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【やさしい歴史用語解説】「兵糧攻め」
- 2024/10/16
今回は合戦についての歴史用語です。城攻めの手法には「力攻め」「水攻め」「火攻め」「謀略」など様々なものがありますが、もっとも残酷だとされるのが「兵糧攻め」ではないでしょうか。
読んで字の如く、敵の補給路を断ちつつ食糧がなくなるのを待つ作戦ですから、結果的に飢餓を引き起こす状況となります。城内では餓死者が続出し、それこそ惨憺たる有様となりました。
ちなみに戦国時代の合戦を見ると、長篠・沖田畷・賤ヶ岳など、いずれも城が絡んでいるパターンが多いことに気付きます。なぜなら中世以降、地域支配の拠点となったのが城でした。戦国大名たちは本拠地以外に各地へ支城を置き、息のかかった家臣を配置することで効率良く地域ごとの支配をおこなっていたからです。
そのため敵の力を削ぐには、拠点となる城を攻めることが手っ取り早い方法でした。ただし力攻めだけでは味方の損失も大きいですし、何より効率的ではありません。そこで長期間にわたって敵城を包囲しつつ音を上げさせる兵糧攻めが多用されました。
とはいえ、兵力と財力に余裕がなければ兵糧攻めはできません。何ヶ月にもわたって軍勢を拘置するわけですから、それだけ軍費が掛かります。また味方の士気を維持するために統制力も必要となるでしょう。
ここで「兵糧攻め」の失敗例をご紹介します。
天文9年(1540)、出雲の尼子氏が安芸へ攻め入り、毛利元就が守る吉田郡山城を囲みました。
この時、尼子勢は3万もの軍勢を引き連れていたといいますから、なかなかの大軍です。しかし兵糧攻めを開始してから4ヶ月経っても城を落とすことは出来ず、かえって反撃を食らい大損害を出しているのです。
この裏には尼子軍の苦しい事情がありました。出雲の国衆を動員して出陣したものの、まったく長期戦を予期していませんでした。配下の国衆たちは兵糧を自前で準備していましたが、戦いが長引くにつれて欠乏していきました。また糧道を毛利方に抑えられたことで補給がままならなくなったのです。
もし大将・尼子詮久が長期戦を見越して補給を確保していたなら、無様な姿を晒すこともなかったでしょう。結果的に大内氏の援軍もあり、元就は城を守り切りました。
この時の毛利氏のように、籠城する側にとって頼みの綱は援軍です。どれだけ堅固な城に籠もっていても、援軍が来なければ干上がってしまうでしょう。結果的に悲惨な結末を迎えることになります。
その好例が三木城と鳥取城の悲劇です。いずれも羽柴秀吉が攻めた城ですが、周囲に付城をいくつも築き、補給ルートを遮断した上で兵糧攻めに取り掛かりました。
さらに秀吉は潤沢な軍資金を駆使して近隣の米を買い付け、城方が購入できないように仕向けました。一方、城方が期待した援軍は、とうとうやって来ることはありませんでした。城内は飢えに苦しみ、餓死者が続出しています。
鳥取城のケースにおいては、人肉食が起こるという事態も起こりました。現代の価値観で是非を問うことはできませんが、当時の史料をひも解いても筆舌に尽くしがたい光景だったようです。
この両城の場合、秀吉(織田)の財力による完璧な包囲網と、城に援軍が来ないという状況が相まって、歴史上類を見ない悲惨な光景が繰り広げられたのです。
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