土井晩翠の世界観 名歌「荒城の月」で晩翠が想い描いたものは?

土井晩翠の肖像(出典:国立国会図書館HP「近代日本人の肖像」より)
土井晩翠の肖像(出典:国立国会図書館HP「近代日本人の肖像」より)
 土井晩翠(どい ばんすい)が歌詞を、滝廉太郎が曲を書いた『荒城の月』は日本人の心にある名歌です。

 この歌は明治34年(1901)に作られましたが、令和の私たちにも憂いを帯びた美しさがしみじみ伝わってくるのはなぜでしょうか。土井晩翠がどんなスタンスでこの歌詞を書き上げたのか、探ってみます。

『荒城の月』の歌詞

 まずは『荒城の月』の歌詞を見てみましょう。

1、「春高楼の花の宴 めぐる盃かげさして 千代の松が枝わけいでし むかしの光いまいずこ」

2、「秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて 植うる剣に照りそいし むかしの光いまいずこ」

3、「いま荒城のよわの月 替わらぬ光たがためぞ 垣に残るはただかづら 松に歌うはただあらし」

4、「天上影は替わらねど 栄枯は移る世の姿 写さんとてか今もなお 嗚呼荒城のよわの月」
『荒城の月』より

 なんとも侘び寂びが胸に響いてくる言葉ばかりです。

土井晩翠という人物

 この哀愁の歌詞を書いた晩翠とはどういう人だったのでしょう。

 明治4年(1874)に、宮城県仙台市の質屋の長男として生まれ、林吉と名付けられました。幼年から祖母に和歌の手ほどきを教えられたり、父からは「八犬伝」を聞いたり、文芸のレベルが高い環境だったようです。

 しかし、そのまま文学の道に進むわけにはいかなかったのです。家業である質屋を継がなければなりませんでした。中学への進学を祖父に反対され、質屋の店先で見習いとして働きました。自営の家はそれが慣わしだったとはいえ、若い林吉は悲しかったでしょうね。理不尽と思ったりしなかったのでしょうか。

 しかし、諦める林吉ではありませんでした。仕事の傍ら「自由の燈」という新聞や「新体詩抄」等を読んでいたのです。英語の通信教育もしたそうですから、勉学への熱心さには脱帽します。好奇心こそが明治初期の若者のモチベーションだったのでしょう。

 その後、晩翠の努力と英語力の高さを認められ、周りからも許しが出て東京帝国大学英文科に入学しました。ホメロスの「イーリアス」などの抒情詩を日本語訳するなど、詩人としてだけではなく英文学者としても偉大な人になったのです。それは翻訳力だけではありませんね。彼の中に詩情というものがあったからこそ形にできたのだと思います。

『荒城の月』の世界観

 詩とは比喩の表現が当然なので、読む人、歌う人が想像するのは自由です。その上で、少しこの歌の世界観を探ってみましょう。

1番の歌詞の意味

「春高楼の花の宴 めぐる盃かげさして 千代の松が枝わけいでし むかしの光いまいずこ」
『荒城の月』1番の歌詞

 『荒城の月』1番の歌詞の意味は一般的にこういう訳されています。

「春にはここにあった城の中で、賑やかな花見の宴が行われていたに違いない。はずむ声、笑い、酒を酌み交わす盃… そして城壁の大きな松の枝あいからは、月の光が差し込んでいたであろう。そんな昔のおもかげは、今はどこへいったのだろう。」

 つまり「荒城の月」の1番は、花の盛りのような武士の時代を懐かしんでいる様子です。ちなみに2番は秋、3番は今、4番は栄枯盛衰の全体像を書いているようですね。

2番の歌詞「植うる剣」

「秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて 植うる剣に照りそいし むかしの光いまいずこ」
『荒城の月』2番の歌詞

 「植うる剣に照りそいし」とありますね。剣は植物ではないので、植えるとはどういうことだろうと思いました。花が咲くわけでもありませんし。これは歴史を知っている人にはいろいろ想像できるらしいですね。

 例えば、

・剣を城柵のように立てている様子
・激しい戦いの跡の剣の様子
・霜が立っている季節感

 解釈は他にもたくさんあるようです。いずれにせよ、武士の終焉の寂しさを比喩とした心象風景であります。

上杉謙信の漢詩の影響

 土井晩翠は上杉謙信が大好きだったらしいです。

 実は2番の歌詞「秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて」の部分が、上杉謙信の漢詩「九月十三夜陣中昨」を借用したのだろうとよく言われています。

この漢詩は、天正5年(1577)に謙信が能登の七尾城に入り、勝利を祝って宴会を開いた時のようです。その時の漢詩ですから、なんとも武士の思いの詰まっていてかっこいいです。

九月十三夜陣中昨
霜満軍営秋気清 
数行過雁月三更 
越山併得能州景 
遮莫家郷憶遠征

 解釈は以下となります。

「霜が軍営に満ちて秋の気配が沁みてくる 何列かの雁が過ぎてゆく その月明りに越後・越中の山、そして今私が得た能登の景色が見渡せる 故郷の者たちは我ら遠征を案じているだろうか」

 やはり『荒城の月』の「秋陣営の霜の色、鳴きゆく雁の数見せて」とイメージが重なりますね。謙信の漢詩から武士が月を見上げる姿を晩翠が想像していたとすれば、これは、謙信を敬う歌ともいえます。

荒城って どこだろう?

 そもそも ”荒城” とはどこでしょうか? 歌碑のある場所を上げてみます。

  • 宮城県仙台城址 …土井晩翠は仙台の出身であるから、まずは伊達政宗の仙台城を思い書いたでしょう。仙台城址のすぐそばの仙台第二高等学校(現東北大学)で教師もしていたのであれば頷けます。
  • 福島県会津若松市の会津藩鶴ヶ城址 …晩翠が城跡のもの悲しさを感じたそうです。
  • 富山市の富山城址 …作曲の滝廉太郎のゆかりの地
  • 大分県竹田市の岡城址
  • 岩手県九戸城跡

等です。

仙台城址にある土井晩翠像と『荒城の月』の歌碑
仙台城址にある土井晩翠像と『荒城の月』の歌碑
鶴ヶ城址にある『荒城の月』の歌碑
鶴ヶ城址にある『荒城の月』の歌碑

 詩とは史実や現実から離れてよい文芸なので、場所や風土を特定しなくてもよいものです。かつての城や先人たちを自由に思い描くことに、この歌の趣きがあるのでしょう。

おわりに

 『荒城の月』を考察しているうちに、松尾芭蕉の名句を思い出しました。

夏草や兵どもが夢の跡
              
 芭蕉が岩手県平泉を訪れた時に詠んだ句です。源義経や奥州藤原家が滅んでから500年経った広い地に立ち芭蕉は目を瞑り何を思ったのでしょう。晩翠に通じるものを感じます。

 晩翠が武士の城跡の美しさを書いた『荒城の月』を味わうと、今、普通に生きている私たちにも栄枯盛衰はあるのかと少しせつなくなりました。


【主な参考文献】
  • 古田義弘 『仙台領に生きる 郷土の偉人傳Ⅱ』(本の森、2021年)
  • 上越市公式ホームページ「義の心」
  • 土井晩翠『天地有情』(仙台市文学館、2005年)

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  この記事を書いた人
さとうえいこ さん
○北条政子に憧れて大学は史学科に進学。 ○俳句歴は20年以上。和の心を感じる瞬間が好き。 ○人と人とのコミュニティや文化の歴史を深堀りしたい。 ○伊達政宗のお膝元、宮城県に在住。

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