「泉親衡」頼家の遺児・千寿丸(栄実)を奉じて反乱を計画!和田合戦のきっかけをつくった鎌倉幕府御家人

泉親衡のイメージイラスト
泉親衡のイメージイラスト
伊那源氏の一族に生まれ、一介の地方豪族から鎌倉幕府の御家人に上り詰めた男がいます。のちに鎌倉を揺るがす乱の首謀者・泉親衡(いずみ ちかひら)です。

泉氏は早くから源義朝と関わり、彼の配下として活動していました。しかし平治の乱で義朝は敗死。泉氏は雌伏の時を経て、源平合戦が始まると再び源氏に与して戦っています。鎌倉幕府成立後、親衡は御家人として政権を支えていました。ところが頼朝死後は権力闘争が激化。北条氏が幕府の権力中枢を掌握していきます。不満を持った親衡は北条義時を倒すべく挙兵を計画。和田義盛や八田知家の一族からも関与者を出すほどの事件に発展しました。

親衡は何を目指し、何と戦い、どう生きたのでしょうか。泉親衡の生涯について見ていきましょう。

泉氏と源氏とのつながり

治承2(1178)年、泉親衡(ちかひら)は信濃国に本拠を置く武士・泉公衡(きみひら)の子として生を受けました。幼名あるいは通称は小次郎と称していることから、次男である可能性もあります。

泉氏は信濃国の小県郡にある小泉庄を本願地とする一族です。清和源氏の初代棟梁・源経基(経基王)の五男・満快(みつよし)の曾孫・源為公(ためとも)が信濃国伊那郡に土着して伊那源氏の祖となりました。伊那源氏からは伊奈氏や依田氏などを輩出。泉氏は伊奈氏の一族から分派したようです。


泉氏が歴史の表舞台と関わりを持ったのは、河内源氏との出会いによってでした。

親衡の祖父・泉快衡(よしひら)は、正室に横山党の小山経隆の娘を迎えています。横山党は、武蔵国多摩郡横山荘を中心に発展した武士団で、源義朝(頼朝の父)の配下になったようなので、河内源氏との繋がりがあっても不思議ではありません。

泉氏、源頼朝に接近

保元・平治の乱を足がかりに平氏が台頭すると、源氏やその麾下にあった坂東武士団も平家に圧迫され、雌伏の時を強いられることになります。

しかし、治承4(1180)年、後白河法皇の第三皇子・以仁王の挙兵をきっかけに、源頼朝が伊豆国で兵を挙げます。一方、信濃国でも木曽義仲が打倒平家を掲げて立ち上がり、泉氏は同族の井上氏などと共に源氏方として参戦しました。

地理的状況から、泉氏は当初、木曾義仲に従ったものと考えられますが、寿永2(1183)年には頼朝と義仲の間で対立が勃発。泉氏が頼朝に接近したのは、この前後だと推察されます。

この後、寿永4(1185)年の壇ノ浦で、頼朝は平家を滅ぼし、源氏の世が到来。親衡ら泉氏も大きく政治と関わりを持つこととなるのです。

鎌倉幕府の有力御家人として

しかし、武家政権が形作られていく過程で、鎌倉の内部対立は深刻になっていきました。

平家滅亡後まもなく、頼朝と義経の兄弟が対立。頼朝は奥州藤原氏に圧力をかけて義経を殺させます。さらに弟の範頼に疑いをかけて流罪に処し、のちに誅殺するなど源氏の身内に対して厳しく臨みます。

泉氏も源氏出身の武家ですが、頼朝からは決して粗略には扱われていません。建久元(1190)年11月、頼朝が上洛。付き従った兵には、泉親衡の同族と思われる泉八郎が加わっていました。鎌倉殿(鎌倉の支配者)に従う御家人の中で、泉氏は源氏出身ということもあって信頼を得ていたようです。

建久3(1192)年、頼朝は征夷大将軍に就任。公的に鎌倉に幕府を開くことを許されます。泉氏も頼朝の下で幕府御家人として源氏の血筋から幕府の中枢近くで活躍したことでしょう。しかし、建久10(1199)年に頼朝は突如病没してしまいます。

まだ若い源頼家が第2代鎌倉殿として頼朝の地位を継承したことで、これを補佐すべく、北条氏ら宿老たちによる十三人の合議制で運営されることになるのです。

頼朝の死後、幕府内で権力闘争はじまる

しかしまもなく、宿老たちによる鎌倉幕府の内部の主導権争いがはじまり、鎌倉殿をも巻き込んでいきます。

正治2(1200)年には、御家人66名が宿老の梶原景時を訴追。失脚した梶原は京を目指すも、途中で一族もろとも討たれてしまいます。さらに建仁3(1203)年には、宿老・比企能員が北条時政らに殺害されています。

