「織田長益(有楽斎)」当代随一の茶人にして武将!?信長の弟の中でも異色の存在!

織田長益は、織田有楽斎の名前で知られています。千利休の高弟(利休七哲)であり、自ら茶道の有楽流を大成しました。織田家の一員でありながら、秀吉、家康と渡り歩き、最後まで生き残っています。

世渡りが上手、というイメージが先行しているのか、創作においてあまり良い描かれ方はされていません。長益はどういう人物だったのでしょうか。彼の足跡から、その生涯を見ていきましょう。


信長の異母兄弟としての前半生

天文16(1547)年、織田長益は尾張の織田信秀の十一男として生まれました。母は側室の一人と推定されています。

13歳上には、あの織田信長がいます。生まれ年はお市の方(母は信長と同じ土田御前)と同じなので、信長とは異母兄弟に当たります。


幼少時代のことは、あまりわかっていません。若い頃から病弱だったため、戦にはあまり参陣できなかったという説もあります。元亀3(1572)年には、信長の嫡男・信忠の軍団に加わっていたようです。


天正2(1574)年、ここで長益が表舞台に登場しました。この年に尾張国の知多郡に所領を与えられ、知多郡の大草に居城を築き始めています。


知多郡は、尾張国の中でも防衛上で重要となる地点でした。ここを任せられる以上、信長から能力的にも人間的にも信頼を得ていたと見ることが出来ます。


長益は織田一族内での席次はかなり高い位置にありました。


天正9(1581)年の京都御馬揃えでは、織田信忠が筆頭、長益は6番目に続いています。翌10(1582)年の左義長では、5番目となっていました。血筋としても、関係上から言っても、信長にだいぶ近い位置にいたことは間違いありません。



また、合戦においても活躍していきます。同年には信忠に従軍して甲州征伐に出陣。木曽口から鳥居峠を陥落させ、降伏した深志城(松本城)の受取役を務めました。ついには森長可らと上野国に出兵して、国峰城主・小幡信貞を降伏させています。


かつて甲斐武田家は信長や徳川家康も苦戦した相手です。長益に軍事的能力があったことは勿論ですが、所々で交渉術を用いていました。長益は武将として理性的な側面を有していたようです。


本能寺の変での長益は…

織田の源五は人ではない

長益の人生は、ここまでは順風満帆だったと言えるでしょう。しかしここで、大きな転機が訪れます。


天正10(1582)年6月2日に、本能寺の変が起きました。長益は信忠とともに二条御所に滞在していたのです。


「本能寺焼討之図」(楊斎延一画)
「本能寺焼討之図」(楊斎延一画)

『義残後覚』・『明良洪範』によると、長益は信忠に自害を進言して逃亡したとか。京童(京都の民衆の噂)はそれを「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて 我は安土へ逃ぐる源五」と嘲った、と言います。


しかしこの記述をそのまま鵜呑みにしていいかは疑問が残ります。


二条御所では、織田長益以外にも前田玄以や水野忠重、山内康豊、鎌田新介(信忠の介錯人)が脱出に成功していました。
前田玄以は信忠の遺命によって逃れています。その後、彼は信忠の嫡男・三法師(織田秀信)を岐阜城から清洲城へ移動させました。


長益の逃亡も、前田玄以と同じく、信忠の命令である可能性があります。取り立てて長益だけが逃げた、という見方は無理があるかも知れません。


兎にも角にも、ここで長益は命からがら安土城へ逃げ、そこから岐阜へさらに逃亡したようです。


秀吉の家臣として

変後、長益は甥の織田信雄(信長の次男)に仕えました。天正12(1584)年、織田信雄・徳川家康連合と羽柴(豊臣)秀吉との間で衝突した小牧・長久手の戦いにおいて、長益は再び表舞台に現れます。


このときの彼は信雄配下として徳川家康に協力。大野城の山口重政を支援した他、下市場城攻略にも参加しています。蟹江城に篭る滝川一益に、降伏開城を仲介して受け入れられています。


このように長益は軍事だけでなく、和睦交渉における折衝役も務めていました。彼が織田・徳川、羽柴の中で一定以上の声望と信頼を集めていたことが窺えます。


この後は羽柴秀吉に接近したようで、越中の佐々成政と秀吉の対立の際にその間を周旋するなどしています。また、天正16(1588)年には、秀吉に認められて豊臣姓を下賜されました。


天正18(1590)年、小田原征伐後に織田信雄が改易されたのを機に、長益は秀吉の御伽衆として摂津国に二千石を領しています。この頃に剃髪して有楽と称するようになりました。


