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【やさしい歴史用語解説】「廃藩置県」
- 2023/08/10
明治2年(1869)になって太政官制を導入されたり、版籍奉還が行われたりなど、それなりに国家体制が築かれつつありましたが、明治新政府が目指す強力な中央集権化には程遠いものでした。
なぜなら旧来の藩主が知藩事に任命されたといっても、徴税権や軍令権は藩が握っていて、旧態依然とした幕藩体制が残っていたからです。
そこで政府は岩倉具視を勅使として鹿児島へ派遣し、西郷隆盛を上京させて政府首脳に加えました。さらに諸藩の反対を見越して薩摩・長州・土佐の3藩から「御親兵」を募って組織化させて武力を固めます。
明治4年(1871)、在京していた知藩事たちを集めたうえで、明治天皇から「廃藩置県」が布告されました。
政策の実行と同時に、全国に261あった藩の代わりに「府」と「県」が置かれ、新たに「知事」「県令」が任命されて各府県を取りまとめるようになります。
当初は3府302県と膨大な数の地方自治体が存在していましたが、何度か増減を繰り返したことで、同年の年末までの間に3府に加えて県は72にまで統合されています。3府とは「東京府」「京都府」「大阪府」で、国内における主要地域としての位置付けがされていました。
平安時代から連綿と続いてきた各領主による地方分権政治は明治政府に一元化され、廃藩置県は「明治維新最大の改革」と呼ばれる一大政策となったのです。
こうした政治体制を一新させる政策に対し、不思議と反対が唱えられることはありませんでした。これには理由があり、まず各藩が慢性的な財政難を抱えていたことが挙げられます。廃藩置県の直前まで行われていた戊辰戦争は財政を直撃し、各藩は莫大な戦費調達に苦しんでいました。
廃藩置県は財政を国が一括管理するということですから、すなわち藩が抱えていた借金もチャラになります。さらに旧藩士が抱えていた借財も免責されたため、これに飛びつかないはずがありません。
さらにもう一つの理由として、藩が忠誠を誓うべき幕府が存在しなかったことにあります。大政奉還でとっくの昔に徳川家の権限はなくなっていますから、土地の安堵を保証してくれる統治者がいないのです。
すなわち、いつ土地を取り上げられてもおかしくない状況だったわけで、そこへ明治政府から好条件が提示されたわけですから、各藩主にとって願ったり叶ったりという意味合いが強かったのでしょう。
こうして日本はスムーズに中央集権化へ移行し、近代国家としての道を歩んでいきました。
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