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【やさしい歴史用語解説】「上士」と「下士」
- 2024/03/01
武士を頂点としたヒエラルキーが完成し、身分制度が固定化された江戸時代ですが、同じ武士層の中でも身分の違いがありました。それが「上士(じょうし)」と「下士(かし)」に代表される家格の違いです。
おおむねどの藩にも身分に応じた序列は存在しましたが、時として「上級武士 VS 下級武士」による反目が起こっています。その顕著な例が土佐藩と薩摩藩でした。
江戸時代以前の土佐国は長宗我部氏が治めていましたが、関ヶ原の戦い(1600)で改易(= 懲罰的な意味をこめて所領・所職を取り上げること)されてしまいます。そこで山内氏が新たな藩主として入国しますが、長宗我部氏の家臣だった一領具足たちは大いに反発し、長宗我部氏の復帰を求めて一揆をたびたび起こすのです。これには山内氏も手を焼き、強引な手段に訴えたうえで一領具足を抑え込みました。
※ 一領具足(いちりょうぐそく)
戦国時代、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)のころから、土佐国(高知県)に見られた下級の在郷家臣。
(出典:コトバンク)
その後、一領具足たちは山内氏の家臣として召し抱えられますが、その待遇は手厚いものではありません。いわゆる郷士(下士)として低い身分しか与えられませんでした。土佐藩の上級武士である上士と比較すれば、まったく虫けら同然の扱いだったといいます。
- 上士と下士が道で行き違えば、下士は上司に道を譲らねばならず、頭を下げること
- 下士は雨の日でも下駄を履いてはいけない
- もし上士に対して下士が無礼に及べば、手討ちにしてもかまわない
など、下士たちは武士のプライドを傷つけるような仕打ちに憤り、上士に反発の目を向けたのだとか。
また経済的に困窮した下士が「武士株」を売ることも多々あり、そのような者は「地下浪人」と呼ばれて冷遇されたそうです。
同じような状況は薩摩藩でも見受けられます。戦国時代の薩摩は「外城制」といって、内城と呼ばれた鹿児島を中心に支城をいくつも設置して軍事ネットワークを築いていました。
やがて江戸時代になると「一国一城令」が出され、城そのものは無くなるのですが、制度そのものは残りました。
藩内には113に及ぶ拠点(外城)があり、それぞれに外城士と呼ばれる下士たちが居住していたといいます。もちろん火急の際に大量の兵を動員するシステムだったのですが、平時には役に立ちません。彼らは農業に従事しつつ有事のために備えていました。
薩摩藩は武士の比率が多いことで知られています。実に人口の4割が武士であり、そのほとんどを外城士が占めたとも。鹿児島城下には城下士と呼ばれる上士たちがいました。彼らは半農半士の外城士を蔑む気風が強かったとされ、薩摩でも同じ武士同士が反目し合ったといいます。
さて、幕末になると幕藩体制が動揺を見せ、武士の世は終わりを迎えようとしました。そして本来なら蔑まれる存在だった下士たちの逆襲がはじまります。
土佐藩では下士出身だった武市瑞山が「土佐勤皇党」を結成。尊王攘夷の流れに乗って藩内の保守派と結びつきます。やがて藩政を動かすほどの実力を付け、藩主や勅使に同行するほどの存在になりました。
程なくして土佐勤皇党は崩壊するものの、低い身分の者が国の行く末すら左右するという時代を印象付けたのです。
薩摩では明治10年(1877)に西南戦争が起こり、城下士を中心とする不平士族たちが挙兵しました。これに対して新政府軍として参加したのが外城士たちです。下級武士として蔑まれた外城士たちは奮戦し、ついに士族たちの反乱を鎮圧してみせました。
奇しくも日本最後の内乱は、かつての上級武士と下級武士との対決の場となったわけですね。
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