「足利義稙」島公方・流れ公方と呼ばれた室町幕府第10代将軍

室町幕府の第10代将軍・足利義稙は、将軍の中ではあまり有名ではないかもしれません。応仁の乱の間に将軍であった第8代・義政以降、戦後の混乱の影響もあって京都にいない将軍が多く、また細川政元によるクーデター(明応の政変)によって将軍家が真っ二つに割れてしまったのも原因のひとつでしょう。義稙はなぜ「島公方」「流れ公方」と呼ばれたのか。その生涯を見ていきましょう。

応仁の乱の直前に生まれる

足利義稙(よしたね/※名は義材→義尹→義稙と改名されますが、便宜上「義稙」で統一)は、文正元(1466)年7月30日に、足利義視(よしみ)の嫡男として、京都の種村氏の邸で誕生しました。

将軍になる予定にない兄弟は仏門に入るのが慣例であり、父・義視は出家の身でした。しかし兄の将軍・義政になかなか後継者となる男子ができなかったため、義視は還俗して義政の後継者として過ごすことになります。正室には義政室の日野富子の妹・良子を迎えました。


そんな中、義政に待望の男子が誕生します。のちの第9代将軍・義尚です。

ただ、この時すぐに義政の後継を義視から義尚に、という動きがあったわけではありません。義尚が無事に大人になるという保証はありませんし、年齢を考えても中継ぎとして義視が立つのが妥当と考えられていたようです。

が、畠山氏、斯波氏の家督争いから始まった内乱(応仁の乱)に将軍家が巻き込まれる形となり、義視は義尚と対立する立場になります。乱が終結した後、義視は義稙を連れて美濃守護の土岐成頼を頼りました。

応仁の乱の対立構図
応仁の乱の対立構図

義稙の幼少期は戦乱の中にあり、その後の11歳から23歳(数えでは12から24)までの少年・青年時代は美濃の地にありました。

10代将軍へ

長享元(1487)年、義稙に転機が訪れます。当時の将軍で、義稙にとっては従兄弟にあたる義尚は応仁の乱後の幕府・将軍の権威回復のため六角氏討伐にかかりきりで、後継者となる男子はいませんでした。

そのため、義稙は義尚の猶子として元服して義材(よしき)と名乗り、従五位下、左馬頭に任ぜられて義尚の後継者となりました。

日野富子の推薦

後継者として義稙が選ばれたのは、富子が推したためであるといわれています。義尚に男子がいない中で次期将軍として候補に挙げられたのは義稙と義澄(義政の兄・堀越公方足利政知の子)でした。

義澄の母は武者小路隆光の娘です。富子としては、武者小路家の血を引く者を将軍にしたくない、日野家の血を引く者を将軍にしたい、という思いがあったものと思われます。

ただ、富子はのちにもうひとりの候補であった義澄に義尚と自身が暮らした小川御所を譲って義視を激怒させており、その後の義稙との関係は決して良好とはいえなかったようです。

一方、義澄を強く推していたのが細川政元です。結局政元の意見が通ることなく義稙が将軍に就任することになりますが、この不満は収まることなく増幅し、のちの政変につながります。

足利義澄の銅像
将軍職を巡り、義稙とは生涯対立関係にあった11代将軍足利義澄。義稙の従兄弟にあたる。

征夷大将軍に就任

延徳元(1489)年3月26日に義尚が亡くなるとすぐに将軍就任かと思いきや、しばらくは隠居していた義尚の父・義政が政務を担うことになり、義稙はお預けを食らいます。

2(1490)年1月に義政が亡くなると、7月5日に征夷大将軍に任ぜられました。その後は父の義視が大御所として実権を握っていましたが、翌3(1491)年に亡くなります。

こうして義稙は名実ともに将軍となりました。

クーデターで失脚

義稙は義尚の遺志を継ぎ、彼が達成できなかった六角高頼を討伐しました。このころから、もともと義稙将軍擁立には反対であった政元、そして義稙を推していたはずの富子と対立し始めます。

