるのです。
上月城は福原城とともに毛利方に従う宇喜多氏の属城であり、毛利の軍勢の最前線となる重要な拠点。このとき秀吉は、上月城の兵が城主の首を持って降参してきただけでは納得しませんでした。
城内にいた女性や子ども200人余を播磨、備前、美作の境目まで連れて行くと、ことごとく串刺し、磔にして殺害。あえてこのような厳しい処置をとることで、反信長勢力への見せしめにしたのです。
占領した上月城には客将の尼子勝久と山中鹿介を置き、毛利輝元包囲網の最前線としました。
播磨平定に成功したかに見えたが覆される
順調に進んだかに見えた播磨平定ですが、天正6(1578)年2月、三木城主である別所長治が信長から離反して毛利氏に通じるという事件が勃発します。
当時、城主の長治はまだ24歳。実権は叔父の吉親が握っており、長治に謀反を進めたのもこの吉親であるとされています。長治は秀吉の播磨平定に不満を募らせていたことに加え、毛利氏の庇護下に合った前将軍・足利義昭からの加勢の要請もあり、信長に背いたとされています。
別所氏の動きに呼応して、周辺の勢力も信長に反旗を翻しました。
播磨を平定後、毛利氏と対峙しようとしていた秀吉は、これによって西と東の両面作戦を強いられることになりました。
三木城包囲を開始
同年の3月29日、秀吉は三木城を包囲します。
三木城は川と高地に囲まれた要害で、淡河城、神吉城、志方城、高砂城、野口城などの周囲の支城からのバックアップを受けており、城を守る城兵は4~5千といったところ。
一旦、上月城救援に向かう
4月3日、秀吉は三木城の攻撃に先立って、支城である野口城を落としました。ところが4月中旬には、上月城が毛利の大軍に包囲されたため、救援に向かいます。
上月城と川を隔てた高倉山へ陣を張って毛利軍と対峙しましたが、東にも敵を抱えたままで戦を仕掛けることもできず、2か月もの間、身動きが取れずにいました。
秀吉は信長に戦況を報告すると、「策もなく上月城を取り巻いていても仕方がない。軍を収めて他の者と神吉城、志方城を落とし、その後三木城を攻めよ」と援軍を派遣して神吉城、志方城を落とし、すぐに援軍を引き上げていきました。
秀吉も高倉山の陣を撤退せざるをえなくなったため、織田軍に見捨てられる形となった上月城の尼子氏はついに滅亡。この後、秀吉は単独で三木城を攻めることになりました。
播州一の堅城・三木城を孤立状態へ
当時、播州一の堅城と言われていた三木城は、険しい崖や石垣に囲まれた山城です。
城に立てこもるのは、城兵のほか、東播磨の住人や一向宗の門徒などの非戦闘員を含めると総勢7500余りになります。これを攻める秀吉の軍勢は1万程度。城攻めを行うにしては、兵力差が少ない状態であるといえます。
この後、毛利軍との戦いを控えていた秀吉は、自軍からの犠牲者を一兵も出したくないと考えていたはずです。そこで秀吉が取った作戦は、兵糧攻めでした。
兵糧攻めとは、文字通り敵の城内の食料や水が尽きるまで包囲し、降伏してくるのを待つという戦術です。兵糧攻めは時間がかかりますが、攻める方の犠牲は少なく済むのが特徴です。
秀吉は兵糧攻めに先立って周囲の支城を攻略し、三木城を孤立させることにしました。こうなれば、毛利軍が東播磨まで攻めてこない限り、後巻きの軍勢に攻められる心配はありません。
6月、秀吉は城下を焼き払うと、三木城の周囲をぐるりと包囲。自身は三木城と向かい合う平井山に本陣を置きました。
打って出た別所軍、秀吉の戦術の前に敗走
秀吉軍は平井山に数多くののぼりを打ち立て、鬨の声を上げて陣太鼓を鳴らしました。三木城内では「すわ、合戦か」と身構えますが、秀吉は一向に攻めてくる様子はありません。別所軍を挑発し、心理的に消耗させる作戦です。
10月22日、たまりかねた別所軍は、突如城から打って出ました。城主長治の弟・治定と伯父の吉親を大将として、2500の兵が平井山に向けて出陣したのです。
しかし、秀吉はこれを事前に察知。別所軍が平井山のふもとまで近づいてもじっと静観していました。軍勢が本陣まであと1㎞ほどにまで迫った時、ようやく秀吉は反撃に転じます。
まずは秀吉の弟・秀長率いる軍勢が一気に山を駆け下りると、続く秀吉の主力体が敵を蹴散らしました。敵の大将・治定は討ち死にし、生き残った兵も城に逃げ帰っていきました。
山を駆け上がる敵勢の馬を存分に疲れさせたところで襲い掛かるという、秀吉の戦術による勝利でした。
三木の干し殺し
翌天正7(1579)年、三木城への兵糧攻めはまだ続きます。城内の食糧の蓄えは底をつき始め、籠城した人たちは草の根などを食べて飢えをしのぐという状況でした。
秀吉は30ほどあった三木城の支城を1つ1つ奪い取り、三木城への食料の補給路を着実に断っていったため、食料は減っていく一方だったのです。
