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京都民は誰でも知ってる!三条の有名待ち合わせ場所・土下座像とは一体?

京都・三条の鴨川近く、京阪三条駅すぐに「土下座像」と言われる銅像があるのをご存知でしょうか。京都市民にとっては待ち合わせ場所としても有名で、「○日○時に土下座像前でね!」など日常的に使われるスポットです。

あまりに風景に溶け込んでいる土下座像なのですが、初めてこの像を見ると、この像は何?と不思議に思う方も多いかもしれません。ではこの像は一体何に土下座をしている誰の像なのでしょうか?

改めてその謎について調べてみました。

土下座像の正体は?

高山彦九郎の正体

この像は高山 彦九郎(たかやま ひこくろう)という人物。1747年に生まれた、江戸時代後期の尊皇思想家です。

その思想は幕末に注目を浴び、吉田松陰などによって「尊王攘夷思想」へと発展していきました。吉田松陰たち、いわゆる「志士」に多くの影響を与えたと言われています。

高山彦九郎は18歳で京へのぼり、学問に勤しみました。三条大橋を通ったとき、皇居(現在の京都御所)の方角に平伏していたといいます。

学者や画人、公家などに出入りして学問を学び、その後各地を旅して巡り、遊説を行いました。多くの人物と交流を持ち、様々な思想を学んだといいます。京では岩倉具選宅に寄留した記録も残っており、光格天皇にも拝謁したのだとか。

しかし公家から厚遇を受けたことが幕府の警戒を呼び、監視を受けることに。九州各地を旅した後、交流のあった薩摩藩を頼ろうとするが退けられ、一時はあらぬ疑いをかけられ捕縛までされてしまったといいます。

結局は筑後国久留米の友人宅で自刃し、最期を遂げました。享年46歳。各地を旅し、学んだ様子は日記に残され、伝記として今も残っているといいます。

後に与えた影響

吉田松陰は、彦九郎のことを知り、その思想や生き方に感銘を受けました。手紙の中で、「彦九郎は武士の手本のような人物である」と評していたそうです。

吉田松陰は不遇の生涯でしたが、松陰に学んだ弟子の高杉晋作や久坂玄瑞も、高山彦九郎の思想に傾倒し、尊王運動をしていました。高山彦九郎の墓を訪れていることも分かっています。

このポーズは土下座ではない?

両手をついている姿から土下座をしているとみられ、「土下座像」呼ばれていますが、この姿は実は京都御所に向かって拝礼をしている姿です。

土下座というと頭まで下げていなければなりませんが、この像の高山彦九郎は御所の方角を見つめていますよね。高山彦九郎は三条に足を運ぶ度に御所の方角に向かい、膝をついて拝礼をしていたため、その姿が銅像になったと言われています。

その立派な拝礼姿から、和歌にも詠まれるほど有名だったといいます。

「大御門(おおみかど)その方(かた)向きて橋の上に頂根(うおね)突きけむ真心たふと」

橘曙覧(たちばなあけみ)

この高山彦九郎像は1928年に建てられました。しかし第二次世界大戦時の1944年に金属回収令により引き渡されてしまい、その後再建。現在の銅像は2代目になります。

土下座像の真実

いわば明治維新の先駆者でもあったといえる高山彦九郎。その思想を受けた吉田松陰ほど知名度は高くありませんが、後の日本全体に影響を与えた人物であったことがわかりました。

改めて見ると、確かにまっすぐな目で御所に拝礼する立派な姿の銅像であったことがわかります。

土下座というと失礼に当たるかもしれませんが、それでも京都民に親しまれてきた銅像。今度土下座像前で待ち合わせるときは、その目線の先をともに見てみてはいかがでしょうか。


【参考文献】

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  この記事を書いた人
ゆかた さん

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