「天下人」といえば一般に、「豊臣秀吉」や「徳川家康」、あるいは大きくその道筋をつけた「織田信長」などの名前を思い浮かべる人が多いでしょう。
戦国時代当時の「天下」とは京の都のことを指し、京洛と近畿地方に影響力をもった人物も「天下人」と呼ばれる資格がありました。
近年、信長以前の最初期の天下人として周知されてきたのが「三好長慶」です。激しい下剋上の世でやがて三好氏の勢力も覆される運命にありますが、一時代を築いた長慶が居城とした山城の一つが「芥川山城」です。
今回はそんな、かつて近畿ににらみを利かせた芥川山城の歴史についてみてみましょう。
「芥川山城」とは現在の大阪府高槻市、三好山にあった山城です。
かつては単に「芥川城」と呼ばれていましたが、同市内にもう一つ同じ名前の城が存在したため、三好山所在の城を「芥川山城」として区別しています。
三好山は標高約183m、そこに設けられた芥川山城は南北約400m、東西約500mに及び、大阪府下最大級の山城としても知られています。
最初にこの場所に城を築いたのは室町幕府管領となる「細川高国」で、永正12(1515)年頃のことと考えられています。
古記録によると昼夜を通して工事が行われ、300~500人もの作業員が動員されたと伝わっています。
城主には細川氏家臣で摂津の国人「能勢頼則」が就き、およそ三代にわたり能勢氏が世襲したと考えられています。
次に芥川山城に拠ったのは「細川晴元」で、一向一揆勢との戦闘で一時淡路国に退避していたものの、天文2(1533)年に摂津へと復帰・入城します。
晴元は天文6(1537)年に「右京大夫」に任官、室町幕府管領となりますが、京との往来において芥川山城を重用したとされています。
天文8(1538)年、晴元の家臣であった「三好長慶」が台頭し、主君を京から放逐します。
芥川山城には長慶が一時入城したといいますが、晴元との和議によって退城。しかし両派の間での紛争は続き、天文16(1547)年、芥川山城は再び長慶の手にわたります。
長慶は一族の「芥川孫十郎」を城主に据えますが、謀反の嫌疑により天文22(1553)年に包囲戦を展開、孫十郎に代わって長慶自身が城主となりました。
永禄3(1560)年には長慶の子である「三好義興」が城主となり三好氏の拠点として継承されますが、永禄11(1568)年に「織田信長」の摂津攻めで落城。「和田惟政」が城主になります。
翌年、惟政は三好長慶の後継勢力である「三好三人衆」掃討の勲功により高槻城主を与えられ、芥川山城主には惟政家臣の「高山友照」が就任します。
しかし元亀2(1571)年、惟政は「中川清秀」「荒木村重」らに討たれ、子の「和田惟長」が高槻城主を継承します。その混乱に乗じる形で元亀4(1573)年、「高山友照・重友」父子が惟政から高槻城を奪取。
その際に芥川山城は廃城となったと考えられています。
大阪府下の大規模山城である芥川山城は2017年(平成29年)、日本城郭協会認定の「続日本100名城」に選定され中世~戦国期城郭の姿を伝える史跡として周知されています。
芥川山城は「三好政権の首都」とも例えられるように、政庁としての機能をもっていたことが知られています。
一般的に戦国期の山城には簡易的な構造物しかない場合が多いですが、主郭から出土した礎石により、少なくとも床張りの4つ以上の部屋を備えた本格的な建物のあったことが判明しました。
また、古記録には弘治2(1556)年に「三好義興」と「松永久秀」の陣所で火事があったと伝わり、実際に火災の痕跡が発掘調査で確認されています。
この時に久秀は京都・醍醐寺に関係する所から建物を移築したと伝えられており、山城でありながら立派な居館のようなものを備えていたことが想像されます。
このように芥川山城は単純な要塞というに留まりませんが、要所ごとに設置された堀切や土塁が効果的に作用する堅固な要塞というのが本来の性格です。
土塁といえば通常は横方向に壁上に構築されるものですが、ここでは「竪土塁」という珍しいタイプのものも見ることができます。
これは文字通り、曲輪や斜面に対して縦方向に設けられた土塁で、敵が斜面を迂回することを妨げるものとされています。
「最初の天下人」ともいわれる三好長慶をはじめ、多くの武将たちが重要な拠点と認識してきた芥川山城。
要塞としての山城から、政庁としての城郭への過渡的な姿を示す好例といえるでしょう。
※参考:略年表
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