2月6日、毛利軍と連絡をとるために籠城中の別所軍3200が城外に打って出ました。秀吉はこれを迎え撃ちにし、別所軍は丹生山へと逃れます。別所軍は頂上の明要寺に立てこもりましたが、間もなく秀吉によって攻め落とされてしまいました。
4月になると、信長は信忠を主将とした軍を播磨へ派遣。信忠軍は三木城の周囲や敵城・淡河の砦を築き、小寺政識の御着城を攻撃するなどして摂津に戻りました。三木城はいよいよ追い込まれ、毛利氏の応援なしには手も足も出ない状況に陥ってしまいます。
毛利・本願寺からの援軍が到着、反撃なるか
9月10日、三木城内の誰もが心待ちにしていた毛利・本願寺の援軍が三木表に到着しました。生石中務大輔を主将とする毛利・本願寺の軍が、三木城に兵糧を届けるため、平田にある谷衛好の砦を襲撃したのです。
毛利・本願寺軍は衛好を討ち取ると、そのまま砦を占領しようとしました。これに力を得た三木城からも吉親を主将とする軍が応援に向かいます。
平井山にいた秀吉は、ここが正念場と全軍を指揮して砦の救援のために出陣。軍を二つに分け、一方を平田砦の救援に向かわせ、もう一方を自ら指揮して別所軍と対決しました。
別所の兵は食糧不足で体力が衰え、士気もなえていたのでしょう、あっという間に打ち破られて兵たちは城に逃げ帰りました。一方、砦を占領しかけていた毛利・本願寺軍も秀吉軍の反撃にあっけなく崩れ、7,800人もの犠牲を出し、引き上げていきました。
この後、城からの出撃はなく、別所軍は兵糧攻めにじっと耐えるしかありませんでした。
食糧の尽きた三木城内の状況は凄惨を極めていました。兵たちは糠や馬草を食べ、さらには牛や馬、犬なども食べました。それでも餓死する者が続出し、とうとう死者の肉を食べるものもいたと言われています。
この戦はのちに「三木の干し殺し」と言われています。
ついに落城!
天正8(1580)年に入っても、秀吉による兵糧攻めは続いていました。城内の兵士たちはすっかり気力を失い、戦意などとうに手放した状態でした。
秀吉は正月6日、三木城内の支城で最も高地にある宮ノ上砦を占領し、そこから総攻撃を仕掛けます。
応戦した三木城兵は、
「衰えはてたるありさまにして、鎧は重くて身体も動き難し」
「勇むは心ばかりにて、足手働かず、思うように戦えず、当敵に打ち合わする者一人もなく、ここかしこの塀、櫓の下にて切り伏せらるる」
といった痛ましさ。本丸一つに閉じ込められた長治は、もはやこれまでとついに降伏を決意しました。
三木城城主・長治、一族とともに切腹
城主である長治は、降伏の際に秀吉にある条件をもちかけていました。
それは、長治をはじめとした別所一族の切腹と引き換えに、城内の者たちの命を助けてほしいというものでした。
秀吉はこれを承知すると、城内へ酒や食料を送り届けさせます。
1月16日、長治は城内で別れの宴を催しました。城内の兵たちは泣いていたでしょうか。別れゆく悲しみ、安堵の気持ち、とても言葉に言い表せないような複雑な心境であったかと思われます。
そして翌17日、長治をはじめとする別所一族は、自刃して果てました。「天正記」によると、長治らの最期の様子は実に潔く、また胸に迫るものでした。
「長治、友之兄弟、手に手を取り、広縁に畳一城を敷かせ、左右に直り、おのおの呼び出し、気色をたがえずににっこと笑い」
「さりながら、吾ら両三人生害し、諸士相扶くるの条、最後の喜びこれに過ぎずとて、長治腹を切らる。」
長治はその人生の締めくくりに、このような句を詠みました。
「今はただ今はただ恨みもあらじ諸人の命に代はる我が身と思へば」
おわりに
20か月に及ぶ兵糧攻めの末、三木城を手に入れた秀吉はこの後、別所氏の与党であった宇野民部の長水城、同じく小寺識隆の英賀城を落とし、三木合戦に完全に終止符を打ちました。
石山本願寺からそれほど遠くない三木城の落城は、顕如をはじめ本願寺に籠城していた兵たちの戦意を失わせるに十分でした。毛利軍の相次ぐ敗退や、荒木村重の有岡城の落城などによって、信長を脅かす勢力が次々に消滅していきました。顕如はこのまま籠城して抵抗を続けても自分たちには勝ち目がないということを悟ったのです。
信長軍が三木城を手に入れたことで、秀吉の中国平定作戦は大きな前進を遂げることになったのでした。
【参考文献】
- 戦国合戦史辞典 小和田泰経 新紀元社 2010年
- 戦国クロニクル 吉田龍司 宝島社 2006年
- [完全保存版] 戦国ものしり百科 中江克己 PHP研究所 2005年
- 織田信長合戦全録 桶狭間から本能寺まで 谷口克広 中公新書 2002年
- ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
- ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