このとき頼家の子・一幡も巻き添えになって死亡したため、頼家は激怒して御家人たちに北条氏討伐を命じますが、応じる人間はおらず。逆に翌元久元(1204)年に伊豆国修善寺に追放され、ほどなくして北条氏の放った刺客によって命を奪われています。

新体制は源実朝が三代鎌倉殿となり、北条時政が執権として政権の中枢を掌握。しかし、今後は北条氏の内部でも軋轢が生じていきます。

元久2(1205)年、北条時政の娘婿・平賀朝雅が畠山重保(重忠の子。時政の外孫)を讒訴。これを受けた時政は畠山重忠ら一族を滅ぼすと、さらに源氏の血筋である平賀朝雅を新しい鎌倉殿として擁立しようと画策します。しかし時政の子・北条義時と政子がこれに反対して時政を伊豆国へ追放しました。

ところがまだ政治闘争は終わりません。泉親衡は現状に不満を持ち、新しい局面を描いていました。

親衡は巨大な居館を有していた?

ところで泉親衡は鎌倉において、どんな立ち位置にあったのでしょうか。

親衡は相模国に広大な居館(中和田城とも)を持っていました。敷地は南北400メートル、東西200メートルに及びます。居館では戦における守りも考慮され、土塁や空堀も構築されたつくりになっていました。泉氏の本貫地は信濃国小県郡です。居館は鎌倉に出仕するために建築されたと考えられます。

周辺地域には、京都祇園社から牛頭天王を勧請して須賀神社を建立。信仰していた長福寺も建てられていました。雨乞いに使った池も現在に残っており、親衡が生活の拠点として暮らしていたことを窺わせます。

居館の存在から、親衡らが豊富な財力を持っていたことが確実です。鎌倉幕府からも広大な居館を建築する許可を得ていたでしょうから、厚遇されていたことがわかります。

北条義時の打倒計画「泉親衡の乱」

泉親衡は北条氏による権力掌握を苦々しく思っていたのでしょう。北条義時打倒を計画していました。

建暦3(1213)年、僧侶・阿静坊安念が御家人・千葉成胤に北条義時らの殺害打倒計画を打ち明けます。安念の兄は、泉親衡の郎党・青栗七郎でした。千葉成胤は安念を捕縛して身柄を義時に引き渡します。

そこで安念の口から語られたのは、恐るべき計画でした。

泉親衡は源頼家の遺児・千寿丸を旗頭に掲げて挙兵、北条義時を打倒することを考えており、協力者は300人以上に上っていたのです。

計画には宿老・和田義盛の息子や八田知家の甥も関与していました。いずれも北条氏によって捕縛されます。後々、この事件が和田義盛が挙兵に追い込まれる和田合戦の遠因になるなど、与えた影響は甚大でした。

親衡は鎌倉の違橋に潜伏していたものの発覚。追捕の兵と戦闘を繰り広げてそのまま逃走、行方不明となりました。この一連の出来事が「泉親衡の乱」です。

このとき、鎌倉幕府内部では源氏の血筋が脅かされていました。北条氏による政権掌握が続くことで、泉氏ら源氏の一族が排斥されるという危機感もあったものと考えられます。

乱後、親衡は武蔵国に千寿丸と共に落ち延びたようです。程なく静海と名乗って余生を過ごしたと伝わります。文永2(1265)年に同地で病没。享年八十八。墓所は瑤光山最明寺にあります。

おわりに

泉親衡は鎌倉政権内ではあまり存在感がないと思われたかも知れません。しかし親衡の末裔を名乗る泉氏は、信濃国で存続していました。

戦国時代、泉弥七郎こと尾崎重歳の娘・蘭子は、樋口兼豊(直江兼続の父)に嫁いでおり、一説には直江兼続の母ともされています。豊臣秀吉にも認められたほどの人物が、泉氏から出ていたかもしれないのは非常に興味深いものがありますね。


【主な参考文献】
  • 横浜市泉区HP 「長福寺と伝泉小次郎館跡」
  • 板野博行『眠れないほどおもしろい吾妻鏡』 三笠書房 2021年
  • 日本博学倶楽部『源平合戦・あの人の「その後」』 PHP研究所 2013年
  • 『日本城郭体系第6巻 千葉・神奈川』 真人物往来社 1980年
  • 塚田正明『長野県の歴史』山川出版社 1975年

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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