「源頼光」酒吞童子、土蜘蛛退治…伝説の京武者、実は意外な大物と深い絆
- 2024/04/29
源頼光(みなもとのよりみつ、948~1021年)は京で活躍した平安時代中期の武士です。酒吞童子討ち、土蜘蛛退治といった伝説、「金太郎」こと坂田金時をはじめとする「頼光四天王」で知られています。史実では摂関家の家臣であり、藤原道長に仕えていました。上級貴族の警護、側近として貴族としての地位を固めつつ、強力な兵力を持つ武士の基本的なスタイルを確立した最強の「京武者」です。
「光る君」藤原道長の絶頂期支えた側近
源頼光は清和源氏初代・源経基(つねもと)の孫です。父は源満仲(みつなか)。異母弟に源頼親、源頼信がいます。清和天皇の子孫ですから満仲、頼光父子とも貴族としての性格も強く、一方で根拠地と兵力を持つ武士としての性格も固めていきます。貴族であり、武士であるというのは源氏や平氏など名門武家の当主クラスであれば何ら矛盾しません。
源経基
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満季 満政 満仲
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頼信 頼親 頼光
※参考:源頼光の略系図
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満季 満政 満仲
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頼信 頼親 頼光
※参考:源頼光の略系図
摂津・多田荘(兵庫県川西市など)を相続している頼光は摂津源氏の祖。異母弟・頼親は大和源氏の祖、頼信は河内源氏の祖となり、それぞれ武士団を形成していきます。頼光の子孫・摂津源氏は源平合戦の火ぶたをきる源頼政を輩出。河内源氏は源義家や源頼朝につながります。
長徳の変、道長政権奪取時に緊急動員
伝説に彩られた頼光ですが、史実の姿は摂関家の家臣です。藤原道長の父・兼家が寛和2年(986)6月、花山天皇を出家させた謀略に関与している可能性があります。兼家の後押しで居貞(おきさだ)親王(三条天皇)が皇太子になり、頼光は春宮権大進(とうぐうごんのだいじん)に就きます。春宮大進は皇太子の秘書官組織・春宮坊の3等官で、権官は定員外の官職。頼光はその後、春宮大進、春宮亮(次官)と昇進し、譲位後を含め三条天皇に長く仕えます。また、永延2年(988)9月には兼家に名馬30頭を献上しました。
藤原道長との関係では、正暦元年(990)、兼家の葬儀で騒動があり、右往左往する兄・道兼(兼家三男)に対して落ち着いていた道長(兼家五男)を見て、頼光が感心するという逸話があります。しかし、実際に道長に仕えるようになったのは長徳の変がきっかけのようです。
長徳元年(995)に道長の兄、道隆(兼家長男)、道兼が相次いで病死します。摂関家の実権をめぐり、道隆長男で内大臣に出世している21歳の伊周(これちか)と30歳の権大納言・道長が争います。
長徳2年(996)1月、伊周、隆家兄弟が花山法皇の一行を襲撃し、2月に伊周の家臣が逮捕。4月には伊周、隆家兄弟が左遷され、道長が政治の実権を握ります。このとき、伊周派の暴発に備えて宮中警備に有力武将が動員されます。その顔触れは平維叙(これのぶ、平貞盛の養子)、平維時(平貞盛の孫)、源頼光、源頼親です。
伝説的なエピソードを除くと、実は、史料に残る武士らしい頼光の活動はこれっきりです。
道長の土御門邸再建で見せつけた財力
この後、藤原道長との主従関係が史料にみられるようになります。また、頼光は備前、美濃、但馬、伊予、摂津の国守(長官)を歴任。いずれも豊かな国で、うまみのある役職。人事権を持つ道長との関係を背景にこうした厚遇に恵まれたようです。長和2年(1013)、頼光は内蔵頭(くらのかみ)に就任。宮中の財産を管理する内蔵寮の長官で、職務の性格上、天皇の最側近が任命されますが、一方で何かと出費のかさむ職務でもあり、平安時代後期以降は国司を歴任した財力ある貴族が任命されることが多くなります。頼光はそのはしりでもあったようです。
