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【やさしい歴史用語解説】「邪馬台国」
- 2023/11/10
当時の日本にはまだ文字がなく、中国の史書の一部である『魏志倭人伝』の記述の中から推察する他ありません。
邪馬台国があったのは弥生時代後期にあたり、朝鮮半島から人々が渡来し、新しい文化や習俗が伝わった時期でした。狩猟中心だった生活様式が一変し、農耕を主体とした食糧自給形態へ移行しつつあったようです。鉄の製造技術も伝わり、農業技術が飛躍的に進歩したといいます。
人々の生活が豊かになってくると、同じ土地に集まって暮らすようになり、「ムラ」が形成されていきました。複数のムラ同士が交易したり、往来が増えることで、ムラ同士の連合体制が出来上がっていきます。
こういった連合体制の形態が、やがて「クニ」へと成長していきました。
クニが興ると、リーダーシップを発揮する「王」の存在が不可欠となります。より豊かな土地を求めてクニ同士で争いが起こり、やがて実力を蓄えたクニは海外と交流を持つようになります。現在の福岡平野を支配していたとされる奴国(なこく)もその一つでした。
実力があった奴国は2世紀初めまで主導権を握っていたようですが、やがて衰退して伊都国(いとこく)にリーダーシップを奪われる形となります。
さらに2世紀後半になると、西日本一帯を巻き込んだ内乱が起こりました。これが「倭国大乱」と呼ばれるもので、『魏志倭人伝』によると、クニ同士が相争って大いに乱れたといいます。また戦乱を収めるだけの王がいなかったようです。
そして180年頃、卑弥呼(ひみこ)の登場によって内乱に終止符が打たれました。男王が国を治めることが慣習だったところ、あえて女王を即位させたのです。
とはいえ、実力で女王となったわけではありません。戦いに明け暮れた諸国間で話し合いがもたれ、あくまで共立という形で推戴されたのでしょう。
通説によると、卑弥呼は邪馬台国の女王ということになっていますが、邪馬台国とは諸国連合の一国家に過ぎません。伊都国から邪馬台国へ主導権が移った段階で統一政権の女王となったものと考えられます。
卑弥呼は「鬼道」という呪術を用いて人々を惑わし、その霊力をもって国を導いたとされていますが、古代シャーマニズムだったという説が有力です。神や祖先の霊と交信し、その意思を現世の人々へ伝えるという巫女の役目を負っていました。
仏教が伝来していない日本では、こうした祖先崇拝や自然崇拝が盛んだったこともあり、やがて日本古来の神道へと発展していくのです。
また、卑弥呼は人間の死にまつわる病気・埋葬・慰霊などに深くかかわっており、こうした死者儀礼やシャーマニズムを通じて、人々をまとめていったとされています。
邪馬台国では卑弥呼を中心に、積極的な外交を展開していました。238年には難升米(なしめ)という者を魏へ派遣し、「親魏倭王」の金印と大量の銅鏡を与えられています。また、2年後には魏の使者が倭国を訪れたことで詔諸と印綬を授けました。
やがて卑弥呼が亡くなると魏との交流も途絶し、日本は再び内乱の時代へ突入します。
いわば卑弥呼は宗教的権威であると同時に、優れた外交官のような存在だったのかも知れません。卑弥呼の存在がなければ、邪馬台国を中心とした統一政権は、簡単に瓦解するほど脆弱だったことを意味するのです。
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