「宮沢賢治」読者を魅了してやまない国民的作家…格調高い宗教性はどこから生まれたのか?
- 2023/07/14
そんな宮沢賢治の童話。たとえば『オツベルと象』の主人公である象が口ぐせにしている「サンタマリア」というセリフに見られる通り、どこかに強い「宗教性」が込められていることも、しばしば指摘されていることです。ひとつ間違えると、道徳くさくなる筈の「自己犠牲」とか「他者への献身」といった宗教的なテーマが、嫌味なく、純粋な結晶のように童話に結実しているのが、宮沢賢治の強烈な魅力と言えます。
ただ、実際には宮沢賢治がどんな信仰を持ち、どう宗教と関わっていたのかは、それほど知られていないかもしれません。結論を言ってしまうと、彼がのめりこんだのは仏教、特に「法華経」という経典でした。しかし「いわゆる法華宗の信徒だった」といえばそれだけとも言えず、キリスト教との関わりなど、賢治の宗教研究はなかなか複雑です。
そこで今回、宮沢賢治の生涯を宗教との関わりを軸に、整理してみたいと思います。
花巻の裕福な商人の家にて
宮沢賢治は、明治29年(1896)、岩手県の花巻に生まれました。賢治の家は、裕福な古着商でした。賢治の父・政次郎は、西日本で出た古着を鉄道で輸送し、花巻で売ることで大変な利益をあげていた商才溢れる人物でした。
賢治は2つ年下の妹・トシと共に、この豪商の家で不自由なく育っていきます。父の政次郎が、地元花巻の人々からはいわゆる「成金」として、やや冷めた目で見られているという真実に賢治が気づき、深い確執が始まるのはもっと後のことになります。
ともあれ、父の政次郎は熱心な仏教徒としても有名であり、ただの俗物的なブルジョワというわけでもなく、宗教的な倫理意識も高い人物であったようです。ただ、父と賢治の宗教観の違いが、後年の確執の原因となってきます。
学生時代の苦悩と法華経との出会い
明治42年(1909)に盛岡中学に入学した賢治は、親元を離れた生活を始めていく中で、しだいに父親を含めた金持ち層が世間からどう見られているかに気づくように。そしてかつては当然のように考えていた「長男として父の跡を継ぐ」という人生ルートに大きな迷いが生じます。と、周囲にこぼし始めるなど、賢治の中で少しずつ、父との考え方の違いが広がり始めていました。また、この頃、賢治をとらえたものが法華経です。中学生の賢治は法華経を初めて読んだ際に、以下のように感想を述べています。
それからの賢治は、仏像を木彫りしたり、仏像を買い集めたりと、周囲にもはっきりわかるほどの熱心な仏教徒に変貌していきました。
父・政次郎は真宗の信徒であった為、本来、法華経とは相いれない立場でしたが、息子が信心深い青年に成長していることについては、おおいに喜んでいた模様です。なお、高名な宗教家である高橋勘次郎が花巻を訪れた際には、わざわざ相談に行ったというエピソードが残されています。
この後の賢治は、法華経関連の集会に参加したり、キリスト教の神父と交流したり、キリスト教徒の聖書勉強会にも出席するようになりました。法華経のみならず、キリスト教にも関心を持っていたというのは、賢治の考え方を理解する上で重要かもしれません。
法華経もキリスト教も、自己犠牲や他者への献身をテーマに持っている宗教です。貧困層を苦しめるような家業を継ぎたくないという賢治の想いと、こうした宗教の教えとがシンクロしていたのかもしれません。父との生き方の違いは、ますます広がっていきました。
上京し、本格的に文学の道を志す
高校を卒業した賢治は、ついに出家までほのめかす程の法華経信者になっていました。もっともこの「出家したい」は、とにかく家業を継ぎたくないがゆえの時間稼ぎとしての発言だった可能性もあります。せっかくここまで学業をやらせてやったのに進路もハッキリしないとは情けないと、父の政次郎は苦い態度でした。どんどん居心地が悪くなる実家…。やがて賢治は大胆な行動に出ます。大正10年(1921)、なかば家出に近い強引なやり方で突然、荷物をまとめて東京に出てしまったのです。
賢治が訪ねた先は、東京の法華宗系の仏教団体「国柱会(こくちゅうかい)」でした。出奔後の東京での賢治は様々な人との出会いを経て、「一人で寺にこもって修業をするような旧態依然とした仏教のやり方ではなく、社会に出て他者と関わることが修業である」というふうに、仏教を解釈していきます。
賢治は自らの進む道を、「法華文学の創造」と定めるようになりました。つまりは、小説家になりたいと、強く自覚するようになったのです。