政元は義澄を推していましたが、政務を任せてもらうという約束で義稙が将軍に就くことをしぶしぶ認めていました。しかし義稙は六角氏討伐に反対する政元の意見を聞くことなく行動します。

一方で側近の葉室光忠を重用し、これは政元だけでなく諸大名の不満を買ったようです。さらに、応仁の乱以降も続いていた畠山氏の内乱にも首を突っ込み、畠山政長の求めにより、政長と敵対する畠山基家(義豊)の討伐を決定したのです。

政長と対立していた政元はこれも反対しましたが、やはりこれも聞き入れることなく基家討伐に踏み切ります。

明応の政変

政元は義稙の留守をねらい、明応2(1493)年4月22日にクーデターを起こします。いわゆる明応の政変です。富子や、伊勢貞宗らも政元に協力したとされています。

政元が京都の義稙関係者の邸宅を襲撃したことは河内の義稙にも知らされましたが、従軍していた将軍の直臣や大名たちの多くは動揺して帰京してしまいました。しかも幕府軍から離脱した者たちは、政元が義稙・政長討伐の動きを見せるとこちら側に転じたというのです。

政長は孤立して自害し、追い詰められた義稙も降伏。このとき義稙は、将軍家伝来の小袖や銘を義澄に譲渡しています。これは将軍家の家督が義稙から義澄に渡った証しとなります。

義稙逃亡

5月2日、義稙は京都の龍安寺に幽閉されますが、6日に出された食事に毒が盛られて死にかけます。『大乗院寺社雑事記』によれば、毒を盛ったのは富子であったとか。

龍安寺から上原元秀の屋敷に移されると、義稙は6月29日に側近の手を借りて脱走しました。


あちこち流浪する「流れ公方」

幽閉先から逃亡した義稙は、再起するためにあちこちの大名を頼り流浪することになりました。これが「流れ公方」と呼ばれる所以です。

畠山政長の領国・越中国へ

まず、義稙は味方であった畠山政長の領国・越中国に入り、放生津の神保長誠を頼ります。義稙は越中の地で文書を発給しており、「越中公方」と呼ばれました。ここから各地の諸大名に対して協力を要請すると、北陸の複数の大名たちが応じました。このころ政元は義稙に追っ手をやりますが、敗れています。

義稙はここで打倒政元をめざしましたが、実際のところ軍事協力をする大名はおらず、時間だけが過ぎていきました。

このころすでに、のちに頼ることになる周防の大内義興の軍事協力で上洛をめざそうという意見が出ていましたが、義興は家督を継いで間もなく内乱や九州の大友氏との戦いが続き、とても軍事協力できる状況ではありませんでした。

明応6(1497)年ごろには政元との和平交渉が進められますが、これも決裂してしまいます。

越前国の朝倉貞景を頼る

すでに政変から5年もの月日が過ぎた明応7(1498)年9月、義稙は軍事協力が得られない越中に見切りをつけ、越前の朝倉貞景を頼って一乗谷に入りました。この直前の8月ごろには、義材から義尹と改名しています。

8(1499)年、かつての味方であった畠山政長の子・尚順が畠山基家を討ちました。義稙は尚順と協力して政元と義澄を挟み撃ちにしようとしますが、近江坂本まで出たところで六角高頼の攻撃にあい、敗れて比叡山に逃れました。

ちなみに、この戦いに貞景は加わっていません。もともと積極的に軍事協力するつもりがなかったようですし、この年の飢饉で兵糧が十分でなかったことも理由のひとつと考えられています。

周防国の大内義興を頼る

次に頼ったのは、周防の大内義興でした。周防(山口県)は京の都の地形に似ており、京を模して街づくりされた地で、「西の京」と呼ばれていました。

応仁の乱の後、公家や文化人は都から各地に落ち延び、全国のあちこちに「小京都」ができましたが、京都を模した周防は都の人々にとって過ごしやすい地であったことでしょう。義稙はこの周防で8年過ごします。

