「平貞盛」将門に追い回された恐怖の鬼ごっこ…連戦連敗から一発逆転、怒りの一撃

平安時代中期の平将門の乱に関わる重要人物に平貞盛(たいら の さだもり)がいます。将門の従兄弟ながら将門に敵対しました。平清盛ら平家一門の祖先でもあり、有力武家・桓武平氏の繁栄の基礎を築いた人物でもあります。

平貞盛はどのような経緯で従兄弟・将門と争うことになったのでしょうか。

当初は将門への復讐戦を躊躇

平貞盛は生没年不詳ですが、平将門と同時代の人物ですので延喜年間(901~923)の前半かそれ以前の出生とみられます。

父は平国香。母は源護の娘。藤原秀郷の姉妹(藤原村雄の娘)を母とする系図もありますが、『将門記』にみられる乱の経緯は常陸に勢力を持っていた源護(みなもと の まもる)とその婿である平国香兄弟が将門と対立する構図。秀郷の姉妹が継母だった可能性は残りますが、生母は源護の娘とみるべきです。将門の父・平良持は平国香の弟。貞盛と将門は父どうしが兄弟の従兄弟です。

桓武平氏の初期メンバー

平貞盛は桓武天皇をルーツにした桓武平氏。系図では「桓武天皇―葛原親王―高見王―高望王(平高望)―平国香―貞盛……」となります。

高望王が臣籍降下して「平」の姓を授かったのが平氏の始まり。その平高望が上総介として関東に来ました。子に常陸大掾・平国香、下総介・平良兼、平良持、平良文、平良正がいて、国香、良兼、良正が源護の婿です。

源護は系図に見えず、出自は不明ですが、名門武家・清和源氏ではなく、ほかの源氏一門です。珍しい一字名なので嵯峨源氏の系統かもしれません。源護は常陸大掾を務めた経歴があります。

平氏の略系図
平氏の略系図

父・国香の死で帰郷

承平5年(935)2月、平将門の乱が勃発し、源護の3人の子と平国香が敗死。平貞盛は左馬允(さまのじょう)に就いていましたが、朝廷に申し出て帰郷しました。貞盛は長く京で生活し、官職を得ていたのです。

左馬允は左馬寮の3等官。長官・頭(かみ)、次官・助(すけ)に次ぐ幹部官僚です。官位は正従七位相当の職。七位は貴族といえば貴族ですが、三位以上を貴族、五位以上を貴族並みとする厳格な意味での貴族にはあと一歩。さらに出世を目指さなければならない立場です。とはいえ、一般的には下級貴族といえる地位です。

将門は最高権力者・藤原忠平に仕えていた形跡がありますが、貞盛も若いときから貴族の縁故を頼って京で生活を送り、年数を経て官職に就いたと考えられます。従兄弟・将門とともに藤原忠平に仕えたとも考えられます。

帰郷した貞盛は父の敵・将門とすぐに対決したのかといえば、そうではなく、父の一周忌を終えると、京へ戻ろうとします。京で出世したいが、残した家族のために将門とは争わない道を選び、なんと、将門との和解を画策します。

叔父たちの勧誘で泥沼の戦いへ

平貞盛は従兄弟・平将門と戦わないつもりでしたが、叔父たちに誘われ、将門との果てしない戦いに突入してしまいます。

まず、叔父・平良正が将門と対戦。良正は3人の子を失った舅・源護との関係を重んじたのです。承平5年(935)10月、常陸・川曲村(茨城県東部)の合戦で大敗。しかし、良正は諦めず、兄・平良兼を誘います。腰を上げた良兼はまず貞盛に迫ります。

聞くところによると、わが身内に将門と親密な者がいるという。それは兵(つわもの)としてあるまじきことだ。親族を殺され、どうしてその敵に媚びてよいはずがあろうか

貞盛は叔父たちに抗弁できず、承平6年(936)7月、下野国境付近で将門と合戦しました。『将門記』は、将門の戦力は連戦の疲れがみえる100余騎、平良兼側は兵数千人で武器も整い、人馬とも肥えていたと、圧倒的な兵力差を強調しています。ところが、接近戦を仕掛けた将門が圧勝したのです。

良兼らは下野国府に逃げ込み、将門が包囲しますが、なぜか、とどめを刺さず、包囲を解いて敵を逃がしました。将門は敵に非があることを周囲に触れ回り、国府にも記録させて引き上げました。

将門との合戦から逃避、京へ

この後、平将門と平良兼の合戦が続きますが、平貞盛は再び上京を決意します。やはり京で出世しなければ、どうにもならないと考えたのです。この決意は、なぜか将門の知るところとなり、貞盛が朝廷に讒言(ざんげん)するのではないかと警戒します。

承平8年(938)2月、貞盛が京へ向かうと、将門はしつこく追撃。貞盛は信濃・国分寺で手痛く敗れますが、何とか逃げ切り、京へたどり着きました。

天慶2年(939)6月、貞盛は将門召喚状を持って帰郷。京で貞盛の主張が通り、「将門の行動を調査する必要あり」と決まったようですが、貞盛としてはその役目を自身が請け負うことになったのは嬉しくなかったでしょう。しかも、故郷に帰ってみれば、叔父の平良兼が死去。もはや将門の標的は貞盛に絞られ、関東で貞盛が隠れる場所はありません。

同年10月、知り合いの陸奥守・平維扶が任国へ向かう途中、下野国府によると、貞盛は陸奥への同行を求め、平維扶は承諾します。しかし、将門が捜索隊を出したため、貞盛は陸奥行きを諦め、また姿を隠しました。貞盛はその後、常陸介・藤原維幾の子・藤原為憲のもとに身を寄せたようなのです。

