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【やさしい歴史用語解説】「管領」
- 2022/02/02
ざっくり言ってしまえば、室町幕府のナンバー2といったところ。トップには将軍がいるため、その補佐をする役割となります。ちなみに鎌倉幕府の「執権」、江戸時代の「老中」も同じ意味になるでしょうか。ただし老中の場合は複数制で、月ごとの持ち回りとなっていたようです。
将軍家である足利氏には、もともと「執事」という役職がありました。いわば足利氏の家政を担う役目ですね。ところが足利尊氏が幕府を開き、数人が執事となったものの、やはり名称がそぐわず具合が悪いということになりました。そこで「すべてを統括・管理する人」という意味で「管領」に改められたそうです。
また望めば誰でもなれるというものでもありません。3代将軍・足利義満の頃、細川・畠山・斯波が持ち回りで務めるということになり、この3家だけが管領になる資格を持ちました。いわゆる「三管領」です。
とはいえ、斯波氏だけが足利氏の家人ではなかったため、斯波氏に資格を持たせるために「管領」と改名したという説もあるようです。
管領は将軍を補佐することが本来の役目でしたが、実質は室町幕府の最高権力者といっても過言ではありません。時として将軍を凌駕するほどの実力を持ち、室町幕府240年の歴史の中で、とんでもない管領が登場したこともあります。
それが冒頭の肖像画の細川政元という人物。
管領といってもこの人の場合はたった数日で辞めています。そもそも古い慣習や制度に何の未練も執着もない人ですから、すでに形骸化していた管領には興味はありません。むしろ管領以上の実力を持っていました。時には将軍の首すらすげ替え、文字通り幕政を牛耳ったといいます。
ちなみに政元をはじめ、細川氏が管領に就任することが多かったようです。その理由として、畠山氏や斯波氏は早くから没落して職責を担えなかったこと。また細川氏の領国が比較的京都に近かったことが挙げられるでしょうか。また大きな経済力を持つ細川氏には初めから実力があったため、管領になりやすかった面もあるでしょう。
織田信長が足利義昭を擁して上洛を果たし、室町幕府を再興するのですが、信長はもはや有名無実となった管領など不要だと判断したのでしょう。最後の管領・細川氏綱以降に設置されることはなくなりました。
もう一つ、管領と呼ばれた職があります。それが関東地方に置かれた関東管領(かんとうかんれい)です。もとは室町幕府の出先機関である鎌倉府で、鎌倉公方を補佐するために生まれた役職でした。山内と扇谷という二つの上杉氏が担っていたのですが、鎌倉府の衰退とともに関東管領も有名無実となっていきました。
その後も関東には古河公方や堀越公方など、足利氏の血縁者が拠点を築きますが、もはや関東管領は補佐する立場どころか、山内と扇谷の両上杉氏が相争う状況となり、結局は新興の北条氏によって滅ぼされてしまうのです。
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