「東向島(旧玉ノ井)」消滅した風俗街、しかし、名残はくすぶりつづける

〝通称〟が広く世間に知れ渡り……

 東武スカイツリー線の東向島駅で電車を降りる。高架下の駅舎を出てふり返ると、頭上には「東向島駅(旧玉ノ井)」と、書かれた駅名標が掲げられていた。

 この駅近辺にはかつて、東京有数の歓楽街「玉ノ井」があった。最盛期の昭和初期頃には“銘酒屋”と呼ばれる風俗店が軒を連ね、約1000人の娼婦がいたという。

 銘酒屋とは、居酒屋や小料理屋を装った売春業者のこと。カウンターだけの狭い店に1〜2人の娼婦がいて、2階にある小部屋で接客をする。吉原などのように法律で認められた遊郭とは違って、警察が“黙認”しているグレーゾーンな存在だった。

 格式のある遊郭とは違って、面倒なしきたりがなく気楽に遊べる。しかも低料金だったことから、庶民の男性たちには人気を呼んだ。大正期になると、浅草の凌雲閣付近に“銘酒屋街”と呼ばれる風俗街ができあがる。そして関東大震災で浅草の街が壊滅すると、多くの銘酒屋が隅田川の対岸に移転して営業を再開した。

 粗末で小さな建物はさほど資金もいらず、突貫工事ですぐに完成する。当時は南葛飾郡寺島村北玉ノ井や本玉ノ井と呼ばれ、震災以前は田畑の広がる田園地帯だったのだが。田圃の畦道には長屋造りの銘酒屋やバーが軒を連ねるようになり、たちまちのうちに風俗街の路地に変貌した。

 ちなみに「玉ノ井」は、この地を支配した代官の愛妾の名に由来する地名だといわれる。江戸時代にはすでにそう呼ばれ、維新後の住居表示にも北玉ノ井、本玉ノ井として残された。震災後に生まれた風俗街も自然とそうなる。

 1930年には住居表示が変更されて北玉ノ井や本玉ノ井といった地名は消滅するのだが、風俗街「玉ノ井」は発展しつづけ、その名は世間に浸透してゆく。

 当時は鉄道会社もその知名度にあやかった。現在の東向島駅がある場所には、明治時代末期まで「白鬚駅」という小さな駅があったのだが、1905年に営業を休止したまま放置されていた。しかし、風俗街にやってくる客を当て込んだのだろうか、1924年には駅の営業が再開される。この時に駅名を「玉ノ井駅」に改称した。風俗街をめざしてやってくる者たちには、そのほうが分かりやすい。妥当な判断だろう。

 だが、いくら有名になろうとも地図上の地名はすでに消滅している。誰もが知る「玉ノ井」の名はもはや“通称”でしかない。都合が悪くなれば消すことも簡単にできる。

隠しておきたい〝負の歴史遺産〟なのか?

 現在の東向島駅から、鉄路の高架に沿った道路を越えて北東方向に進む。このあたりが、かつての風俗街の中心地。しかし、1945年3月の東京大空襲で界隈は一面焼け野原となってしまった。

 空襲によって「玉ノ井」は戦後の売春防止法施行よりも遥か以前に消滅している。いまは東向島駅前商店街を名乗る界隈には、チェーン店のハンバーガーや薬局、ラーメン店などが建ちならぶ。よくある私鉄沿線の駅前風景だ。ここにかつてあった風俗街の眺めを想像することは難しい。

 しかし、歩くうちに少し違和感を覚える。道幅が一定ではなく、不自然に曲がりくねった個所が随所に見られる。また、公道なのか私道なのか判別つかない、毛細血管のように細い路地もあちこちに。区画整理された今どきの街とは違った趣を感じたりもする。

 薄暗い路地、その先に何があるのか……想像がつかない。通り抜けられるのか、それとも迷い込んだら出られない迷宮なのかも?

 大正期に銀座のカフェーに入り浸っていた永井荷風は、昭和の時代になると玉ノ井に関心が移り足繁く通うようになる。彼の小説『濹東綺譚』でも、細い路地がからみあうこの眺めは〝迷宮〟を意味する「ラビラント」と表現されていた。インテリ層の間では、それが玉ノ井を象徴する言葉として使われた。

「ぬけられます」

 通り抜けできます。と、いう意味の看板が路地の入口によく見かけられ、この街の風物になっていた。

 駅前から大正通りを越えて北上する。このあたりは東京大空襲を免れて、生き残った店はその後も商売をつづけていたという。戦後は「新玉ノ井」と呼ばれる赤線区域として存続した。

 1946年には民主化政策の一環として公娼制度は廃止されるのだが、しかし、それはかえって非合法の売春業を発展させる皮肉な結果をまねいてしまう。生活の困窮から街にはストリートガールがあふれ、怪しい店々も都下に急増していた。

 摘発に手を焼いた警察は、特定の地域に風俗店を集めて、そこに限っては売春を認めるという方針転換をする。警察内の地図でその区域を赤い線で囲んでいたことから「赤線」と呼ばれるようになった。

 ただし、戦前の遊郭とは違って売春行為を公に認めているわけではない。戦前の私娼窟と同様、あくまでも“暗黙の了解”によるグレーゾーン。赤線の区域内で商売している限りは黙認するということだ。

 さらに行政や警察では、外観からも他の店と風俗店の見分けがつくように建物のデザインを細かく指導した。それによって赤線区域にはアールのついた庇や門柱、タイル貼りの外壁、飾り窓など独特のデザインの店が建ちならぶようになる。しかし、そんな洋風の外観をした店が、銘酒屋や小料理屋の看板を掲げていては違和感がある。そのため戦後の新玉ノ井には、カフェーやバーに業種替えする店が増えたという。

