【やさしい歴史用語解説】「惣村」
- 2026/03/10
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日本が初めて中央集権国家となった時、土地はすべて「国」のものとされ、国民は等しく戸籍に基づいて耕作が義務付けられ、「租税」を納めていました。これを「班田収授法」と呼んでいます。
しかし時代が下ってくると、制度は形骸化して各地に荘園ができるようになりました。もはや戸籍ごとの租税徴収が不可能になったことから、土地単位での徴収へと移っていきます。これを「名田(みょうでん)」と呼びますが、そこで働く人々は田畑ごとに分かれて暮らしていたようです。そのため、まだ「村落」という概念はありませんでした。
やがて中世に入ると農業技術が飛躍的に向上したことで、農民たちの暮らしぶりも豊かになり、水利権の確保や安全保障の面から村落が形成されるようになります。また、荘園領主の力が弱まったこともあり、それぞれの村落は自立の傾向を強めていきました。特に畿内において顕著だったらしく、南北朝の動乱を経て各地へ広まっていきます。これが「惣村」という形態に発展しました。
惣村における人々の繋がりとは「地縁的結合」というもの。いわば「同じ村に住んでいるから、村を共同で守るのは当たり前」という考え方です。
村の運営や共同祭祀、年貢納入、あるいは自衛やインフラ整備など全て自分たちで行う自治組織ですから、畿内を中心に小さな自治体がたくさんあったと解釈できますね。また「村掟」を定めて規律を示し、もし破る者があるなら厳罰に処すなど、惣村の統制を目指しています。
ところで惣村は自治体ですから、村を運営するためには役員が必要です。それが「乙名・沙汰人・若衆」という役職でした。まず「乙名」は「年寄」とも呼ばれ、いわば惣村の指導者となるべき存在です。主に年長者や有力者が職に就きましたが、トップが一人だと独善的な運営になりかねません。そこで複数の乙名が選挙によって選出されていました。
次に「沙汰人」ですが、元来は荘園制時代に租税徴収にあたる下級荘官だったようです。中世に荘園制が衰えると、惣村における相談役や世話人のような立場となりました。
そして「若衆」は惣村を構成する若年者のこと。体力があることから耕作や普請だけでなく警察・消防といった役割までこなしていたようです。
こうした強固な惣村の繋がりは、支配層に対してモノ言う農民として存在感を表わしています。農民が個人で訴えるより集団の特性を生かした方が効果的ですし、何より年貢を納める基準が村単位ですから、支配層も言い分を無視できなかったというのが実情でしょうか。
例えば年貢の減免や徳政令の要請など、惣村ごとに自分たちの権利を主張しました。もし一つの惣村だけで力不足なら、付近にある複数の惣村を巻き込んで言い分を通したそうですから、中世における民衆のパワーは凄まじいものがあります。
彼らが団結して訴えを起こすことを「土一揆」と呼びますが、室町時代には「正長の土一揆」や「嘉吉の徳政一揆」など、為政者を震えがらせるような騒動がたびたび起こりました。
しかし戦国時代になると、戦国大名の一円支配が広まったことで、惣村は徐々にその姿を消していきます。そして豊臣秀吉が「太閤検地」を実施するに及び、惣村は解体されるに及びました。とはいえ江戸時代における「村請制度」や「村の共同祭祀」などに、かつての惣村の片鱗が見え隠れするのです。

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