この時期の賢治は上野の図書館に出向き、「小説のつくりかた」といった題名の本を読みこなすことから始めた、といわれています。なんだかかわいらしい青年の行動のようにも思えますが、誰でも思いつく「図書館で小説作法の本を読むところからスタートし、見事に大作家になってしまったのですから、やはり賢治には天性のものが備わっていたといえましょうか。
作家「宮沢賢治」の誕生
妹トシとの死別
若き宮沢賢治の周囲には、静かに、不幸な出来事が積み重なるようになりました。大正11年(1922)、妹のトシが、若くして結核で亡くなります。妹との死別は、その後の賢治文学に濃厚な影響を与えることに。そして賢治自身も、しばしば病気に苦しめられるようになります。
やがて賢治は、体調不良をきっかけに国柱会を離れ、故郷の花巻に帰ることになりました。ただしこれについて、評論家の吉本隆明は「体調不良というのはあくまできっかけで、既に国家宗教的な国柱会の活動と賢治の人生観とが合わなくなってきていたのではないか」と述べています。
その後、国柱会との縁が薄くなるところを見ると、たしかにそういう側面があったかもしれません。
農学校教員へ
故郷に帰った宮沢賢治に、良い就職話が持ち込まれます。農学校の教師としての仕事です。たまたま前任者が兵役となり、ポストが空いたためという幸運が働いての縁でした。 こうして農学校で学生たちを相手に授業をしながら、空いた時間にせっせと文学作品を書き溜めていくというライフスタイルが始まります。我々が知っている作家「宮沢賢治」の誕生です。
彼の手から生み出された作品は、ざっとあげただけでも、『風の又三郎』『オツベルと象』『注文の多い料理店』『銀河鉄道の夜』などなど、現在でもたくさんの読者に愛されている大傑作ばかりでした。
これらの作品が、賢治の生前に世に知られていなかったのは驚きですが、実情は自ら強く作品を売り込まなかったことにあるようです。作品は賢治の死後に世間に注目され、高い評価を得るようになります。
その死と法華経に託した想い
妹トシを早くに亡くした宮沢賢治ですが、彼自身にも死の影が迫っておりました。大正15年(1926)、突如として賢治は農学校の教師を辞めてしまいます。その後、父親の資産を頼みにしながら、地元農家への肥料指導を行いつつ、自らも畑作に打ち込むという日々を過ごしていました。昭和3年(1928)8月には、過労で高熱を出し、倒れてしまいます。以降、賢治はどこかで死を覚悟しながら、病床で創作に打ち込む生活を送ることになります。
この闘病生活中に、かの有名な『雨ニモマケズ』の詩が書かれました。賢治の最期は、「岩手の童話」と「仏教」という2つの世界に生きた彼らしいものとなりました。
昭和8年(1933)年、賢治は家の前に椅子を出して、地元の秋祭の神輿を見物していました。その翌日、彼の体調が急激に悪化します。外で祭を見ていた間に、肺炎が進行していたのでした。そして悪化する容態に駆けつけた父の政次郎と、賢治との以下のやりとりが伝わっています。
同じ日、宮沢賢治は37歳という若さでこの世を去りました。
振り返ってみた場合に言えることではありますが、「地元のお祭りを見ながら」「法華経に想いを託して」亡くなったというのは、地元岩手を舞台にした宗教性の高い作家として、なんともふさわしい最期の日に見えます。
おわりに
宗教との関係を軸に宮沢賢治の生涯を見てきました。こうして整理してあらためて痛感させられたのは、彼の複雑豊穣な作品世界の中においては、宗教からの影響もまた、「様々なものからの影響」の中のあくまで一部にしかすぎない、ということです。賢治の童話には、東北の自然風土、岩手の民話、西欧文学、妹トシの面影と、あまりにもたくさんの要素が盛り込まれているため、その全貌をとらえることすら容易ではありません。宗教的側面にこだわりすぎてしまうと、それはそれで賢治文学の何かを見逃してしまうところがあります。
ただ、彼が宗教的な生き方を強く模索していた人物であったことは間違いありません。そしてそれは、どうやら自己救済という目的での宗教心ではなく、他者への献身という目的での宗教心であったようです。
あくまでもひとつの見方でしかない、と断った上ですが、宮沢賢治の実人生と宗教との関係を見ておくことは、彼の複雑豊穣な作品世界を読んでいて道に迷った時の、ひとつの道しるべとなるかもしれません。
【主な参考文献】
- 『宮沢賢治』(千葉一幹/ミネルヴァ書房)
- 『私家版 宮沢賢治』(佐藤隆房/桜地人館)
- 『宮沢賢治の世界』(吉本隆明 / 筑摩書房)
- 『図説宮沢賢治』(上田哲・関山房兵・大矢邦宣・池野正樹/河田書房新社)
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