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なぜ 安土桃山城は焼失したのか

安土城大手道の石段
安土城大手道の石段
織田信長が精魂を費やして作り上げた安土城。しかし本能寺の変で信長が亡くなった13日後に、原因不明のまま焼失してしまいます。焼失の経緯や理由については、今なお謎のままなんですよね。それでもいくつかの説があるのですが、どれも決定的なものとはなっていません。

よく全てが無くなってしまったかのように言われますが、焼失したのは城全部ではありません。焼けたのは天主や本丸などの中心部のみで、その後に織田秀信が二の丸に入城しています。城としては二の丸を中心として充分に機能していたそうです。

放火犯は明智秀満だった説

これは『秀吉事記』や『太閤記』の記述が元になっている説です。この時に安土城を守っていたのが、明智光秀の重臣である明智秀満でした。豊臣秀吉の大返しによって光秀が打ち破られたと知ると、城を逃げ出すのですが、その際に放火したとされています。

火が出た6月14日、まだ秀満は安土山にいたことになっていて、天守に火をかけたと『太閤記』には記載されています。ただ、この説を支持するのは少しむずかしいところがあるんです。そもそも秀満は敗走した訳ではないんですよね。6月13日には、光秀の加勢をするために出陣しています。そして翌日に堀秀政軍と交戦に敗れて坂本城に入っているのです。

安土城が燃えた15日当日の明智秀満は、敵軍に包囲された坂本城で籠城をしていました。結局はその夜に自刃するのですが、その際に光秀が収集した持ち物を堀直政に引き渡し、その後に坂本城に火を放っています。それから考えても、明智秀満放火説は秀吉側によっての創作というか、明智秀満に濡れ衣を着せたと考えられますね。まさに歴史は勝者が作るといったところでしょうか。

放火犯は織田信雄だった説

明智秀満の後に、安土城に入ったのが信長の次男となる織田信雄です。その際に、明智の残党を炙り出すために城下に火を放ったとされ、その時に吹いていた強風が原因で天主に延焼したという説です。この説は、ルイス・フロイスの報告や『日本西教史』に記載される、当時の宣教師の記述によるものです。その中に、織田信雄のおろかさ起こした放火だった、とあるのですが真実はいかにですよね。

ただこの説においても、そんな強風であったのに延焼したのが天守と本丸のみで、二の丸などに延焼していない点など、説明のつかない点が多々あります。それと、安土城の城下町に火災が起こったという資料もないのですけどね。

野盗によって放火された説

これは、安土桃山時代の重要史料の一つである『兼見卿記(かねみきょうき)』が根拠となっている説です。6月13日に出陣した明智秀満軍、山崎の戦いの重要性からほぼ全軍が出たと考えられ、安土城はもぬけの殻となった可能性が高いです。

そこに城内の品々を略奪するために野盗や土民たちが押し入り、最後に放火して逃げたというもの。裏を考えすぎると「そんなこと?」って思ってしまいますが、意外と現実的かもしれません。守衛がいなくなった城なら、野盗が侵入したといても全然おかしくないですね。なお、信長自慢の秘蔵の茶器などは本能寺に運んでいたので、おそらく安土城内には価値のあるものは残っていなかったはずです。

落雷説によって延焼した説

これはあくまで自然現象の落雷によって安土城が焼失したとする説です。長い歴史の間では、多くの天守だけでなく、神社仏閣などが落雷によって焼失しています。徳川幕府の天下普請によって再築された大坂城の天守も落雷で焼失しているんですよね。天守が落雷で焼失すること自体は珍しいものではないので、可能性として考えれば十分考えられるでしょう。しかし、あまりにタイミングが良すぎなことが気になるところではありますが…。

安土城図(大阪城天守閣所蔵、出典:wikipedia)
安土城図(大阪城天守閣所蔵、出典:wikipedia)

歴史学者はどう見ている?

日本の歴史学者であり、文化史家の林屋辰三郎さんは、略奪を目的とした土民が放火した、としておられます。そして歴史学者の熱田公さんも、山崎の戦いが起こった後の混乱の中、略奪目的で侵入した野盗たちが放火したと考えるのが自然だと話しています。両氏とも、上記の「野盗説」を支持されておられます。

また「野盗説」ではなく「織田信雄説」を支持されているのが、歴史学者の高柳光寿さんです。『秀吉事記』や『太閤記』が書かれた時期は、織田信雄がまだ大きな勢力を持っていた頃のこと。これから考えると、秀吉と信雄の関係から信雄を顧慮して明智秀満のせいに仕立て上げたものではないかと語られています。

明智光秀によって勃発した「本能寺の変」の動機は未だ謎のままですが、安土城焼失の原因も謎のままなんですよね。

放火を首謀したのは豊臣秀吉だったのでは?(筆者の仮説)

これは筆者が考えている仮説なんですが…。本能寺の変に関しても安土城の焼失に関しても、豊臣秀吉が首謀者だったのでは、と考えています。

本能寺の変のことはさておいて、安土城を焼失させたのは豊臣秀吉の指示によるものだった…

このことが想像できるのが、八幡山城(はちまんやまじょう)城を築く際に、安土城に残る石垣や建物を全て八幡山城移させたことによります。さらには城下町をも八幡山へ移転されているのです。まるで、織田信長の威信が残る安土城をなかったことにするためのようですね。この謀反を思い立った時から、信長の痕跡を全て消し去るつもりでいたのでは?

のちに行われた清洲会議でも、秀吉が実権を握ったような振る舞いが見られますし、天下統一を目の前にした織田信長とその遺構などは既に無く、今は自分が天下人になるんだと言っているようですね。

ただあくまで個人的な見解ですので何の証拠もございませんのであしからず…。

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  この記事を書いた人
五百井飛鳥 さん
聖徳太子に縁のある一族の末裔とか。ベトナムのホーチミンに移住して早十数年。現在、愛犬コロンと二人ぼっちライフをエンジョイ中。本業だった建築設計から離れ、現在ライター&ガイド業でなんとか生活中。20年ほど前に男性から女性に移行し、そして今は自分という性別で生きてます。ベトナムに来てから自律神経異常もき ...

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