 戦前の玉ノ井に比べると、赤線で囲われた新玉ノ井のエリアは狭い。丹念に歩いてまわると、カフェー建築とか赤線建築と呼ばれたかつての風俗店らしき建物がすぐ見つかる。

 いまは民家や他業種の店に改築され、古い外壁はモルタル塗装で覆われたりしているのだが。独特の意匠は隠しようもない。所々にモルタルが剥がれ落ち、タイルが顔を覗かせていたりもする。まぁ……ただ歩いているだけでは気づかずに通り過ぎてしまう。そんな微かな痕跡ではあるのだが。

かつての新玉ノ井界隈を歩く。これは……カフェー建築だろうか?
かつての新玉ノ井界隈を歩く。これは……カフェー建築だろうか?
丸い柱をみると、タイルを塗装したのがわかる。
丸い柱をみると、タイルを塗装したのがわかる。

 また、「東向島駅(旧玉ノ井)」の看板も、その謂れを知る人は少なくなっている。説明されなきゃ分からない。やがて意味をなさなくなり(旧玉ノ井)の文字も消去されてしまうかもしれない。消されることを願う者もいるだろう。

その名を受けついだ商店街は健在

 東向島駅から南西に1km ほど行った場所にも、かつては「鳩の街」と呼ばれた赤線区域が存在した。空襲で店を焼かれた数軒の風俗業者が、玉ノ井からこの地に移住して営業を再開。付近に軍需工場があったことから繁盛し、終戦の頃には約40軒の店々が軒をつらねる風俗街ができあがっていた。

 終戦後は進駐軍の兵士たちも訪れるようになり、一時は米兵が客層の主流を占める時期もあったという。「あそこに行けば平和でハッピーな気分になれる」ということで、兵士たちはこの風俗街を「pigeon street」という隠語で呼んだとか。鳩は平和の象徴、そのあたりから由来したのだろう。やがて日本人の間でもそれを和訳した「鳩の街」の呼名が使われるようになる。

 進駐軍が去った後も、鳩の街は日本人客でにぎわった。朝鮮戦争の好景気で近隣には町工場が増え、若い独身男性の労働者が押しかけてくる。1953年には飲食店やバーを装う風俗店が126軒、430人の娼婦がいたという。戦後は須崎や新宿二丁目とならぶ東京有数の風俗街として名を馳せた。

 永井荷風が玉ノ井に入り浸ったように、戦後の文壇で活躍する作家たちにもこの街にハマった者は多い。80〜90 年代の新宿歌舞伎町がそうだったように、風俗街の放つ怪しい雰囲気は無頼な作風の格好の舞台となる。

 吉行淳之介の『原色の街』が芥川賞候補作になったことで、鳩の街の知名度は全国区に。戦前は寺島商栄会を名乗っていた表通りの商店街も、それより遥かに有名になった裏路地の風俗街の名をとって「鳩の街商店街」に名称変更している。

 だが、その栄華も長くはつづかない。1955年になると GDP 水準が戦前を上回り、経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言。日本は終戦直後の混乱や貧困と完全に決別しようとしていた。この翌年には売春防止法が公布されて赤線の廃止が決定する。

 鳩の街が消滅した現在も表通りの商店街は、その名前で残っている。これを目印にすれば、赤線区域・鳩の街があった場所はすぐに分かる。

 商店街から一歩裏にまわると、細い路地の入り組んだ迷宮に迷い込む。戦前の道路区画のまま残った路地は、戦災で焼けた玉ノ井界隈よりもさらに複雑怪奇。慣れていないとすぐに方向を見失う。

 じつは7〜8年前にも、この路地を歩いたことがある。その時には密集する家々の中に、普通の日本の民家にはありえないアールやタイル貼りの建物をいくつも発見した。カフェー建築の宝庫。と、思ったものだが……数年ぶりに再訪してみると、それがすっかり消滅していた。以前に訪れた時よりもマンションや3階建ての真新しい民家が目立つ。

 わずか7〜8年である。そんなに変わってないだろうとタカを括っていたのだが。変貌ぶりに愕然。江戸時代の遊郭なら歴史的建造物として手厚い保護を受けたりもするだろうけど、終戦後のカフェー建築にそこまでの価値はないということか。

 しかし、赤線区域・鳩の街の痕跡が消滅した現在、表通りの商店街に掲げられた「鳩の街」の幟旗は以前ここに来た時よりも増えているような気がする。商店街の人々が、その名に愛着を感じているひとつの証明だろうか。

東向島駅に改称されて少し後の1989年(平成元年)に東武博物館が開館。
東向島駅に改称されて少し後の1989年(平成元年)に東武博物館が開館。

そういえば、玉ノ井駅の名称が東向島駅に変更された時も、近隣住民から反対運動が起きていたという。鉄道会社が駅の看板に「(旧玉ノ井)」を入れる折衷案をだして、抗議はやっと収まったのだとか。

 その地名を懐かしんで、大切に思っている人々もまた地元にはそれなりの数いるようだ。たとえ、街の痕跡がすべて消え去ったとしても、その思いが消えないかぎり残香はくすぶりつづける。

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
青山誠 さん
歴史、紀行、人物伝などが得意分野なフリーライター。著書に『首都圏「街」格差』 (中経文庫)、『浪花千栄子』(角川文庫)、 『江戸三〇〇藩城下町をゆく』(双葉社)、『戦術の日本史』(宝島文庫)、『戦艦大和の収支決算報告』(彩図社)などがある。ウェブサイト『さんたつ』で「街の歌が聴こえる』、雑誌『Shi ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。