清水重好(徳川重好) 将軍職にも ”なろうと思えば狙えた” 無欲の人物?

 清水重好(しみず しげよし、1745~95)は10代将軍・徳川家治の弟です。元服して「徳川重好」と名乗りました。父である9代将軍・徳川家重は家治が将軍に就くと、重好をどうしようかと考えた結果、8代将軍である父・吉宗の真似をして、徳川将軍の世継ぎのプール場所を作り、重好をそこに置いておこうと考えたのです。

 吉宗は家重の2人の弟を一橋、田安という2つの家をもうけ、そこの当主としました。もし将軍に何かあれば一橋家、田安家からすぐに次の将軍が出せるように準備しておいた訳です。家重は、そこに新たに清水家をもうけ、重好をそこの当主として、一橋・田安・清水という、いわゆる「御三卿」が揃います。

 こうして徳川重好は「清水重好」と名乗ることになりました。そして家治の唯一の男の子である徳川家基が18歳で急逝してしまい、跡取りがいなくなってしまうという事態を迎えます。

跡継ぎ問題の発生と御三卿の状況

 徳川家基が死去した天明元年(1779)の時点で、将軍の跡継ぎ問題が発生します。次期将軍候補として、一橋家には一橋豊千代(のちの徳川家斉)、田安家には田安賢丸(のちの松平定信)という元服前の男の子がいました。

 清水家には、そういった男児はいませんでしたが、当主の清水重好は34歳であり、祖父の吉宗が32歳で将軍に就いたという事実から、跡継ぎとして立候補できる状況にありました。むしろ現将軍である徳川家治の実の弟という立場は、一橋家や田安家よりも有利な状況にあったのです。

     徳川吉宗
┏━━┳━━┫
宗尹 宗武 家重
   ┏━━┫
   重好 家治 
      ┃
      家基

※参考:清水重好の略系図

 重好は将軍家治と仲が良かったので、その気にさえなれば、家治から跡継ぎとして指名されても何ら不思議ではありませんでした。兄が将軍職にあって逝去した場合に弟が後を継ぐというのは、決しておかしなことではありません。4代将軍・徳川家綱の死去後に弟の徳川綱吉が将軍職を継いだという先例もありますから。

 しかし、重好は自ら立候補を辞退します。家治はまだ40歳で壮健であり、自分が跡継ぎになっても将軍になる頃には年齢が行き過ぎていると考えたのかもしれませんが、正確な理由は分かっていません。一説に重好は欲がなく、温厚な人柄であったためとも言われています。

 こうして跡継ぎ問題は一橋家と田安家の指名争いとなりました。将軍家治はどちらかというと、聡明の誉れ高い田安賢丸にしたかったようですが、田沼意次と一橋治済の画策によって一橋家の豊千代に決定します。そして家治の養子になった豊千代は、天明7年(1787)に15歳で第11代将軍・徳川家斉となるのです。

重好が亡くなった後の清水家は?

 跡継ぎに恵まれなかった重好は、寛政7年(1795)7月、50歳で逝去。清水家はいったん空き家となります。

 この点が御三卿と他の武家の違いであり、御三卿はあくまで将軍世継ぎのプール場所であるので、当主がいなくなった場合には「取り潰し」ではなく、「空き家」として扱われました。

 清水家には家斉の子供である敦之助が2代目清水家当主として入りますが、それまでは空き家として管理されていたのです。御三卿である一橋・田安・清水の3家の中で清水家は唯一、将軍を輩出しなかった家柄として知られています。初代当主である重好の無欲な人柄が、そのまま遺伝してしまったかのように清水家は将軍職とは縁がないまま、幕末を迎えてしまうのでした。

清水家の家来達の心情

 重好の場合、なろうと思えば将軍になれたでしょう。しかし自ら辞退してしまう無欲さに、清水家の家来達が歯がゆい思いを抱いても不思議ではありません。実際、長尾幸兵衛という家来が、重好を将軍職に付けようと、田沼意次に大量の賄賂を贈ったなどの噂も流れていますが、真偽のほどは分かりません。

「清水家、御取締り宜しからず候由」

 天明8年(1788)5月には、御庭番であった高橋恒成から上記報告書が出されています。これは「清水家を取り締まらないといけない」といった意味です。

 御庭番というのは、8代将軍・徳川吉宗が設けた幕府の役職で、将軍から直接の命令を受けて秘密裡に諜報活動を行った隠密のことを指します。この報告は長尾幸兵衛が清水家の財産を無断で賄賂に使ったことを差していると言われていますが、さもありなんというところでしょうか。

 しかし、長尾幸兵衛が賄賂を贈ったとされる田沼意次は報告の時点では既に老中職を罷免されていますので、つじつまが合いません。当時は賄賂といったら田沼意次の名前が最初に上がったので、噂で収賄相手は田沼にされてしまったのかもしれません。この噂は、少なくとも清水家の家来の中に何等かの策動を行なった人物がいたことを示すものといえるでしょう。

おわりに

 幕末を過ぎて明治を迎えた時、清水家は徳川慶喜の甥である徳川篤守(とくがわ あつもり)が当主でした。明治17年(1884)の華族令で伯爵を授けられましたが、15年後に経済的事情を理由に爵位を返上し、一般人となりました。

 華族令では爵位を与えるだけで経済的な援助は全く無かったため、他にも経済的に困窮してしまった名家はたくさんありました。先祖伝来の宝物などを売りに出して何とか生き延びるのも当たり前でしたが、清水家には売り払う宝物すら、あまり無かったようです。

 他の名家に比べれば歴史も浅く、空き家の時期などもあったのでやむを得ないことだったのでしょう。それもこれも何故か、全て初代当主である清水重好の性格と相通ずるものがあると感じさせられるのは不思議なものです。


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なのはなや さん
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