義興が義稙を迎えたことで、大内氏と対立していた九州の大友氏は義澄派として対立し続けますが、義稙の調停により和睦し、停戦状態になります。

永正の錯乱と人物相関
大内義興は義稙の将軍復帰をサポートして上洛、幕政の要職につくも、やがて帰国。

まさかの将軍返り咲き

永正4(1507)年6月、義稙に上洛のチャンスがめぐってきました。義稙を失脚に追い込んだ張本人である細川政元が暗殺されたのです。

政元暗殺後の混乱

実子がいなく、3人の養子(澄之・澄元・高国)がいた政元ですが、これが災いし、この事件(永正の錯乱)は養子同士(それを擁立する内衆同士)が家督争いを起こして、それに巻き込まれる形でした。

永正の錯乱と人物相関
※参考:永正の錯乱(政元暗殺)の人物相関。()数字は出来事の年。

その後まもなく、暗殺を果たした澄之も高国によって殺され、澄元が家督を継ぐことになりますが、今度は澄元と高国が対立。以後、澄元派と高国派の戦い(両細川の乱)が始まります。

この混乱に乗じて義稙は義興とともに上洛をめざします。

15年ぶりの京都で将軍に復帰

永正5(1508)年6月8日、義稙はようやく京に戻りました。実に15年ぶりの都です。義稙入京前に義澄と澄元は近江に逃れています。7月1日、義稙は征夷大将軍に再任されました。ある意味、二度将軍になったといえるかもしれません。

義澄方の澄元と敵対する高国は義稙につき、将軍家・細川京兆家の家督相続争いが絡み合いながら、この後も義稙と義澄の対立は続きます。

6(1509)年10月、義稙は就寝中に義澄が放った刺客に襲われますが、自ら応戦して難を逃れました。この件を機に義澄討伐を決意すると、一進一退を繰り返しながら永正8(1511)年の船岡山合戦で勝利。長く対立した義澄は合戦の直前に急死していました。



島公方の最期

これで義稙の将軍としての立場は安泰かと思いきや、義稙の再任に協力した義興や高国が政治に関与し、義稙の思い通りにはなりませんでした。

この状況に不満を抱いた義稙は、永正10(1513)年3月に出奔して近江甲賀に入って将軍としての政務を放棄。義興や高国が忠誠を誓う旨の起請文を提出すると帰京します。

義尹から義稙に改名したのもこの年でした。

大内義興の帰国

永正15(1518)年、軍事の要であった義興が周防に帰国すると、義澄派であった澄元が翌年に阿波で挙兵しました。

義興という大きな支えを失った高国は永正17(1520)年に敗北し、近江に逃れました。義稙は高国不利と見るや、高国を見限って澄元に近づきます。

しかし、これは早計でした。澄元の家督を認めて手を組んだものの、六角氏の協力を得た高国がすぐさま反撃に出て澄元は敗北したのです。澄元家臣の三好之長は処刑され、澄元も阿波に逃げ帰って病死しました。


義稙出奔

結局、義稙は再び高国と手を携えてやっていくことになりますが、一度裏切ったこともあって関係がいいとはいえませんでした。

義稙は高国が実権を握る現状に耐えきれずに再び出奔すると、堺から淡路へ渡り「淡路御所」と呼ばれました。高国は義稙の出奔後、義澄の子である義晴を将軍に据えています。

これに義稙は再起をめざして兵を挙げようとしたもののかなわず、大永3(1523)年4月9日、阿波細川家を頼って訪れた阿波の地で病死。流浪期間が長い生涯でした。

実子のいなかった義稙は義澄の子である義晴、義維を猶子に迎えていました。高国はその義晴を12代将軍に就任させましたが、これは系譜でみると、高国派と澄元派はそれまで擁立していた将軍を入れ替えた形になります。

以降、高国が擁立した義澄系(12代義晴、13代義輝、15代義昭)と義稙系(堺公方 義維、14代義栄)が対立を続けながら将軍職を継承していきます。しかし血筋としては義視・義稙の系譜は途絶え、義澄の子孫が続いていくことになるのです。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 日本史史料研究会監修・平野明夫偏『室町幕府将軍・管領列伝』(星海社、2018年)
  • 丸山裕之『図説 室町幕府』(戎光祥出版、2018年)
  • 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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