そして晩年の頼光は凄まじい財力を見せつけます。
『源氏物語』の主人公・光源氏は臣下ではありえない出世を果たし、栄華を極めますが、その姿は藤原道長がモデルの一人ともいわれます。その絶頂期の長和5年(1016)7月、大火で道長の土御門邸が焼失しました。
このとき、頼光は必要な生活用品を全てそろえて見舞います。そして、寛仁2年(1018)6月、土御門邸再建祝いでも頼光の贈り物は京の人々の度肝を抜きました。見物するため人垣ができるほどで、藤原実資という貴族は日記『小右記』で「京の人々は連日見に行っている。比べるものはなく、かえって怪異というべきだ。道長の豊かさは帝王のようだ」と憤慨交じりに驚嘆しています。
頼光は治安元年(1021)7月19日に74歳で死去。勅撰和歌集『拾遺和歌集』にも和歌が選ばれている歌人でもありました。
酒吞童子討伐、土蜘蛛退治と名刀伝説
源頼光は、酒吞童子、土蜘蛛、鬼童丸(きどうまる)を退治する超人的伝説があります。京の人々によく知られ人物で、キャラクターがイメージしやすく、創作のネタにされたのかもしれません。毒酒でだまし討ち、酒吞童子討伐
『御伽草子』や『大江山絵詞』の酒吞童子討伐は頼光伝説の極めつけ。丹波・大江山(京都府福知山市など)をねぐらにした酒吞童子はしばしば京に現れて姫君を誘拐します。頼光と家臣・頼光四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武)が討伐隊を組織。一行は山伏に変装して酒吞童子に近づきます。饒舌に自分の身の上を語り明かす大の酒好きな酒吞童子。頼光らは酒宴の際に毒酒を飲ませて動けなくなった酒吞童子の首を取ります。胴から離れた首が頼光の兜に嚙みつきますが、何とか酒吞童子を討伐しました。
敵の策略は全てお見通し、鬼童丸征伐
鬼童丸は鬼同丸とも書き、鎌倉時代の説話集『古今著聞集』に登場します。頼光は弟・源頼信の邸宅に捕らえられていた鬼童丸を見て、「不用心だから鎖で縛った方がいい」と進言。縛られた鬼童丸はたやすく鎖を引きちぎり、頼光の寝室の様子をうかがいます。頼光はこれに気付いて、従者に「あすは鞍馬に参詣する」と言います。鬼童丸は鞍馬に先回りし、牛を1頭殺して体内に隠れて頼光を待ち伏せしますが、頼光はこれも気付き、渡辺綱が弓矢で牛を射抜き、牛の体内から飛び出し襲ってきた鬼童丸を頼光が一刀両断。みごとに退治しました。
なお、鬼童丸は酒吞童子の子とする伝承もあります。
妖怪の親玉、体長60メートルの巨大蜘蛛
絵巻物『土蜘蛛草子』では、頼光と渡辺綱は洛外北山の蓮台野で空飛ぶドクロに遭遇。後を追うと古い屋敷にたどり着き、頼光の前にさまざまな妖怪が出現します。さらに山奥の洞窟に体長約60メートルの土蜘蛛がいて、これが全ての怪異の正体。頼光主従は激しい戦闘の末、土蜘蛛の首をはね、退治しました。土蜘蛛の腹からは1990個の死人の首、脇腹からは無数の子蜘蛛が出てきて、さらにそれを探ると20個のドクロがありました。能、歌舞伎にもこの伝承を基にした演目があります。
「童子切安綱」「膝丸」「髭切」名刀にまつわる伝承
これら怪異話とセットになっているのが名刀伝説です。証拠の品として伝説をより面白くし、源氏嫡流に家宝として伝えられます。酒吞童子を斬った刀は「童子切安綱」。刃長約80センチで、作者は伯耆国大原の刀工・安綱。「天下五剣」の一つとされる名刀で国宝に指定されています。室町幕府将軍・足利氏から織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と戦国三英傑の手を経て江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の手に渡りました。さらに秀忠の三女・勝姫が松平忠直(結城秀康の長男)に輿入れする際、忠直に贈られました。現在は東京国立博物館所蔵。
