義に厚い性格の上杉謙信も、その素顔は結構ダーク?

上杉謙信と言えば、武田信玄のライバルとしてその名を知らない人はいないほど有名な戦国大名の一人である。彼は信玄同様に戦上手として知られ、その神がかり的な強さと毘沙門天を厚く信仰していたことから、「軍神」と称されることも多い。信玄と比べて「義」や「正義」を重んじる性格ということで、人物像が比較的わかりやすいという点も認知度を高めている要因であると思う。

ところが、歴史史料からは義を重んじるという点からかけ離れた行動も読み取れるのである。それでは、上杉謙信の知られざる姿も含めて解説していこう。

義の武将

桁外れの強さ

上杉謙信といえば、そのあまりの強さから「軍神」と称されたり、義に厚い性格から「義の武将」などと称されたりすることが多い。

史料によると、その強さは桁外れで武田信玄や北条氏康、そして織田信長といった実力派の戦国大名が割拠する中、70戦ほどの合戦の中で明らかな敗戦はわずか2戦と言われている。

その勝率は実に約95%である。

あの織田軍の猛将 柴田勝家でさえ、謙信には手もなくひねられている。その戦ぶりは「領土拡大欲求」は持たず、「理がある場合にしか戦をしない」というものであったことから、他の戦国大名からの信頼も厚かったとされている。

ライバル信玄にも信頼されていた?

例えば甲陽軍鑑によると、武田信玄は自らの死に際し、勝頼に以下のように言った。

勝頼弓箭の取りよう、輝虎と無事を仕り候え。信玄はたけき武士なれば、四郎若き者に、小目(苦しい目)みをすることあるまじく候。その上申し、相手より頼むとさえ言えば、首尾違うまじく候。信玄大人気なく輝虎を頼むと言うこと申さず候故、終に無事になること無し。必ず勝頼は、謙信を執して頼むと申すべく候。左様に申して苦しからざる謙信なり

簡単に言うと「もしもの場合は謙信を頼れ」と言っているのである。驚くほどの信頼ぶりである。

八幡原史跡公園にある信玄・謙信一騎討ちの像
八幡原史跡公園にある信玄・謙信一騎討ちの像

信玄と謙信は川中島で長く敵対していたことから、お互いを快く思っていなかったという説もある。実際、謙信は信玄が父親を追放したり、謀略を駆使して敵を貶めたりするのを知り、激怒したと伝えられる。

しかし、この記述を目にすると、戦を通じて次第にお互いを高く評価するようになっていった、という説のほうを私は取りたい。

大義名分あっての戦

謙信は義の武将と言うだけあって、その合戦には明確な大義名分があった。

例えば、第四次川中島の合戦は村上義清や小笠原長時の、関東出兵のときは関東管領・上杉憲政を助けるための戦いであり、自分の利益を追求するものではなかったのである。

その神がかった強さと、義に篤く毘沙門天を熱心に信仰したことが相まって、いつしか「軍神」という呼び名が定着したのであろう。

酒豪にして文化人

謙信は戦に強いだけではなく和歌や書にも通じ、特に和歌については公家の近衛稙家(たねいえ)から和歌を学んでいたとされる。

また、衣料の原料となる「青苧(あおそ)」を領内で栽培し、全国に販路を拡大していた。ちなみに、この青苧の販売は越後に莫大なる利益をもたらし、佐渡の金と並んで貴重な収入源となり、謙信の領国経営センスの良さを今に伝えている。

そんなわけで、謙信は京の公家達との交流も深く、教養ある文化人としても知られていたのである。

意外な面としては源氏物語を始めとする恋愛物を好んだといい、雅歌(恋歌)を詠むのも得意であったらしい。

また、謙信が大酒飲みであったことを示す資料がいくつか残されているが、『上杉家文書・上越市史特別篇』には公家達と酒を酌み交わしたとの記述がある。

そこには、近衛前嗣(さきつぐ)の「この間公方(将軍・足利義輝)と景虎(謙信)が私の家に来て、大酒を飲んで夜を明かした」という記述が見られる。

大酒飲みの上杉謙信のイラスト

考えてみれば、謙信はこの当時関東管領の職にあり、関東管領は鎌倉府長官である鎌倉公方を補佐する役職であるから、れっきとした室町幕府の一員なのである。

室町幕府が京に置かれたため、公家との関係が浅からぬ状況なのは理解できるが、それにしてもこの当時の謙信と近衛家・将軍の関係の親密さには驚かされる。

戦に強いだけではない、謙信の人間的な魅力の大きさが垣間見えるようなエピソードではないだろうか。

謙信が人身売買?