この時、姪の淀殿は秀吉の側室として寵愛を受けていました。長益は抜け目なく淀殿の庇護者として関係を築いており、鶴松出産の際にも立ち会っています。


関ヶ原の戦いでの活躍

慶長3(1598)年、秀吉が世を去りました。


豊臣政権内部では、政治的対立が表面化します。家康と前田利家が対立した際、長益は徳川邸の警護を担っています。この時点で長益は、家康が勝つと踏んだようです。


同5(1600)年、ついに関ヶ原の戦いが勃発します。長益は長男・長孝と450の兵を率いて参戦。大山伯耆の部隊を撃退、長孝は戸田重政・内記親子の首を取っています。


長益自身も石田家臣の蒲生頼郷を討ち取りました。長益隊は、西軍の有力武将を首を三つ取ったことになります。寡兵でしたが、かなり大きな戦果を挙げました。


戦後の論功行賞で、長益は大和国に3万2000石、長孝は美濃国に1万石を与えられています。いずれも大名級の所領です。それほど長益隊の功績が家康に評価されたと言えるでしょう。


関ヶ原の戦後も、長益は豊臣家に出仕していました。ここで淀殿の補佐をしていたようです。
この時、長益は建仁寺の正伝院を再建し、院内に茶室・如庵を設けました。ここは現在、国宝に指定されています。


長益は戦や外交で活躍して来ましたが、茶人としての活動が強調される場面は珍しいものでした。


国宝茶室 如庵(じょあん)
国宝茶室 如庵(じょあん)

大坂の陣と最期

穏健派の領袖として

慶長19(1614)年、豊臣家と徳川家との間で大坂冬の陣が起こります。


この時の長益は穏健派として豊臣家を支える中心人物でした。豊臣家が堺を占拠した際、捕らえた今井宗薫を許して解放しています。


しかし一方で、嫡男の頼長は強硬派であったようです。頼長は片桐且元殺害を計画した上、織田信雄を豊臣方の総大将にしようと画策するなど、過激な行動を取っていました。自然と長益と頼長は対立していきます。


冬の陣が終結したとき、長益は大野治長と共に徳川方との和議を締結しています。ここで家康に人質を出していますが、豊臣内部では再戦の機運が高まっていました。


大坂退去と隠棲生活

夏の陣を前に、頼長は自らを司令官にするように主張しますが、他の豊臣方の諸将によって反対否決されています。その後まもなくして頼長が大坂を出奔。このことで、長益も大坂城からの退去を決めました。


長益は家康と秀忠に言っています。「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味」と。それからまもなくの元和元(1615)年5月、夏の陣で豊臣家は滅亡しています。


長益は大坂城の退去後に京都に隠棲。そこで茶の湯に専念して生きるようになります。同年8月には、四男と五男にそれぞれ1万石を分け与えました。長益本人は隠居料の1万石だけを残しています。


そして同7(1622)年、長益は京都でその生涯を閉じました。享年は75歳と伝わります。


有楽町の由来

東京都の千代田区には、現在も長益に因んだ「有楽町」という地名が残されています。これは長益の号に由来していると言います。


高名な茶人であった長益は、関ヶ原後に数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領してます。その邸跡地が有楽原と呼ばれ、明治時代に有楽町と名付けられた、という説です。


有楽町の数寄屋橋交差点。数寄屋橋御門もこの近くにあった。
有楽町の数寄屋橋交差点。数寄屋橋御門もこの近くにあった。

しかし近年になって、これは俗説と言われるようになりました。長益がここに住んだという記録はありません。有楽町は明治になって隣の永楽町と共に成立した町名のようです。


まとめ

織田長益は、後世の創作においてあまり良い扱いをされていません。そのせいもあってか、人々にあまり良いイメージを持たれていないようです。


茶人で文弱、裏切り者であった、という捉え方がほとんどでした。
しかし実像としての長益は、同時代の武将の中でも際立った働きをしています。織田家の一族として、長らく信忠と軍団を支え、甲州征伐では大きな活躍を見せました。小牧・長久手では秀吉陣営と互角以上に渡り合った上で和議を結んでいます。


関ヶ原では寡兵で大きな戦果を挙げました。類まれな軍事的才能があったことは間違い無いようです。茶人として優れた武将は、数多くいましたが、長益は利久から相伝を受けています。


長益は決して戦だけに捉われず、時流を見据えて行動していました。だからこそ最後まで生き残り、自分の家を残せたとも言えます。


ある意味で長益も、織田家の血脈を守り通した、と見ることも出来るのではないでしょうか。



【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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