大坂城豊臣の怨霊…徳川への恨みは数々ござる
- 2023/07/18
城に怪異話は付き物です。手討ちにされて恨みを呑んで死んだ者、人柱にされた者、まして戦国の城ともなれば戦に敗れた者の恨みつらみがまとわりついています。劫火の中で崩れ落ちた大坂城には豊臣の恨みが山ほど詰まっていました。
西国大名抑えの基点となった大坂城
豊臣大坂城が焼け落ちた後、徳川氏が新たに築いた大坂城には、決まった城主は置かれませんでした。江戸時代、この城を西国支配の拠点と位置付けた徳川氏により、5~10万石程度の譜代大名が大坂城代に任ぜられ、大坂城勤めの幕府役人を統轄、西国大名にニラミを効かせます。さらに城には幕府正規軍の大番(幕府の軍事部門の職制のひとつ。)12組のうち2組が順番に交代駐留し、5千石クラスの大身の旗本や1万石クラスの譜代大名が大番頭をつとめ、これら2組を率いました。
これだけではまだ心許ないと考えたのか、幕府はさらに加勢として1~3万石クラスの大名で“加番(かばん)”という警備役を設け、中小屋(なかごや)加番・山里加番・青屋口加番・雁木坂(がんぎざか)加番の4つの応援部隊を1年任期で城に詰めさせました。大坂船奉行配下の水軍も編成し、最高責任者の大坂城代には、事あれば将軍の命令が無くとも西国諸大名に出陣を命じられる権限を与えます。
また、城内には大量の武器・弾薬が備蓄され、城の搦め手青屋口の煙硝蔵には黒色火薬2万1985貫600匁(約82トン)と、鉛の弾丸43万1079個、火縄3万6640筋が納められていました。
実はこれが悪かったのです。というのも、万知3年(1660)6月18日、この煙硝蔵に雷が落ちて大爆発を引き起こしました。
すわ秀吉公の怨霊か
青屋口の石垣の巨石5つが内堀や本丸・二の丸も飛び越え、大手口に落下、建物に甚大な被害が生じます。他にも積んでおいた材木が天満や備前島まで吹っ飛び当たった子供が死んだり、城内でも加番大名だった土岐頼行が怪我を負ったり、家臣5人が焼け死んだりと、29人の死者・130人余りの負傷者を出す大惨事になったのです。あおりを喰らって大坂の町でも1400軒余りの家が倒れ、被害を受けた家は数えきれないほどです。この18日と言うのは「太閤秀吉公の忌日」に当たっており、落雷は豊国大明神の御霊の怒りと幕府関係者は恐れおののきました。
寛文5年(1665)正月2日、今度は大坂城大天守の北側の鯱に雷が落ちて出火、炎は次第に下層へと燃え広がり、天守全体を焼き尽くしてしまいます。人々はこれも「太閤殿下の祟りだ」と言い合い恐れました。昔から雷と怨霊は結びつきやすいですからね。
秀頼の怨霊
嫡子である秀頼の力になってもらいたい、と家康の孫娘・千姫を貰い受けた秀吉。しかしその期待は見事に裏切られ、大坂の陣(1614~15)では、秀頼をはじめ淀殿・大野治長らは炎上する大坂城山里曲輪で自害して果てました。家康はその後、徳川家発祥の地と伝わる上野国世良田郷の満徳寺に侍女を遣わして豊臣家との縁切りを済ませ、千姫は元和2年(1616)伊勢国桑名城主・本多忠政の嫡男である忠刻(ただとき)に再嫁します。夫・忠刻の播磨転封に従って姫路城に移り住んだ千姫、しかし嫡男の幸千代(こうちよ)が3歳で夭折したころから運命に影が差し始めました。その後、千姫は流産を繰り返し、占わせてみると先夫である秀頼の祟りとの卦が出ます。
驚いた千姫は、母お江や姑淀殿が帰依する伊勢内宮慶光院周清(しゅうせい)尼上人に秀頼の霊の鎮魂を願います。周清尼は秀頼の菩提を弔い、祟りを解くように祈りますが、寛永3年(1626)忠刻が31歳の若さで亡くなります。秀頼の恨みの深さを知った千姫は落飾して天樹院となり、秀頼が側室に産ませた娘・天秀尼を保護することで秀頼の遺霊を慰めようとしました。
大坂城の二の丸にあった西大番頭の屋敷の庭に、“胞衣(えな)の松”と呼ばれる松の木がありました。高さは一丈約3.8mほどですが、枝は10間約18mにも地を這うように広がっています。
ある時、家臣が主人の命令で大きな枝を1本切り落としたところ、その夜の夢に衣冠に身を正した貴人が現れ、告げました。
「我こそは正二位右大臣豊臣秀頼である。そなたが伐った松の根元には私の胞衣が埋めてある、あの松を損じてはならぬ。今後はこの事を皆に伝えて枝1本たりとも切る事の無きように」
“胞衣”とは胎児を包んでいる卵膜と胎盤の事で、生まれた赤子の体の一部・霊魂の一部と見なされ、屋敷の吉方に大切に産める風習がありました。驚いた家臣は主人にこれを告げ、以後主人は毎月1日と15日・28日には松にお神酒を備え祈るようになります。
城と共に滅んだ人々の恨み
大坂城には他にも「暗闇の間」や「明半(あけかけ)の間」「禿雪隠」「婆々畳」「壁に塗り込められた葛籠」「誰も寝ざる寝所」などいくつもの怪異が語り継がれます。本丸周辺の内堀は水の無い空堀ですが、大坂夏の陣で豊臣方の将兵が流した血が土中深く沁み込んでおり、夏雨のそぼ降る夜には決まって陰火が飛び交いました。大坂城に務めた常陸国麻生藩主・新庄直規は、深夜将兵が争う喧噪や人馬の駆けちがう物音を良く耳にしたと言います。
大坂城付近のさる屋敷には「明けずの間」と呼ばれる部屋があり、大坂城が落城した夏の陣以来一度も開かれず閉ざされたままでした。戸が壊れたりするとすぐにその上から板を打ち付け塞いでしまいます。この部屋は城が落城するときに逃れて来た奥女中たちが自害して果てた場所だと言われ、部屋に入ればもちろん、部屋の前で立ち止まっただけでも恐ろしい目に合うと言われています。
おわりに
臨終の床で家康の手を取り「秀頼が事、返す返すも頼み申し候」と言い残して亡くなった秀吉。その願いをあっさり裏切った徳川に対する秀吉・秀頼親子の恨みは深かったでしょうね。【主な参考文献】
- 北川央『大坂城』新潮社/2021年
- 二本松康宏/編著『城郭の怪異』三弥井書店/2021年
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