越後、佐渡 の両国の編年史料集である越佐史料によると、上杉軍が小田城を攻略した際に、捕虜にされた人たちが謙信の指示によって売買されたとの記述が残る資料がある。

正義を重んじる謙信に似つかわしくない記述ではあるが、高坂弾正が口述させたと言われる武田信玄の一代記『甲陽軍鑑』にも「越後へ侵攻して女子供をさらって召使にした」というような記述もある。

しかもそれを非難する内容ではなく「信玄公の御威光」であるとか、「甲斐の生活が豊かなのは信玄公のお陰」であるという、どちらかと言うと称賛するような記述なのである。

また、ルイスフロイス『日本史』にも「(戦において)人さらいも頻繁に行われている」とある。このことからも、当時としては人身売買が至極当たり前の行為であり、非難される行為では全くなかったようである。

正義を重んずる謙信のイメージが強すぎることで、このような行為を行なったということを受け入れにくいという側面もあるのではないだろうか。時代変われば「正義」も変わるという好例であろう。

上杉軍の略奪行為

藤木久志氏は、その著書『雑兵たちの戦場』において、

上杉謙信は越後の民衆にとっては他国に戦争と言うベンチャービジネスを企画実行した救い主であるが、襲われた関東など戦場の村々は略奪を受け地獄を見た
出典:藤木久志 著『雑兵たちの戦場』

とし、別の側面から見た上杉家の施政について述べている。

ただ、敵の領地における略奪・放火と言った行為は戦国時代には当たり前のように行われていたから、上杉軍が特別に残虐であったわけではない。

しかし、関東における上杉と北条の覇権争いは150年にも及んだため、正義のための戦いとはいえ、領民にとっては迷惑この上なかったであろう。謙信のクリーンなイメージが意外性を高める要因になっているのは否定できまい。


「敵に塩を送る」はビッグビジネス?

謙信の「正義」を重んずるとの評判を高めているのが、信玄に「塩を送る」と言うエピソードではないだろうか。

信玄と敵対した今川が北条と組んで武田との塩の取引を停止した際、謙信は次のように言ったという。

「近国の諸将貴方へ塩を入るるを留め候由、承り候、近比卑怯の挙動と存候。
弓矢を執って争うこと能わざる故とぞんずるなり。某に於いては、只幾度も運を天に任せ、勝敗を一戦の上に決せんこと存じ候え、塩の儀は何程にても、某が領国より相送りべし」

簡単に言うと今川・北条が武田と戦を構えず、塩を売らないという手に出たのは卑怯である。何なら越後から塩を送りましょう、というところか。

この美談とされている話には、実は裏がある。正確に言うと、謙信は塩を「送った」のではなく「売った」とされている。

北条と今川からの塩の注文が上杉に一手に渡ったのだから、その利益たるや甚大であったに違いない。美談の裏にはビッグビジネスが存在していたあたり、謙信の非凡なる抜け目なさを感じる。

謙信はそのあまりの強さと義に篤いところから、多分に神格化されてしまった面が強いが、戦国大名として十分な領国経営手腕と、したたかさを備えた名将だったと言うのが私の見立てである。


【参考文献】
  • 乃至政彦『上杉謙信の夢と野望:幻の「室町幕府再興」計画の全貌』(洋泉社、2011年)
  • 佐藤正英訳『甲陽軍鑑』(ちくま学芸文庫、2006年)
  • 藤木久志 『雑兵たちの戦場―中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日新聞社、1995年)
  • 『越佐史料』

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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