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坂本龍馬と妻おりょうは日本初の新婚旅行に!旅行ルートや時期は?

幕末に活躍した志士、坂本龍馬。その生涯や、妻の「おりょう」とのエピソードはよく知られています。特に寺田屋騒動はドラマや書籍になるほど有名であり、妻おりょうの名が広く知られるようになったきっかけでもあります。

寺田屋騒動でより強い絆に結ばれた二人は旅行に行くことになり、これが日本ではじめての新婚旅行でした。二人はどこでハネムーンを過ごしていたのでしょうか? 気になるルートや、またその時期を調べてみました。

ふたりの出会い

龍馬とおりょう(楢崎 龍)は、京都で出会います。おりょうは寺田屋という旅館で働いており(養子に入っていたといわれています)、その寺田屋には多くの志士が通っていました。その中の一人が坂本龍馬です。

一般的には寺田屋騒動がきっかけとなり二人は結婚した…と思われていますが、この説は後におりょう本人が否定しており、おりょうによるとふたりは元治元年(1864)頃に出会い、同年の8月初旬に、内祝言をあげたといいます。

おりょうの回顧では、龍馬と初めて会ったときに名前を聞かれて紙に書くと、名前が同じだったことがわかり、親しくなったことがきっかけだそう。その後もおりょうは寺田屋で働いていました。

寺田屋騒動

寺田屋騒動といえば、坂本龍馬が寺田屋という旅館にいたところ襲撃された事件。慶応2年(1866)1月23日に起こりました。

幕府方の見回りが寺田屋にいた坂本龍馬に気付き、突入して捕らえようとしていました。そのとき入浴していたおりょうは、窓外に多数の敵がいることに気付き、とっさに服を一枚羽織っただけの姿で龍馬と仲間に逃げるように知らせました。

この行動により、坂本龍馬は応戦しつつも脱出することができたといいます。龍馬は薩摩藩邸に身を寄せ、西郷隆盛をはじめとする薩摩藩に匿われることになりました。

新婚旅行出発までの経緯

そのときに龍馬は両手指に重傷を負いました。一時は命も危なかったといいます。しかしいつまでもこのままとはいきません。薩摩藩・西郷隆盛の提案で、薩摩の温泉で刀傷治療することになりました。その治療と世話のために、妻のおりょうも同行することに。

当時は夫婦で旅行をするというのは一般的ではありませんでした。そのため「日本初の新婚旅行」といわれています。

新婚旅行のルート

龍馬一行は慶応2年(1866)3月4日、薩摩藩の船「三国丸」で大坂から出発しました。おりょうのほか、中岡慎太郎や三吉慎蔵たちも一緒だったといいます。そして下関で中岡、三吉の2人は下船。龍馬とおりょうはそのまま鹿児島へと向かったそうです。

鹿児島に到着した龍馬たちは、薩摩藩士・吉井幸輔に迎えられました。吉井の案内で、二人は日当山温泉、塩浸温泉、栄之尾、霧島などを巡りました。霧島では犬飼滝を見物したり、高千穂峰に登ったりしたといいます。そこで霧島山山頂の天の逆鉾を引き抜いてしまうといういたずらをして大笑いしたのだとか。

この新婚旅行は、おおよそ一カ月半くらいの期間でした。

新婚旅行後…

旅行の後、おりょうは下関や長崎などで生活しており、京都に戻った龍馬とは離れ離れに。これもおりょうが安全に生活できるようにという龍馬の配慮だったのかもしれません。

この新婚旅行から約2年後、坂本龍馬は京都の近江屋にて暗殺されてしまいます。おりょうはその後に再婚しましたが、のちに龍馬との思い出を回顧しています。二人の結婚生活は短かったですが、この旅行は唯一二人がゆっくり楽しんで過ごせた時間だったのかもしれません。

おわりに

最近では海外旅行に行きにくくなったこともあり、国内の旅行先が人気です。二人の新婚旅行先をめぐるツアーもあるので、そのルートを巡るのも良いかもしれません。

寺田屋があった伏見には、龍馬とおりょうの夫婦の像があります。ここから二人が新婚旅行へ出発したと思うと幸せな瞬間なのですが、その後を思うと少し切ない物語でもありました。

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  この記事を書いた人
ゆかた さん

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