「佐野基綱」木曽義仲遺児を匿う? 頼朝に疎まれ不遇? 苦難の道歩んだ佐野氏初代

 佐野基綱(さの・もとつな)は下野南部の佐野荘(栃木県佐野市)を拠点とした鎌倉時代初期の御家人で、戦国時代まで続く佐野氏の初代です。

 源頼朝の信頼が厚かった小山3兄弟(小山朝政、長沼宗政、結城朝光)と同じく名将・藤原秀郷の子孫ですが、華々しい活躍はなく、正月に鎌倉の屋敷が火災で焼けたという災難が目立つ程度。さらに、木曽義仲の遺児・義高を匿っていたという怪しい伝説もあります。

 いったい、どんな人物なのでしょうか。

佐野氏は秀郷流名門、名城・唐沢山城や家宝を受け継ぐ?

 佐野基綱は佐野氏初代。生没年不詳ですが、活動したのは源平合戦期から鎌倉時代初期です。頼朝が挙兵した治承4年(1180)は一人前の武将として活動していたと思われます。

 ちなみに『平家物語』によると、従兄弟の足利忠綱はこのとき17歳。没年は『田原族譜』で暦仁元年(1238)となっていますが、この書物は随分と後の時代に書かれたものです。基綱はその少し前に死去した可能性があります。


         藤原秀郷
          ┃
         (6代略)
          ┃
         足利家綱
       ┏━━┫
      有綱 俊綱
┏━━┳━━┫  ┃
信綱 広綱 基綱 忠綱
┏━━┫
景綱 国綱

※参考:佐野基綱の略系図

 父は足利有綱(戸矢子有綱)。藤姓足利氏です。藤姓足利氏は平将門の乱(935)を鎮圧した藤原秀郷の子孫で、同じ足利荘(栃木県足利市)を拠点としながら、足利尊氏ら室町幕府将軍を輩出する源氏の有力一門・源姓足利氏とは全く別の一族。藤姓足利氏は平家に加勢して没落する一方、その一門でありながら頼朝に従った佐野基綱やその弟たちは鎌倉幕府御家人として生き残ります。弟の阿曽沼広綱や木村信綱は周辺地域を苗字の地としています。

野木宮合戦で本家・藤姓足利氏は没落

 治承5年(1181)閏2月、または寿永2年(1183)2月、野木宮合戦が起きます。

 下野・野木宮(野木神社、栃木県野木町)で小山朝政らが頼朝の叔父・志田義広を破った合戦です。志田義広の敗走で関東から反頼朝勢力が一掃されますが、佐野基綱をはじめ、父・足利有綱、弟の阿曽沼広綱と木村信綱も小山朝政に味方しました。

 つまり頼朝支持勢力です。逆に反頼朝派・志田義広に加勢したのは従兄弟・足利忠綱。治承4年(1180)、以仁王(もちひとおう)の挙兵を鎮圧した際には、平家陣営の若武者として激流の宇治川を馬いかだで渡河し、大いに名を馳せた足利忠綱でしたが、その後も反源氏、反頼朝の立場を貫いたことが裏目に出ました。

『前賢故実』に描かれた足利忠綱(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『前賢故実』に描かれた足利忠綱(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

藤原秀郷の伝承は佐野に集中

 戦国時代、佐野氏の居城だった唐沢山城跡に藤原秀郷を祭神とする唐沢山神社があり、秀郷の甲冑と伝わる「避来矢」(ひらいし)を所蔵しています。飛んでくる矢を避けるという号(呼称)を持つ鎧。江戸時代の火災で焼け、兜や胸板など鉄製部分だけが残っています。足利忠綱も使ったとされ、藤姓足利氏から佐野氏に引き継がれたのです。11世紀後半~12世紀前半の様式とみられ、秀郷の時代には合わないものの、足利忠綱着用は十分考えられます。

 また、唐沢山城そのものに藤原秀郷の築城伝説があり、佐野基綱が相続したとする古文書もあります。現在残る見事な石垣は安土桃山時代のもので、敵襲に備え、かぎ型に曲がった進入路「虎口」など典型的な戦国時代の山城でした。佐野氏成立当初から居城だったとは考えにくく、秀郷築城や基綱相続はやはり伝説でしかないようです。このころの佐野氏の居城は唐沢山の麓・吉水地区にあった平城・清水城とみられます。

 栃木県佐野市には藤原秀郷に関する伝承、民話も数多く残されています。これも佐野氏が秀郷流を強く意識していたことの表れでしょう。

不遇の佐野氏初代…縁起悪い元日の屋敷炎上

 文治4年(1188)元日、鎌倉の屋敷が火事に遭います。風は強く、「焔(ほのお)飛ぶが如し」という状態で数十軒に延焼。佐野基綱の屋敷は鶴岡八幡宮近くにあり、頼朝も心配になって八幡宮に駆け付けました。

 正月早々、鶴岡八幡宮近くでの大火ですから、かなり縁起が悪い出来事です。さぞかし信心深い頼朝の機嫌を損ねたのではないでしょうか。

分家の後塵…鎌倉出仕は源平合戦後

 そのためでもないでしょうが、佐野基綱はあまり頼朝に重用されていません。

 『吾妻鏡』の記述では、元暦元年(1184)8月8日、源範頼(頼朝の異母弟)が平家追討のため鎌倉を出陣する際、従う武士の中に阿曽沼広綱の名はありますが、基綱の名はなし。元暦2年(1185)1月26日、九州に渡る源範頼の軍勢の中にも「浅沼四郎広縄」の名があり、これは阿曽沼広綱とみられますが、基綱の名はやはりありません。