11月、将門が常陸国府で悶着を起こしたとき、貞盛は藤原為憲とともに大軍で将門を攻撃しました。しかし、これも撃退され、貞盛、藤原為憲はからくも逃れ、ともに行方知れず。常陸介・藤原維幾が将門の捕虜になり、わが子・為憲への指導が悪く、将門と戦ったことをわびる始末です。

将門は常陸国府襲撃の後、下野、上野の国府も攻め落とし、「新皇」と称して関東8カ国の国司を勝手に任命し、完全に朝廷と敵対しますが、その間も貞盛の行方をしつこく捜索しました。

そして、貞盛の妻たちが将門の兵に捕まり、将門は女性に乱暴しないよう命令を出しますが、間に合わず、ひどい目に遭います。しかも、その後、将門は貞盛の妻を尋問。妻は貞盛の行方について知らないと言い張ります。

和歌を交わしてやり取りしますが、緊迫した状況にいかにも不釣り合いです。これが将門の運の尽きだったのか、藤原秀郷が挙兵。新皇・将門の最期が近づきます。

藤原秀郷と合流、形勢逆転

従兄弟・平将門に連戦連敗し、何度も追いかけ回され、命からがら逃げ延びてきた平貞盛が最後に頼ったのが下野の独立勢力・藤原秀郷。藤原為憲とともに秀郷と合流し、将門の最終決戦に臨みました。

天慶3年(940)2月1日、秀郷・貞盛らの連合軍は将門の別動隊を撃退した後、将門本隊に追撃戦を仕掛けます。このとき貞盛は強い言葉で兵を鼓舞しました。

敵は雲の上の雷(いかずち)で、わが軍は便所の底の虫(数は多いが弱兵)のようだが、敵には道理はなく、われらには天の助けがある。全員士気を強くし、逃げてはならない

これまで逃げ回っていたのが噓のような強気な発言です。ここで将門に勝利した後、2月13日には将門の本拠地に攻め込み、貞盛は家々を焼き払います。そして2月14日午後3時ごろ、最終決戦。はじめ風上に立つ将門軍が優位に進めましたが、そのうち、将門の陣が風下になり、秀郷・貞盛軍が攻勢に出ます。『古事談』などによりますと、貞盛の放った矢が命中し、将門を落馬させました。

散々、将門に苦しめられた貞盛の怒りがこもった一矢が見事勝負を決めたのです。

将門を倒した後の「平将軍」貞盛

平将門の乱を鎮圧した功績で平貞盛は従五位上となり、左馬允から右馬助に昇進しました。この後、京に戻ったようで、貴族として官位も進みます。『日本紀略』などによりますと、鎮守府将軍に就き、「平将軍」とも呼ばれます。丹波守、陸奥守を歴任し、従四位下まで昇進しています。

また、『今昔物語集』に貞盛のエピソードがあります。話自体は実話か誇張されたものか全くの作り話か分かりませんが、京の貴族の間でいろいろ話題に上る人物であったことが想像されます。

『今昔物語集』に登場する貞盛

まず、『今昔物語集』29巻第5話。

とある裕福な法師が「盗人に殺されるかもしれない」という占いに従い、物忌みのため厳重に自宅の門を閉ざしていましたが、そこに陸奥から帰京した貞盛が訪問。事情を聴くと、「そういうことなら、むしろ自分を中に入れた方がいい」と法師を説得。ただ、法師が「物忌み」だというので家来は帰して一人で宿泊しました。そして夜半に侵入した10人ほどの盗人を次々と射殺し、残りの者も逮捕しました。武士らしい豪胆さ、強さが強調されている逸話です。

一方、29巻第25話。

貞盛が丹波守のとき、腫れ物を治療する胎児の肝で作った薬を手に入れるため、自分の子・左衛門尉に「お前の妻は懐妊しているそうだが、その胎児をくれぬか」と言い出します。左衛門尉は医師に「自分の血を受け継いだ胎児では薬に使えません」と言わせ、何とか妻子を守ります。貞盛は別から胎児を得て治癒。医師に褒美を与えます。しかし、腫れ物は矢傷が原因なので「人に知られたら恥だ」と医師殺害を左衛門尉に命じます。左衛門尉は恩人である医師に密告。道中、見送りの判官代を馬に乗せて医師は徒歩で行き、盗人のふりをした左衛門尉の一隊が間違ったふりをして判官代を射殺します。

物語は、貞盛がわが子の妻の腹を裂いて胎児を取ろうとしたのは実に恥知らずだと指摘。貞盛の意外な一面が語られている逸話です。

清盛や北条氏、名門武家のルーツ

平貞盛の子孫には、平安時代末期に繁栄を極めた平清盛ら伊勢平氏の一族や鎌倉幕府執権の北条氏、源頼朝が挙兵する際、最初の標的となった伊豆目代・山木兼隆がいます。『平家物語』の敦盛討ちで知られる猛将・熊谷直実や、もともと伊勢氏である北条早雲も貞盛子孫という説があります。

おわりに

平貞盛は『将門記』に揺れる心境が描写され、将門との戦いを躊躇し、合戦から手を引こうとする一貫性がない行動に、かえって人間味が出ています。最後は勝ち組の立場に立ち、貴族としての出世も果たしたのですが、なりゆきで戦乱に巻き込まれ、将門に振り回され、予想外の波瀾万丈な生涯を送ったともいえそうです。


【主な参考文献】
  • 『坂東市本将門記』(坂東市立資料館)
  • 源顕兼編、伊東玉美校訂・訳『古事談』(筑摩書房)ちくま学芸文庫、2021年
  • 武石彰夫訳『今昔物語集 本朝世俗篇』(講談社)講談社学術文庫、2016年

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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