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【やさしい歴史用語解説 その28】「天下五剣」

明石則実
 2022/09/20
最近の刀剣ブームはなかなかのもので、展示会が開催されるたびに多くの人が長蛇の列を作るほど大人気となっていますよね。

数ある日本刀の中でも、特に「天下五剣」と称する五振りの太刀は最高峰とされており、刀剣の世界では是非とも知っておきたい存在でしょう。それぞれを紹介したいと思います。

童子切安綱

まず「童子切安綱」です。平安時代、源頼光が酒呑童子を退治するために出陣しました。山伏に変装した頼光らは鬼たちに酒盛りを開かせ、やがて童子が寝入ったところを安綱の太刀で切り倒したそうです。その由来から童子切安綱と名付けられました。

大包平と並んで東西の両横綱と称されるほど有名となりますが、やがて足利将軍家へ伝えられ、豊臣秀吉・徳川家康そして秀忠へと受け継がれていきました。

※童子切安綱・写し刀(wikipediaより)
※童子切安綱・写し刀(wikipediaより)

三日月宗近

次に「三日月宗近」です。平安時代の刀工「三条宗近」の作となり、刃縁に沿うように続く打除けが、さしずめ三日月のように見えることから名付けられたそうです。天下五剣の中で最も美しく優美な太刀だとされていますね。

室町時代までの所有者は明らかではありませんが、記録に現れるのは公家の日野内光の頃です。日野富子の兄が亡くなったことで跡を継いで日野家当主となり、幕府管領・細川高国に味方しました。

高国に付き従った内光ですが、桂川原の戦いで奮戦するものの敗死。よく見ると、その時の切り込み傷が三日月宗近にも残っているそうです。やがて豊臣秀吉へ渡り、そののちは将軍家代々に伝来することになりました。

※三日月宗近(wikipediaより)
※三日月宗近(wikipediaより)

鬼丸国綱

そして「鬼丸国綱」が作られたのは鎌倉時代のこと。多くの名刀を作った粟田口派の末弟・国綱の作です。

幕府執権・北条時頼は、毎晩夢の中に出てくる鬼に悩まされていました。ところがある夜、夢の中に老人が現れてこう言うのです。

「私はそなたの愛刀・国綱である。そなたを悪夢から助けたいのだが、どうにも錆が付いて鞘から抜け出せぬ。」

時頼は老人の言う通り太刀の錆を取ったところ、立てかけておいた国綱がいきなり倒れ、置いてあった火鉢の脚を斬ってしまったそうです。よく見ると脚に付いていた鬼の装飾は、夢に出てきた鬼とそっくりでした。それ以来、時頼は悪夢に悩まされることがなくなったそうです。時頼はその太刀を「鬼丸」と名付け、北条家に代々伝えられることになりました。

鬼丸国綱は室町将軍・足利義輝が最期に振るった太刀ともされており、その後は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康へと受け継がれました。

※鬼丸国綱(wikipediaより)
※鬼丸国綱(wikipediaより)

大典太光世

次に霊力が宿る太刀だという「大典太光世」です。天下五剣の中で刃長が最も短いものの、重厚な身幅が特徴的な太刀となっています。

平安時代の刀工・三池典太光世の作であり、他の名刀などと同じく足利将軍家の重宝として伝承されてきました。やがて足利義昭から豊臣秀吉へと渡っています。

大典太光世には不思議な霊力がありました。前田利家の娘・豪姫は、体が弱くて大病を患うことも多かったのですが、大典太光世には病人を治癒する能力があったようです。この太刀を豪姫の枕元に置いたところ、たちまち病が回復したとも。

また大坂城にある千畳敷の廊下を深夜に歩くと、何者かが太刀を掴んで通らせないという噂が立ちました。噂を聞いた前田利家が「そんな馬鹿なことがあるか!」と言って大典太光世を携えて廊下へ出向くと、不思議と何も起こらなかったそうです。


数珠丸恒次

そして日蓮が携えた太刀とされるのが「数珠丸恒次」です。この刀が作られたのは鎌倉時代前期のことで、後鳥羽上皇お気に入りの刀工だった青江恒次の手によるものでした。

日蓮は、この太刀に数珠を巻いて「破邪顕正の剣」として身延山へ向かい、そこで草庵を結んだそうです。これが日蓮宗の総本山である久遠寺へと発展していきました。

日蓮が亡くなると、遺品の一つとして久遠寺に保管されましたが、江戸時代になると突如として姿を消してしまいます。ようやく発見されたのは大正年間のことでした。

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明石則実 さん

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