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「膝丸」は幾度も呼び名が変わった名刀。頼光の父・源満仲が作らせ、試し斬りで罪人を斬った際、膝まで斬ったことから「膝丸」と名付けられました。土蜘蛛退治の後は「蜘蛛切」と呼ばれ、さらに源為義の代に、夜中にほえたとして「吼丸(ほえまる)」と改名。その後、源義経の手に渡り、熊野の春の山にちなんで「薄緑」とまた改名。義経死後は頼朝の手に渡ります。現在は所在不明。
頼朝の名刀「髭切」も「膝丸」と同時に源満仲が作らせた太刀。頼光が渡辺綱に貸し与えました。渡辺綱が鬼の腕を斬ったので「鬼切」。後に「友切」と改名、父・源義朝から受け継いだ頼朝が「髭切」の名に戻します。北野天満宮(京都府京都市上京区)所蔵の太刀「鬼切丸」が「別名髭切」として伝説を受け継いでいます。
渡辺綱、坂田金時ら猛者ぞろい「頼光四天王」
源頼光の伝説で重要なのが家臣団「頼光四天王」。渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武の4人です。 四天王の筆頭は渡辺綱。嵯峨源氏の源宛(あつる)の子で、生まれは武蔵・箕田村(埼玉県鴻巣市)。摂津・渡辺(大阪府大阪市中央区)に移り、渡辺氏の祖となります。剛勇な武士で茨木童子の腕を斬り落とす逸話があります。子孫の渡辺党には、源頼政の重要家臣・渡辺唱、渡辺競らがいます。
坂田金時は昔話の「金太郎」。まさかり(斧)を担いで熊の背に乗り、赤い腹掛けの少年で、伝説の舞台は静岡県小山町、神奈川県南足柄市などです。藤原道長に仕えていた下毛野公時(しもつけののきんとき)をモデルとする説もあります。
碓井貞光、卜部季武は平氏。碓井貞光は平良文(平将門の叔父)の子で、相模・碓氷峠(神奈川県箱根町)付近の生まれ。卜部季武は『今昔物語集』で平季武の名で登場しますが、坂上田村麻呂の子孫・坂上季猛と同一とする説もあります。
さまざまな史料に登場する別の顔
剛勇なイメージとは違った頼光像を示す物語があります。『今昔物語集』のキツネを射た話です。皇太子のときの三条天皇にキツネを射るよう命じられた頼光はいきなり辞退。自信がないから恥をかくというのです。
頼光:「若いときはシカなどに出会って射殺したこともありましたが、今はそういうこともしていませんので矢がどこに飛んでいくか分かりません」
しかも「こうしている間にキツネが逃げてくれないか」と心中も相当弱気です。結局は見事、キツネを射ますが、後々まで謙遜します。
頼光:「決して自分が射た矢ではない。神仏のご加護によるものだ」
物語は頼光を褒めたたえていますが、鬼を退治した超人的武将の姿とは少々かけ離れた逸話です。
『古事談』には、弟・源頼信が「わが主君・道兼公のため(ライバルの)道隆公を殺そうと思う」と言い、しかも成功疑いなしと自信満々のところを頼光が制止する話があります。武士的性格の濃い頼信に対し、冷静な頼光の姿が対照的です。
おわりに
源頼光は実像と伝説に大きな乖離があります。ですが、それも表裏一体。藤原道長の側近として政治的、経済的成功を収めたからこそ大きな武力を持つこともでき、武士として成長したのです。この時代、最も有名な武士だからこそ数々の伝説も生まれたのではないかと思います。
【主な参考文献】
- 元木泰雄『源満仲・頼光―殺生放逸 朝家の守護―』(ミネルヴァ書房)
- 倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
- 源顕兼編、伊東玉美校訂・訳『古事談』(筑摩書房)ちくま学芸文庫
- 武石彰夫訳『今昔物語集本朝世俗篇 全現代語訳』(講談社)講談社学術文庫
- 加来耕三『刀の日本史』(講談社)講談社現代新書
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