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【やさしい歴史用語解説】「元寇防塁」
- 2023/11/10
鎌倉時代中期、博多湾一帯に築かれた石積みが「元寇防塁(げんこうぼうるい)」です。そもそも防塁が築造されたきっかけは、鎌倉幕府が味わった苦い経験にありました。
文永3年(1266)のこと、元の皇帝・クビライから日本に対して国書がもたらされます。内容は「国交を結んで親しくしたい」というものでしたが、その末尾には「もし聞き入れないなら討伐する」という意味が書かれていました。
かねてから南宋と交わりのあった日本にとって、それは大いに警戒すべき出来事です。
それから幾度も使者が派遣されるものの、時の執権・北条時宗はこれを黙殺し続けました。とうとう業を煮やしたクビライは日本侵攻を実行に移し、文永11年(1274)になると、朝鮮半島経由で大軍を九州へ送り込んだのです。
あらかじめ侵攻に備えていた日本軍ですが、博多湾へ易々と上陸を許してしまい、苦戦に陥りました。九州の武士たちが奮戦したおかげで何とか撃退に成功しますが、再び侵攻に備えねばなりません。
そこで新たに設置されたのが「異国警固番役」と呼ばれる軍役です。九州の御家人が交代で警護の任に就くもので、より防備を強化しようという狙いでした。
そしてもう一つ、防衛の要となったのが石築地と呼ばれる防塁の築造です。博多湾沿岸に総延長20キロにわたって築かれ、元軍の上陸を阻止しようという目的でした。高さと幅はおおむね2メートルほどあり、内部には小石を詰めて水はけを良くしていたそうです。
また当時の主力武器は日本軍・元軍ともに弓矢だったこともあり、攻守に優れた防衛設備でした。防塁によって敵が放つ矢を防ぎつつ、こちらは身を隠しながら矢を放てますから、守る側とすれば絶好の陣地だったことでしょう。
弘安4年(1281)、元軍がまたしても九州へ襲来してきました。前回を遥かに凌ぐ大軍だったようです。ところが延々と続く防塁を見た元軍は大変驚きました。これでは上陸できそうにありません。
一方で日本軍は意気軒高でした。特に伊予の武将・河野通有は勇敢だったらしく、防塁を背にして砂浜に陣を敷き、敵の軍船を前に一歩も引かない姿勢を見せたのです。人々はこれを「河野の後築地」と呼んで褒め称えたとも。
さて、上陸が叶わなかった元軍は、仕方なく博多湾外に浮かぶ志賀島に上陸して大宰府をうかがいます。ところが日本軍は逆襲に転じ、海と陸から一斉に攻撃を仕掛けました。余りの勇猛さに元軍は志賀島を脱し、別働隊の江南軍と合流するべく鷹島へ向かうしかありません。ここでも元軍は日本軍の奇襲を受けたあげく、最後は暴風によって壊滅してしまうのです。
元寇防塁の跡は、博多湾一帯に散在していますが、特に「生の松原地区」のものが良好に保存されています。
ちなみに「蒙古襲来絵詞」の中で、肥後の御家人・竹崎季長が防塁の前を馬上で進む場面が出てきますが、この生の松原の情景だということです。
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