戦国時代のビジネスマナーとは? 一次史料から読み解く

「東海道之内京 大内蹴鞠之遊覧」『東海道名所風景』(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
「東海道之内京 大内蹴鞠之遊覧」『東海道名所風景』(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 戦国時代は下剋上の世の中でしたが、完全な無法地帯ではありません。織田信長が若かりし頃「礼儀知らず」と馬鹿にされていたように、戦国大名の社会にもビジネスマナーのようなものは確かに存在しました。

 今回は、戦国時代のマナー本の一つである『大内問答(おおうちもんどう)』をご紹介します。この史料を通して、戦国のビジネスマナーの内容と、普及にかかわる背景をのぞいてみましょう。

『大内問答』が誕生した経緯

 『大内問答』に限らず、戦国大名が学んだマナーは、室町時代の京都で将軍や管領、公家らが学んでいたマナーがもとになっています。

 では、それがどのように戦国大名たちの間に広まったのでしょうか? 一つのヒントが『大内問答』が生まれた経緯に隠されています。

 『大内問答』の「大内」は、中国地方の戦国大名・大内義興(おおうちよしおき)のことです。彼が生まれたのは応仁・文明の乱(1467~77)の終結直後であり、京都では管領の細川政元が将軍足利義稙を幽閉するなど、物騒な事件が起こっていました。

 京都を追い出された足利義稙が頼ったのが大内義興です。細川政元の暗殺を好機とみた義稙は、大内義興の軍事力を背景に永正5年(1508)に上洛、再度将軍職に就いています。

大内義興の像(山口県立山口博物館所蔵、出典:wikipedia)
大内義興の像(山口県立山口博物館所蔵、出典:wikipedia)

 さて、『大内問答』の「問答」というのは、書籍の内容が一問一答形式であることを指します。

 質問をしているのが大内義興、そして答えているのが伊勢貞陸(いせさだみち)という室町幕府官僚です。質問内容は有職故実(ゆうそくこじつ)。すなわち当時のマナーに関する質問です。

 大内義興がマナーを学ぶ必要が出て来たのは、上洛して京都に長居する予定だから。足利義稙の補佐として滞在する以上、三管四職家といった格式高い武家や、公家、寺社などとの付き合いも発生します。それに際し、失礼がないようにとマナーを問い合わせたのです。

 問い合わせ先に選ばれた伊勢氏は、実は格式が高い家柄でした。伊勢氏は代々、将軍子息の世話を担っており、3代将軍・足利義満をはじめ、小さい頃に伊勢氏の屋敷で育った将軍も少なくありません。幕府官僚としても政所職を世襲するなどの要職にあった伊勢氏は、将軍の傍にいる時間も長かったことでしょう。やがて幕府の礼儀作法に詳しい一族として知られるようになりました。


大内義興が尋ねたマナーの内容とは?

 大内義興が伊勢貞陸に尋ねたマナーは、大きく2つに分かれます。1つは「公家との交際」に関する内容、もう1つは「能楽」に関する内容です。

公家との交際

 室町幕府は京都に本拠地があり、将軍は代々公家の一人として、また天皇の私的な相談役として役割を全うしてきました。将軍の周囲に仕える人や、京都に居住する大名たちもまた、日常的に公家と接してきました。

 一方で、大内氏のように京都には住まず、京都から遠方に本拠地がある大名にとって、公家との交際は未知数。そこで大内義興は、公家との接し方について様々なアドバイスを求めました。

 『大内問答』の冒頭で義興は「公家と面会する事になったらどうしたらいいか?」と尋ねています。それを受けて伊勢貞陸は、

  • 公家ではなく「堂上」と呼ぶのが正しい
  • 公家の中にも上下がある(摂関家・清華家など)
  • 摂関家および現職の摂政・関白と会う時の対応
  • 清華家および現職の大納言・中納言・参議と会う時の対応
  • それ以下の公家と会う時の対応

を述べています。

 「対応」というのは義興が訪問を受けた際の見送りの作法で、相手の身分が高いほど遠くまで見送りに出ます。それが「自宅の門の外まで」とか「玄関まで」など詳細な指定がありました。

 この他にも、招待する時に出迎える場所や、酒を出すときの酌の作法、使用すべき食器の種類、手土産の種類などが書かれています。

 作法は書かれているものの、伊勢貞陸によると、大内義興レベルの大名が摂関家や現職の摂政・関白と会うことはまずないだろう、との事です。

能楽

 大内義興が次に詳しく聞いていたのは、能楽に関する事柄でした。

能の舞台のイメージ(出典:wikipedia)
能の舞台のイメージ(出典:wikipedia)