 全員の名が漏らさず記されているわけでもないでしょうが、弟・阿曽沼広綱はしっかり名が残り、佐野基綱は不参加か、その他大勢の扱いです。

 また、文治5年(1189)7月19日、奥州合戦への鎌倉出陣の際は佐野基綱の名は弟の阿曽沼広綱よりもかなり後ろ。名の登場順が御家人としての勢力の大きさと比例するかは分かりませんが、源氏名門や北条父子、続いて三浦一族、小山一族と、頼朝が尊重している御家人の名が前にあるので、多少は家格や勢力の大小も反映されているようです。

歌川芳虎 作『奥州高館大合戦』(出典:wikipedia)
歌川芳虎 作『奥州高館大合戦』(出典:wikipedia)

 後の時代から見れば、佐野氏が本家で、阿曽沼氏が分家ですが、それぞれ独立して家を興したばかりのこの時期は本家・分家も明確ではなく、ひっくり返る可能性は大いにあったのです。少なくとも、頼朝が重用したのは弟・阿曽沼広綱でした。

 佐野基綱については、文治元年(1185)11月18日に鎌倉に出仕、屋敷もあてがわれたとする史料(『永島不伝内録』)があり、御家人として活動を始めたとはこの時期かもしれず、源平合戦に名が出てこないのもつじつまが合っています。この後、『吾妻鏡』でも文治3年(1187)8月20日に御家人としての活動が確認できます。

承久の乱の前に代替わりか

 鎌倉幕府と後鳥羽上皇が争った承久の乱が決着した直後の承久3年(1221)6月19日、鎌倉側の佐野太郎という武士が、弟とみられる次郎入道、三郎入道とともに敵将・錦織義継(にしごり よしつぐ)を逮捕しました。

 錦織義継は弓馬と相撲の名人で、常人を超える怪力でしたが、互角にわたり合える者として佐野太郎が登場、見事手柄を挙げました。この佐野太郎を佐野基綱と解釈する見方もありますが、基綱は承久の乱以前に死去したか隠居した可能性があります。

 建保5年(1217)、佐野氏が日光・中禅寺(栃木県日光市)に御殿を寄進する際の史料に国綱、景綱、宗綱、親綱と基綱の息子たちの名が並ぶことから、このころは基綱から嫡男の国綱に代替わりしていたとみられるのです。

木曽義仲遺児・義高が改名?謎の岩崎義基伝説

 佐野基綱に関する極めつけに怪しい伝説は、木曽義仲の嫡男・義高を「岩崎義基」と改名させ、匿ったというものです。

 義高は木曽義仲の嫡男。頼朝と義仲の駆け引きで鎌倉に送られます。形式上は頼朝の長女・大姫の婚約者ですが、実質的には人質。それでも幼い大姫と義高は大変仲良くなりました。ところが、頼朝と義仲は決裂。平家を追い出して京を占領した義仲は結局、朝廷とも対立、寿永3年(1184)1月、頼朝が派遣した鎌倉軍に討たれました。

 さらに4月、義高は鎌倉御所を脱出したものの追跡する頼朝の家来に入間河原(埼玉県入間市)で討たれます。このとき義高12歳、大姫7歳。婚約者を失った大姫の嘆きは深く、20歳で病没しますが、縁談を一切受け付けず、生涯、木曽義高への思いを持ち続けました。

 ところで、岩崎義基伝説では、入間河原で討たれたのは義高の身代わり「海野平太」で、義高は滝口二郎、名古屋三郎、林野六郎、望月八郎ら家臣とともに佐野に逃げ延びたというのです。

 身代わりとして討たれた海野平太は、海野幸氏(小太郎)の身内でしょうか。海野幸氏は鎌倉御所に残って義高になりすまし、義高の逃走を助けます。義高の身代わりとなる覚悟でしたが、意外にも許されました。その後、弓の名手として頼朝の気に入りの御家人の一人に成長します。木曽勢残党も生き残る道はあったのです。

 一方、佐野基綱に保護された木曽義高。「基」の字を与えられ、「義基」と改名。同じ「よしたか」と読ませるところがポイントです。

 岩崎氏は佐野荘西部を拠点とした佐野氏家臣ですが、古文書に「木曽ノ直伝」とあり、木曽義仲との結びつきを感じさせます。また、古く「御所之入」といわれた土地に義高と妻の供養塔とされる2基の五輪塔があります。

 死んだはずの義高が生き延びていたのはいいが、妻も娶っていたと知れば、大姫はどんなにショックを受けるか、考えただけでもゾっとします。

木曽勢残党が生んだ歴史ロマンか

 佐野基綱が木曽義仲遺児・義高を匿ったという伝承はロマンあふれる歴史ミステリーですが、やはり信憑性は低いとみるべきでしょう。頼朝ににらまれるだけで危険で不用意、しかも理由がありません。ただ、海野幸氏の例もありますので木曽勢残党が佐野氏配下に入り込んだ可能性はあります。伝説を生む下地になったのではないでしょうか。

おわりに

 佐野基綱の謎多き生涯はロマンあふれる伝説に彩られているのが面白いところです。

 子孫の佐野氏は戦国時代まで様々な傑出した人物を輩出し、中でも基綱の次男・佐野景綱の孫に佐野常世がいます。佐野源左衛門という方が分かりやすく、講談の基本演目「鉢の木」でもおなじみです。

 それまで、あまり目立っていない佐野氏から鎌倉武士の理想像「いざ鎌倉」の物語が生まれたのです。


【主な参考文献】
  • 五味文彦、本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)
  • 出居博『戦国 唐沢山城―武士たちの夢の跡―』(佐野ロータリークラブ)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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