 当時、室町幕府の要人の間では、能楽を見ながらの宴会が多かったようです。自宅に能舞台をしつらえて役者を呼び、将軍たちを招待する事も少なくありません。

 実際に室町幕府第6代将軍・足利義教は、赤松満祐宅の能楽鑑賞に招待され、そこで暗殺されています。これは『大内問答』より半世紀ほど前の出来事ですが、その頃から将軍に怪しまれずに自宅に招く口実になるほど、能楽鑑賞やそれに伴う宴会は「社交の場」として広く行われていたのです。

 しかし、大内義興がいた地方にはそのような文化はありません。そこで義興は、能舞台のセッティングの仕方や、各部分に屋根を作るか・すだれは巻くか等の質問、また家臣の誰にどんな役割を振るべきか・誰まで見物人として入れていいのか、能役者への引き出物はどうするか、等の実際の運営を想定した質問を多数投げかけ、詳細な回答を得ています。

他にもたくさんあったマナー本

 今回紹介した『大内問答』は大名と公家との関りを想定したものですが、将軍に仕えることを想定した書、マナー一般を書いたものなど、戦国時代のマナー本は他にも多くありました。

 享禄元年(1528)に成立した伊勢貞頼の『宗五大草紙』のほか、室町将軍のお供をするに際しての故実や心構えを書いた本や、大永3年(1523)に伊勢貞忠が足利義晴・義輝父子をもてなした『伊勢守貞忠亭御成記』のように、実際のもてなしの様子を事細かに記載した本などもあります。

 マナー本が整備されるまでは、このような接待記録がマナー本のかわりでした。これらは主に叢書『群書類従』の武家部に収録されています。

マナー講師のその後

 大内義興はその後、京都政界で重きをなしました。彼の京都滞在は永正15年(1518)までの10年の長きに及びました。その間は管領代(管領の代理)となり、公家としても従二位の高位に昇りました。京都滞在中に例の『大内問答』は大いに役立ったようです。

 彼に故実を教えた伊勢氏のほうが、むしろ波乱万丈な運命をたどりました。特に将軍と親しい関係だったため、伊勢氏は室町幕府将軍と運命をともにします。永禄5年(1562)、貞陸の孫・貞孝が松永久秀に討たれ、伊勢氏は政治的な力を失いました。

 一方で、その時期には既に「マナー講師といえば伊勢氏」という名声も確立していました。『大内問答』の評判は既に高く、大友義鑑から「自分も欲しい」と言われて再度編集しています。また松永久秀も伊勢貞孝にマナーを尋ねており、返答が『伊勢貞孝松永弾正江答書』として残っています。

 伊勢氏を召し抱える者もおり、織田信長は伊勢貞孝の孫・貞為を、明智光秀はその弟である伊勢貞興を家臣にしています。また摂関家も、近衛前久は伊勢貞助・貞知父子を家臣にしており、彼らは近衛家の庇護下でマナー本を多数執筆しました。

 最終的に、徳川家光の頃、伊勢氏は江戸幕府に仕えます。先に幕臣となっていた小笠原氏とともに、伊勢氏は幕府の儀礼整備に大いに貢献しました。

おわりに

 『大内問答』は、地方と都市部との文化の違いを示してくれると同時に、幕府の要職を世襲した伊勢氏や幕府そのものの崩壊も示しています。

 歴史を学んでいると、当時の政治の中心である京都やその周辺の史料、権力者やその周辺の史料に触れる機会が多いので、それがまるで天下の全て(少なくとも大名クラスまで)に当てはまると思いがちです。大名でありながら京都のマナーを尋ねる大内義興の戸惑いを知ることは、現代の私たちの歴史観を再考することにも役立つかもしれません。


【主な参考文献】
  • 二木謙一『武家儀礼格式の研究』(吉川弘文館、2003年)
  • 二木謙一『中世武家儀礼の研究』(吉川弘文館、1985年)
  • 『群書類従 第二十二輯 武家部』(八木書店、1959年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武関係にくわしい。 公家日記や故実書、絵巻物を見てきたことをいかし、『戦国ヒストリー』では主に室町・戦国期の暮らしや文化に関する項目を担当。 好きな人物は近衛前久。日本美術刀剣保存協会会員。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。